ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

反応的活動

2012-11-08 17:01:21 | 量子力学と心
湯川博士の文章からさっきいろいろと書いたけど、

反応的活動について書きたいと思う。

創造的活動、反応的活動と聞くと、

すぐに「反応的活動はいけないんじゃないか」

という反応が起こる人は多いんじゃないかと思う。

「あれやった?」と聞くだけで、やってないのはまずいんじゃないか、と反応する。

「ちょっとこっち来て」と聞くだけで、ナニカ悪いことしたかな、と反応する。

「コレ美味しいね」と聞くと、アレは不味かったのかな、と反応する。

ひとの文章なんかを読んで、あーそうか、ふーん、じゃなくて、

そこに書かれている内容について、そう出来てない自分はいけないじゃないか、と反応する。

自分を否定的に捉える癖が身に付いてる。

否定的に発されてないのに、否定されていると受け取ってしまう。

こういう反応をするように“なって来た”私たち。

良い悪いを叩き込まれてきて“不自由になっている”。

良い悪いを叩き込まれなくても私たちはそれがわかるように出来ているんだけど、

そういうふうに人間を捉えてなかったので(観測してなかった)、

私たちはこうなってしまった。

これもまさしく観測者効果。

人間を良い悪いがわからないもの“として扱って来た”ので、

こう“なって来た”

