柚月裕子(著) 角川文庫
検事を辞して弁護士に転身した佐方貞人のもとに殺人事件の弁護依頼が舞い込む。ホテルの密室で男女の痴情のもつれが引き起こした刺殺事件。現場の状況証拠などから被告人は有罪が濃厚とされていた。それにもかかわらず、佐方は弁護を引き受けた。「面白くなりそう」だから。佐方は法廷で若手敏腕検事・真生と対峙しながら事件の裏に隠された真相を手繰り寄せていく。やがて7年前に起きたある交通事故との関連が明らかになり……。(BOOKデータベースより)
佐方貞人シリーズのこれが第1作目ですが、個人的には「死命」「本懐」に続く三作目になります。
作者はまずヤメ検の弁護士・佐方を描いて、彼の若い頃=検事時代の佐方を続編として登場させたんですね ちなみに佐方が検事を辞めたのは、彼の後輩検事の不祥事を筒井も含めて上が揉み消したことに憤ってのこととなっていました。
12年ぶりに米崎地裁に戻ってきた佐方ですが、立場は検事ではなく無実を訴える被告の弁護士としてです。物語の中盤まで、事件の被害者・加害者双方の名前は明らかにされません。その一方で、今回の事件の発端となった7年前の交通事故で亡くなった男の子・卓の両親の高瀬光治・美津子が受けた苦しみ、加害者・島津邦明に対する憎悪が綴られていきます。
一見、今回の被告の有罪は疑いようもないと誰しもが考え、法廷に立つ証人たちの証言もそれを裏付けていきます。
しかし、7年前の事故の真実を知る読者には、全く別の真相が浮かび上がってくるのです。
被害者が美津子、加害者が島津と判明すると、光治の視点で語られてきた夫婦の「計画」が狂い彼女は殺されてしまったのか?という疑いに誘導されます。息子を轢き殺されたうえに、事故の原因は息子の過失とされた両親の無念、今回の被告である加害者が公安委員長という権力に物言わせて不起訴処分になったことを突き止めた時の憤怒は子を持つ親なら誰しも共感するでしょう。病に侵され余命を知った美津子の最後の願いは息子を殺した男への復讐です。しかし彼らは男の肉体を滅ぼすのではなく、彼を社会的に抹殺することだったのです。そのために、敢えて痴情のもつれという汚名を着てまで計画を実行したのです。
夫として妻の計画を止めるべきだったという疑問もわきますが、光治が内科医とはいえ医者であったことも影響していたのかな。復讐にかける執念に突き動かされ命を燃やしている妻の姿が、病室のベッドに縛り付けられて、ただ命の灯が消えていくのを待つより煌めいて見え、何もせずにただ死ぬのを待つことは、すでに心を殺すのと同じと感じた彼なりの、妻への深い愛なのです。罪は裁かれなければならないという思いが夫婦の支えでもありました。
一方、対決する側の女検事・庄司真生は、かつて佐方の上司だった筒井の「優秀な」部下です。つまり真生は佐方の後輩でもあるのね。明々白々な事件と確信していた彼女ですが、一抹の不安が沸き上がっていきます。それが、結審当日の予定になかった「最後の証人」により事件そのものの真相が明らかになると同時に、島津の過去の罪も白日の下に晒されるのです。
そういえば、事故の加害者が不起訴になった理由を知ろうと押しかけた警察で、夫はこの「証人」である元警官・丸山(事件の担当刑事)に詰め寄り、殴りかかっています。この時丸山が彼を咎めず署から追い出した(罪に問わなかった)のは、せめてもの彼に当時出来た罪滅ぼしだったのかもしれないなぁ。丸山が上司の命に逆らえなかったのは彼の家庭事情があったからですが、佐方の証人要請を拒んでいた彼が証言台に立つことを決意したのは、佐方の「誰でも過ちは犯す。しかし一度なら過ちだが二度は違う。二度目に過ちを犯したらそれがその人間の生き方になる。」という言葉でした。
本来、依頼人の不利益になる行為は弁護士の倫理に反する筈ですが、佐方は今回の事件に関して島津の無罪を勝ち取りながら、彼の過去に起こした事件について真相を暴くといった離れ業をやってのけます。丸山の証言がなければ実現しなかったとはいえ、佐方の「罪はまっとうに裁かれなければならない」という信念は検事時代から少しも変わっていないことが垣間見えます。
判決が下ったあと、佐方に声をかけた真生に彼は「法より人間を見ろ」と助言します。それは筒井が常に部下に言っていたのと同じ言葉であり、筒井を通して佐方と真生を繋ぐ姿勢でもあるんですね。きっと真生も良い検事になるだろうことが示唆される場面でした。
佐方の事務員の小坂が最後に良い働きをします。妻と共謀して島津を陥れたことで警察に連行される光治に彼女は「事件を誰よりも知っている佐方に弁護を依頼するよう」声を掛けます。光治にとって佐方こそが真相を引き出してくれた人物であり、それによって島津は正しく裁かれることになるでしょう。ついでに公権力を不当に行使した者も罰せられる筈です。フィクションではあるけれど、現実にもあり得るのではないかと思ってしまうところが恐いかも。 せめて小説の中だけでも正義がきちんと成立して欲しいですね。