「目に見えないもの」の中の最初、「理論物理学の輪郭」の章、
「・・量子力学からの帰結の中で最も注目すべきはしかし、
観測によって一般に対象の状態の突発的、且つ非因果的な変化が
惹起されるということであった。・・・
それは謂わば可能の世界であった。
対象に対して観測を行うことは、多くの可能性の中から一つを選び出すことを意味していた。・・」
この文章が云っていることは、面白い。
人間界の出来事にぴったりどんな場合でも当てはまる。
その時々の対象をどう観ているかで、対象の多くの可能性の中から一つを選び出している。
ひとの一つの行動を例えば「わがまま」と観ると、
それを変えようとする心になる。ひとは自主的、主体的に在りたいものだから、
他者からそれを感じると反発する。
結果、その行動は変わらない。
対象をわがままとして扱うことで、わがままという可能性が引き出される。
昼間の井の頭公園で性器を出した男の行為を「嫌らしいこと」と観ると、
キャーと叫んだり、批判することになる。
他者からそれを感じると、その男は「やった甲斐があった」となる。
結果、その行動は続く。可能性の中からその行為が選びとられる。
それをわからないものとして観ていると、
(なんだろう?・・何をしているのだろう?とただ観察していると、)
他者からそれを感じると、その男は「する甲斐が無い」となる。
結果、その行為は終わる。可能性の中から止めるという行為が選びとられる。
「対象に対して観測を行うことは、多くの可能性の中から一つを選び出すことを意味していた。」
・・という彼の言葉の通りかと思う。
椅子を踏み台として観る、ということなんかもそう。
「・・量子力学からの帰結の中で最も注目すべきはしかし、
観測によって一般に対象の状態の突発的、且つ非因果的な変化が
惹起されるということであった。・・・
それは謂わば可能の世界であった。
対象に対して観測を行うことは、多くの可能性の中から一つを選び出すことを意味していた。・・」
この文章が云っていることは、面白い。
人間界の出来事にぴったりどんな場合でも当てはまる。
その時々の対象をどう観ているかで、対象の多くの可能性の中から一つを選び出している。
ひとの一つの行動を例えば「わがまま」と観ると、
それを変えようとする心になる。ひとは自主的、主体的に在りたいものだから、
他者からそれを感じると反発する。
結果、その行動は変わらない。
対象をわがままとして扱うことで、わがままという可能性が引き出される。
昼間の井の頭公園で性器を出した男の行為を「嫌らしいこと」と観ると、
キャーと叫んだり、批判することになる。
他者からそれを感じると、その男は「やった甲斐があった」となる。
結果、その行動は続く。可能性の中からその行為が選びとられる。
それをわからないものとして観ていると、
(なんだろう?・・何をしているのだろう?とただ観察していると、)
他者からそれを感じると、その男は「する甲斐が無い」となる。
結果、その行為は終わる。可能性の中から止めるという行為が選びとられる。
「対象に対して観測を行うことは、多くの可能性の中から一つを選び出すことを意味していた。」
・・という彼の言葉の通りかと思う。
椅子を踏み台として観る、ということなんかもそう。