ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

可能の世界

2012-11-26 16:44:45 | 量子力学と心
「目に見えないもの」の中の最初、「理論物理学の輪郭」の章、

「・・量子力学からの帰結の中で最も注目すべきはしかし、

観測によって一般に対象の状態の突発的、且つ非因果的な変化が

惹起されるということであった。・・・

それは謂わば可能の世界であった。

対象に対して観測を行うことは、多くの可能性の中から一つを選び出すことを意味していた。・・」

この文章が云っていることは、面白い。

人間界の出来事にぴったりどんな場合でも当てはまる。

その時々の対象をどう観ているかで、対象の多くの可能性の中から一つを選び出している。

ひとの一つの行動を例えば「わがまま」と観ると、

それを変えようとする心になる。ひとは自主的、主体的に在りたいものだから、

他者からそれを感じると反発する。

結果、その行動は変わらない。

対象をわがままとして扱うことで、わがままという可能性が引き出される。

昼間の井の頭公園で性器を出した男の行為を「嫌らしいこと」と観ると、

キャーと叫んだり、批判することになる。

他者からそれを感じると、その男は「やった甲斐があった」となる。

結果、その行動は続く。可能性の中からその行為が選びとられる。

それをわからないものとして観ていると、

(なんだろう?・・何をしているのだろう?とただ観察していると、)

他者からそれを感じると、その男は「する甲斐が無い」となる。

結果、その行為は終わる。可能性の中から止めるという行為が選びとられる。

「対象に対して観測を行うことは、多くの可能性の中から一つを選び出すことを意味していた。」

・・という彼の言葉の通りかと思う。

椅子を踏み台として観る、ということなんかもそう。






不確定原理から・・

2012-11-26 15:13:39 | 本を読んで
同じく「目に見えないもの」からの抜粋・・

「・・不確定原理によれば、粒子の占める位置とその速さとを同時に正確に知ることは出来ないのである。

これを別の言葉でいえば、粒子の「位置」や「速さ」とかは

それがいつでも持っているいわゆる「第一性質」ではなく、

むしろその時々の状態、あるいはわれわれの見方に応じて現われてくる性質であると

考えられるのである。」

われわれの見方に応じて現われてくる性質・・

・・人間界もこういったことが日常繰り返され、こういう世界になっていると思う。

見方に応じて現れてくるとは、

そのような観測をすることによって、そこに局所的に現れるということ。

そのような観測が無かったら、それは非局所的に広がっているだけ。

ある物事を観測することによって現象化する。

観測がなかったら現象化しない。

前に書いたけど、観測しないという意志も一つの観測だ。

観測自体が無ということじゃないから。

無視するという観測も何かがそこに現れる。

そんなことはこの世にいっぱいある。


キリスト教で、右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい・・

という話があるけど、

右の頬を打たれ、即座に殴り返したとすると、

この人は右の頬を打った人を「悪い人」という見方で観たということだろう。

右の頬を打たれて、左の頬を出した人は、

頬を打った人を「悪い人」という見方では観なかった、ということなんじゃないかと思う。

湯川博士は“その時々の状態、あるいはわれわれの見方”

に応じて現れてくる性質と云っている
その見方に応じて、打った方のその後現われてくる性質が異なってくるはず。

観測者効果とも言える。

打っても打ち返されなかった人はその直後

打ち返した方が悪いとかのどっちがいい悪いの話しではないよ。

観察しているだけのことなんで。

(こういう話にすぐ乗ってこられない人は、

“善悪の観念”をしぶとく持っている場合が多いのはしょうがないとは思う。

余計なことだけど、書きたくなったよ)

また、彼はここで、仏教でいう諸行無常という思想は物理学の見解との共通性を見出すとも云っている。

生命は動的平衡であるというのと諸行無常とは同じことだしね。




湯川博士の言葉から・・

2012-11-26 14:42:06 | 本を読んで
「目に見えないもの」の第一部の扉ページにこれがある。

「物みな底に一つの法ありと 日にけに深く思ひ入りつ々」

ちなみに『日にけに』とは 日に異に と書くようだ。

意味は日々に変わって。転じて、日増しに。

また、その本の中には「真実」という章があり、

その詩のような文章にも、これと同じような感じ(・・と思った)のものがある。

けっこう有名なもので知っている人は知っているだろうけど、その一部・・

「・・・現実はその根底において、常に簡単な法則に従って動いているのである。

達人のみがそれを洞察する。

それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。

詩人のみがこれを発見する。・・・」


第一部は昭和20年4月の執筆のようで、その扉ページもその時期なのかと思う。

「真実」は昭和16年1月執筆のようだ。

時間的には先の「真実」の方が、簡単な法則に従って動いているのである、と言っているけど、

物みな底に・・・の方はそれから4年ほど経ち、

その思いが日にけに深くなっているということなのかと思った。

第一部扉のはその主語が「物」であって、「真実」の方は「現実」になっているから、

全く別のことを云っているということも考えられるけれど、

自分の中では同じようなニュアンスかと受け取っている。


「物みな底に一つの法ありと 日にけに深く思ひ入りつ々」

この法とは何を云っているのか・・

物はどんなものでも分子の集まりで・・それは電子と原子核で成り立ち・・とかのことではないと思う。

「・・現実はその根底において、常に簡単な法則に従って動いている・・・」

この法則とは何を云っているのか・・・

彼のほかの文章を読んでも、物と心、物理と心理を繋ぐ路・・といったものや、

世界平和を希求する精神の強さとか、物事に対する深い洞察とか、その哲学的思考とか・・・

彼の人となりを感じてのことだけど、(私が読んで理解できた範囲内での印象に過ぎないのは勿論)

量子力学と人間心理とのかかわりに潜む法則があるのではないか・・と考えていたんじゃないか、

って思ってしまう。

彼は、量子力学は意識力学だと考えていたんじゃないか、と思っている。

もっともっと読み込んで行きたいと思っている。