日本語では英語の「I」にあたる言葉がたくさんある。
村上春樹さんのある小説を訳したひとが困ったと云う話が今読んでる福岡ハカセの本にあった。
私の章 と 僕の章 があって、英語だとどっちも「I」で区別できない。
その訳者は『私の章』を全部過去形で書き、
『僕の章』を現在形で書いたことで解決したというもの。
(どっちがどうだったか、うろ覚えだけど)
へぇ、面白い!と思ったよ。
どうして日本語はたくさん「I」があるんだろう???
こんな仮説を立てて考えたみた。
「わたし」と表現するか、「僕」と表現するか、「わし」と表現するか、
「お母さん」とか、「おとうさん」と表現するか、「俺」と表現するか、
(自分の名前)で表現するか、「手前」と表現するか・・・
相手やその場に相応しい言葉がすっと出るんじゃないか。
相手との関係やその場の空気を読むことによって、「I」が変わる。
意識の「I」は一つではなく、幾つでもある。
自分という意識が、相互関連作用の中で姿を変える(心が変わる)という事実に、
相応しい言葉遣いなんじゃないだろうか。
複数の「I」があるのは理に適っているんじゃないかな。
言葉は認識そのものだから。
村上春樹さんのある小説を訳したひとが困ったと云う話が今読んでる福岡ハカセの本にあった。
私の章 と 僕の章 があって、英語だとどっちも「I」で区別できない。
その訳者は『私の章』を全部過去形で書き、
『僕の章』を現在形で書いたことで解決したというもの。
(どっちがどうだったか、うろ覚えだけど)
へぇ、面白い!と思ったよ。
どうして日本語はたくさん「I」があるんだろう???
こんな仮説を立てて考えたみた。
「わたし」と表現するか、「僕」と表現するか、「わし」と表現するか、
「お母さん」とか、「おとうさん」と表現するか、「俺」と表現するか、
(自分の名前)で表現するか、「手前」と表現するか・・・
相手やその場に相応しい言葉がすっと出るんじゃないか。
相手との関係やその場の空気を読むことによって、「I」が変わる。
意識の「I」は一つではなく、幾つでもある。
自分という意識が、相互関連作用の中で姿を変える(心が変わる)という事実に、
相応しい言葉遣いなんじゃないだろうか。
複数の「I」があるのは理に適っているんじゃないかな。
言葉は認識そのものだから。