人間の取扱説明書が間違っていたので不自由な人間が生まれた。

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湯川博士の言葉から ③

2012-11-08 16:07:01 | 本を読んで
「この世の中に不合理と思われることがたくさんあるのは否定できない事実である。

しかし、そういうものが存在していることにはそれぞれ理由があるであろう。

理由があるということはそれが正当化されることと同じではない。

しかし、正当化されると否とにかかわらず、

ある事柄がこの世に起こる理由を知ろうとするのが知性の働きである。

そういう働きを通じて知性が成長してゆくことも改めて言うまでもないだろう。

理論物理学の目標とするところは自然現象の奥にある合理性の発見である。

人間世界の出来事に対しても一見きわめて不合理と思われる事柄の奥に、

人間存在の仕方のある必然性を洞察するところに

知性を含めた人間精神の創造的活動があるのであろう。

人間の感情、情緒が直接に幸福に繋がっている。

知性がまだ気づかずにいる潜在意識の働きが

そこではしばしば決定的な意味を用いるのである。」

・・・以上「知性と創造と幸福」より抜粋です。


“正当化されると否とにかかわらず、

ある事柄がこの世に起こる理由を知ろうとするのが知性の働きである”とある。

この文章は本当に実をついていると思う。

正しい!と突っ張ることが知性の働きを邪魔する、と云っているのと同じかと思う。

また、不合理と思われる言動・出来事について、

ひとがすぐに否定的反応をするというのは、

それが起こるわけを自分で無意識的にこういうことだと既に決めて(解釈して)しまっているからかと思う。

だから、それについて否定的反応、非難をすることが出来る。

自分で解釈したことについて非難している。

その現象の起こるわけをわからなければ反応のしようがないはずなので。

わからないことには何だろう?としか反応できないはず。

そして、自分が解釈しているということに気が付いていないし、

それが正しい!というのも無意識的にあるので、堂々と非難することになる。

こんなふうに自分なりの解釈を既に無意識的に確信しているから、

他者の行為や出来事ををまっさらな気持ちで観るということが当然出来ない。

また、わけを知ろうとするのはそれについての否定的反応があったにしても、

それを一旦は棚上げしないことには出来ない。

“知性がまだ気づかずにいる潜在意識の働きが

そこではしばしば決定的な意味を用いるのである”とあるけど、

こういう自分の「解釈・決め」のことも、それを「正しいとしている」ことも、

“まだ気づかずにいる潜在意識の働き”と彼は言ったのかなぁと思う。

仏教でいうと、キメツケて囚われる・・我執(我執)なのかと思う。


人間世界の出来事に対しても一見きわめて不合理と思われる事柄の奥に、

“人間存在の仕方のある必然性を洞察するところに

知性を含めた人間精神の創造的活動があるのであろう”・・・ここなども、

全く量子力学の量子の働きそのものを云っているみたいだ。

人間世界の出来事に対して、人間存在の“仕方のある必然性”を洞察するところに・・・

この場合、人間世界の出来事と云っているし、

人間存在の仕方とは、「仕方」とは言葉からみると、

やり方ということだろうし、動作の仕方・行為の仕方・行動の仕方と解釈していいのかと思う。違うかな・・

行為の仕方ということだと解釈すると、

それは必然的に起こるものであると彼はわかっているということだ。

その必然性を洞察することが“人間精神の創造的活動”がある・・・

必然性そのものが観測者効果なのではないかと思う。

観測すること(見方・存在の状態)により局所化・現象化する、というもの。

本当の創造的活動とは無意識的な反応的活動とは違うのではないか。

ナニカを願ってそれを実現したいとする意志的な創造的活動なのかと思う。


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「わかる」こと

2012-11-08 14:56:19 | ひとの幸福
「わかる」のは 以前わかったこと。

「わかった」と思った経験がない事はわからない。

山中教授がiPS細胞がナンタラカンタラと言うけれど、

どういうことなのか、わかったことが無いので、今もわからない。

私にはなんだかわからない研究をしているらしい、ということは私にもわかる。

「研究」ということが何なのかは幾らかわかったことが過去にあるから。

345×689= の問いを見たとき、「これはわかる」と表現する。

まだ解いていないうちにそう思う。

以前同じような問いを解いた経験があるからだ。

「あの人は優しい人だ」という表現は、

過去にその人のことを優しい人だとわかった(思った)ことがあり、

今もその認識がある、ということ。

以前わかったことしか、わからない。

赤ちゃんや幼児は以前という経験が無い物事を見聞きしたとき、

それがどういうことなのか、なんにもわからない。

認識できない。だから、なんだろう?とじ~っと見る。

けれど、大人の一部は地動説が言われた時に、そんなわけがない!と言って、

地動説を言った人を迫害した。

地動説がどういうことなのか過去にわかったことが無ければ、

それをわからないはずなんだけど、そんなのはデタラメだと言った。

デタラメだとわかって言ったのだろうけど、本当はわかってないはず。

自分がわかってないことをわかってない。

ひとは時々自分の知らないことについては「無い」と言うことがある。

自分が知らなくても、在るものはこの世に無限と言うくらい在る。

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受けとるもの・出るもの

2012-11-08 10:54:33 | 日々の暮らし・思い出
ちょっと古いけど、♪また君に恋してる♪を友人と歌っているとき・・

友達が「♪君にのミの音は♪君にのキの音より半音上がるんだよ」と教えてくれた。

私はキとミを同じ音で歌っていたらしい。

音楽を聴くという表現をするけど、その音が耳から入って、

脳に電気信号やらで指令で行って、(詳しいことは知らないけど)

私たちはその音を聴いた、という状態に“なる”

音そのものを聴いているのではない。

わかりやすく言えば、自分で受け取ったものを聴いている。

私はその音を正確に受け取れてなかった。

正確な音を受け取れてないので、出せないのは当然だ。

絶対音感を持つ人は、ひとつひとつの音を正確に確実に聴く〈受け取れる)ことの出来る人なのかなと思う。

だから正確に再現、模倣、表現出来るんだと思う。

このこともそうだけど、どんな出来事も、自分に在るものを経由して、

聞く、見る、ということに至っている。

人に対して腹が立つのもイラッとするのも、

喜ぶのも悲しむのも、同じ。自分に在るものに反応している。

自分に無いものには反応できない。

なので、人によって、同じ現象に際しても、

反応が違うという現象が起こる。

そのもの、出来事に原因があるなら、人は誰でも同じ反応になるはず。

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