「相関性と因果性は異なる」の中で、
長寿者が多いこの村落では、伝統的手法で作られたヨーグルトがたくさん食べられている。
だからそのヨーグルトには長寿の秘密がある・・・
お茶の産地では胃ガンの発生率が低い。だからお茶には抗がん活性がある・・・
戦後、脂肪の摂取量が増加し、それに伴ってがん患者も増加している。
だから、脂肪の摂り過ぎには発ガンのリスクがある・・・
・・という文章がある。
こういうのは因果関係があるとは断定できない。
相関関係はあるかもしれない・・と福岡先生は云っている。
因果関係と相関関係は異なる、と云っている。
こう“だから”と決められない。
そうかもしれないと思えるような状況があったということはあるのだろうけど。
その村落で長寿の人たちはヨーグルトを食べる以外にいろいろな行為をしているだろう。
その行為が一瞬一瞬が全員同じであったとしても、(あり得ないけど)
ヨーグルトを食べることが長寿の原因だなんて言い切れない。
人はいろんな行為行動をする。
生まれながらの持ち味も違うだろう。
たくさんの行為の中から長寿者に共通する項を探して、
ヨーグルトしか共通項がなかったとしても、そうだとは言い切れない。
その行為をどういう意識でするのかはひとそれぞれだろうと思う。
・・・・・わからない のではないか。
こう考えて来ると、ヨーグルトで長寿ってかなり無理な気がして来るよ。
因果関係がある、とはとても言い切れない。
もしやして、因果関係があるのではなかろうか、ぐらいじゃないかと思う。
福岡先生も、
「相関関係を出発点として、そこに因果関係を立証することは実に大変な作業である。
インプットとアウトプットのあいだに長い時間経過が必要な現象は
簡単な実験の対象とはなりえない。
大気と気温という地球規模の大規模なシステムに対しても実験は成立しない。」
・・とあった。
今の私たちには立証できない。それほどの能力はない。
ヨーグルトを食べるという小さな行為にしても、
それを食べる時の気持ちも、実験できない。
実験しようとしただけで、対象に影響を与えてしまう。
それが量子の性質だし。
気持ち、意識という観測は自らの身体にも何らかの作用をするし、
“だから”と結論づけることなど出来ないにもかかわらず、
私たちは高速思考という思考回避で、
簡単にそうだとしてしまっているんだなぁ。
長寿者が多いこの村落では、伝統的手法で作られたヨーグルトがたくさん食べられている。
だからそのヨーグルトには長寿の秘密がある・・・
お茶の産地では胃ガンの発生率が低い。だからお茶には抗がん活性がある・・・
戦後、脂肪の摂取量が増加し、それに伴ってがん患者も増加している。
だから、脂肪の摂り過ぎには発ガンのリスクがある・・・
・・という文章がある。
こういうのは因果関係があるとは断定できない。
相関関係はあるかもしれない・・と福岡先生は云っている。
因果関係と相関関係は異なる、と云っている。
こう“だから”と決められない。
そうかもしれないと思えるような状況があったということはあるのだろうけど。
その村落で長寿の人たちはヨーグルトを食べる以外にいろいろな行為をしているだろう。
その行為が一瞬一瞬が全員同じであったとしても、(あり得ないけど)
ヨーグルトを食べることが長寿の原因だなんて言い切れない。
人はいろんな行為行動をする。
生まれながらの持ち味も違うだろう。
たくさんの行為の中から長寿者に共通する項を探して、
ヨーグルトしか共通項がなかったとしても、そうだとは言い切れない。
その行為をどういう意識でするのかはひとそれぞれだろうと思う。
・・・・・わからない のではないか。
こう考えて来ると、ヨーグルトで長寿ってかなり無理な気がして来るよ。
因果関係がある、とはとても言い切れない。
もしやして、因果関係があるのではなかろうか、ぐらいじゃないかと思う。
福岡先生も、
「相関関係を出発点として、そこに因果関係を立証することは実に大変な作業である。
インプットとアウトプットのあいだに長い時間経過が必要な現象は
簡単な実験の対象とはなりえない。
大気と気温という地球規模の大規模なシステムに対しても実験は成立しない。」
・・とあった。
今の私たちには立証できない。それほどの能力はない。
ヨーグルトを食べるという小さな行為にしても、
それを食べる時の気持ちも、実験できない。
実験しようとしただけで、対象に影響を与えてしまう。
それが量子の性質だし。
気持ち、意識という観測は自らの身体にも何らかの作用をするし、
“だから”と結論づけることなど出来ないにもかかわらず、
私たちは高速思考という思考回避で、
簡単にそうだとしてしまっているんだなぁ。