雪模様の桜島が見える、今日のおいどん県です。
「知的障害があるんじゃない?」
「知的障害があると言われました」
これまで何度か聞いてきた言葉です。
前者は、支援員をしているときに普通のクラスで学んでいるものの学習に困難さを持つ生徒についての相談で担任や教科担から発せられた言葉です。
後者は、幼いお子さんを発達支援センターや療育の場に連れていくように促された親御さんが、そういう繋がった場で言われた言葉だったり、就学指導の場で言われた言葉だったりです。
これまで私に相談として発せられてきた「知的障害」という言葉は、ほぼ「学習が覚束ない」や「IQが低い」の同語として用いられ、私もそう受けてめて来たように思います。
その一方、そういう相談でやって来た子どもたちと接すると、学習面では覚束ないもののその豊かな表現力や秀でたコミュニケーション力、発想の豊かさ等々「この子を知的障害がある子と言って良いのだろうか?」との疑問がいつも湧き上がっていました。
愛甲さんの新刊『知的障害は治りますか?』が届きました。
本章の冒頭、知的障害という言葉が定義付けられています。
知的障害とは認知発達に遅れがある状態で、認知発達とは「文字や言葉を使って生きる力」のことだそうです。
この定義、とても大切だと思いました。
子どもに何か表現しようとする力や世の中と関わろうとする「生きる力」が感じられても、これまで、「知的障害」というとこの定義の「文字や言葉を使う」部分にのみ焦点が当たりすぎていたのではないでしょうか?特に学校や発達検査の場では。
その理由も明解にこの本には書かれています。簡単に言うと親御さんはじめ、お子さんと関わる人たちが、なぜか「行政の論理」に巻き込まれてしまっているからでしょう。
それって、どう言うこと?と思われた方は、どうぞ本を読まれてくださいね。
そして、全て読み終えて思うことはこの本は、「知的障害を治す」ということがどういうことか、ということに留まっていないということ。
自分の中にある、何らかの負の部分について、治そう、治したいと努力する行為が本人にもたらすものは、個々人の人生を自由に豊かに送ることに繋がることを提示していると思います。
親切なことに、治すための方法も「目詰まり」という示唆に富んだ表現のおかげで、何をしようかとワクワクと考えさせてもらえます。
知的な活動がまるで淀み、停滞し、一生発達しない印象を受ける「知的障害」という手垢がついた言葉。
この本は「知的障害」という言葉をじゃぶじゃぶと洗い、その言葉の持つ意味を考えさせてくれます。
それは心に血が通い、心身を整え、それぞれが持つ知的好奇心を満たし能動的に生きていけるようする大きな一歩だと思います。
表紙のじんわりとしみる、でもどこか楽しげで弾むようなハートの絵のような豊かな人生を誰もが送れることを確信した、ほんとうに豊かな本でした。
たくさんの人に読まれますように!