湯川博士の文章からさっきいろいろと書いたけど、
反応的活動について書きたいと思う。
創造的活動、反応的活動と聞くと、
すぐに「反応的活動はいけないんじゃないか」
という反応が起こる人は多いんじゃないかと思う。
「あれやった?」と聞くだけで、やってないのはまずいんじゃないか、と反応する。
「ちょっとこっち来て」と聞くだけで、ナニカ悪いことしたかな、と反応する。
「コレ美味しいね」と聞くと、アレは不味かったのかな、と反応する。
ひとの文章なんかを読んで、あーそうか、ふーん、じゃなくて、
そこに書かれている内容について、そう出来てない自分はいけないじゃないか、と反応する。
自分を否定的に捉える癖が身に付いてる。
否定的に発されてないのに、否定されていると受け取ってしまう。
こういう反応をするように“なって来た”私たち。
良い悪いを叩き込まれてきて“不自由になっている”。
良い悪いを叩き込まれなくても私たちはそれがわかるように出来ているんだけど、
そういうふうに人間を捉えてなかったので(観測してなかった)、
私たちはこうなってしまった。
これもまさしく観測者効果。
人間を良い悪いがわからないもの“として扱って来た”ので、
こう“なって来た”
人間の取扱説明書が間違っていたので不自由な人間が生まれた。
反応的活動について書きたいと思う。
創造的活動、反応的活動と聞くと、
すぐに「反応的活動はいけないんじゃないか」
という反応が起こる人は多いんじゃないかと思う。
「あれやった?」と聞くだけで、やってないのはまずいんじゃないか、と反応する。
「ちょっとこっち来て」と聞くだけで、ナニカ悪いことしたかな、と反応する。
「コレ美味しいね」と聞くと、アレは不味かったのかな、と反応する。
ひとの文章なんかを読んで、あーそうか、ふーん、じゃなくて、
そこに書かれている内容について、そう出来てない自分はいけないじゃないか、と反応する。
自分を否定的に捉える癖が身に付いてる。
否定的に発されてないのに、否定されていると受け取ってしまう。
こういう反応をするように“なって来た”私たち。
良い悪いを叩き込まれてきて“不自由になっている”。
良い悪いを叩き込まれなくても私たちはそれがわかるように出来ているんだけど、
そういうふうに人間を捉えてなかったので(観測してなかった)、
私たちはこうなってしまった。
これもまさしく観測者効果。
人間を良い悪いがわからないもの“として扱って来た”ので、
こう“なって来た”
人間の取扱説明書が間違っていたので不自由な人間が生まれた。