ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

相対と絶対 ②(湯川博士の言葉から ⑤)

2012-11-11 16:49:28 | 本を読んで
「常に自己の相対性を反省しつつ、

一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、

科学の本質が見出される。」

・・・「常識と非常識」より抜粋。

これはどういうことを云っているのか・・・

相対性とはコインの裏表。表があるということは必ず裏がある。

裏の無いコインは無い。

コインが在る、というのが絶対的ということだろう。

表と裏というのは視点がどこにあるかで決まる。

どの位置からの視点かによって、表裏がある。

高低上下左右美醜善悪も同じだ。

どの位置からという視点がなければ、在る・それが在る、だけかと思う。

在るものがそのように在る。それを見ようとするのが絶対的と言えるのか・・・?


自己の相対性を反省しつつとはどういうことか・・・?

相対性は相対性で反省することなんてなさそうだけど。

反省しつつとは反省しながらということで、・・・

相対性を利用しなければ絶対の世界に行かれない、

というのは自分でもたくさん経験してきた。

以前、前向き思考をする事が良いとしていた。当時はそういう自覚はなかった。

けれど、知らないうちにそれがあったので、

後ろ向き思考をすることを良くないと評価した。

自他を良くないと評価すると、視線が厳しくなる。

ひとの良くない事を非難する。自分のことなら自責の念に苦しむ。

良いというのは相対的な言葉で、

その裏には良くないがセットで必ず付いている。

物質的な世界は相対的表現が出来るものだからこそ、

私たちの思考や現象・物事は表現出来る。

善悪の相対性があることで、善を求めてしまう私たちはより良きに進めるんだけど、

善悪の評価をすることで私たちは苦しむ。

その苦しみから抜け出ることが出来るのは、

出来事や人が今、その姿をしている、そういう状態で在る、ということをわかることだ。

善悪の評価にとらわれている間はそれが見えない。

“在るものがそのように在る。それを見ようとするのが絶対的と言えるのか・・?”

と、さっき書いたように、やはりそういうことか。

「自己の相対性を反省しつつ、絶対の真理に近づこうとする努力の中にこそ、

科学の本質が見出される。」の文章が云っているのは、

“在るもの”を見出そうとする、そのこと自体が科学の本質と云っているんだろうか。

在るものはたくさん在るけど、知らないことばかりだと知っているそのことが、

科学、物事、人間界の本質を知る出発点なのかと思う。

あるものを知らないと知っていないと、知りたいということにはならないから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相対と絶対

2012-11-11 15:59:48 | ひとの幸福
物を手に入れるにはお金を払うのが当然であるという正しさがある。

だがしかし、家族間ではこれが通用しない。

赤ん坊はおっぱいを飲むのにお金は払わないし。

大人であってもご飯を食べてもお金を払わない。

いや、給料を入れてるとかがあるかもしれないけど、

給料を入れてなくてもお金を払わず食べるだろう

いつでも、という点から考えると、

大昔、貨幣が無い頃はお金を払うということはなかった。

お金を払うというシステムが絶対のものとは言えないことがわかる。

今はこうしているというだけのことであると言える。

絶対の正しさとはいえない。

この他でもいろいろ時代限定・地域限定・年齢限定・身分限定・種族限定・性別限定というような正しさがあるけれども、

限定なし・条件なし、それが真理と言っていいのかもしれない。

太陽は東から上がるというのも地球では絶対的なことではあるけれど、

宇宙船という視点からは東からではなくなった。

“太陽が在る”これは絶対的だろう。

こんなことを言う人はいないだろうけど、「太陽が在る」という発言をする時、ひとはムキにならない。

絶対にあるんだ!なんて強い調子で言わない。

それで人をやり込めようとも思ってないし、正しい!と突っ走る事もない。

思うとしても、ただ、在ると穏やかに思うのだろう。

それが絶対だと誰でも知っているからだと思う。

人が正しさで突っ張ったり人をやり込めたりする時に、どうしてそういう強い調子になるのかといえば、

そういう正しさは条件付・相対の正しさであって、

無条件・絶対の正しさではないと心の奥底では知っているからなんじゃないだろうか。

絶対の正しさを言う時に穏やかなのは突っ張る必要がないからだろう。

偽物をなんとしても売りつけたい時には言葉や調子でどんなにコレが素晴らしいかを力説するけど、

本物だったら、ただ見てもらえばいい。言葉は要らない。それと同じで、

力でなんとかわからせようとするのは、その正しさが絶対のものじゃない事をひとは知っているからなんじゃないか。

無意識的に知っているんじゃないか。

潜在意識では誰でもが知っているんじゃないか。

さまざまな限定や条件のある正しさという旗を振りかざして、

ひとをやり込めたり、突っ走る時、そういう心の状態に人は必ずある種の気分の悪さ、機嫌悪さを感じる。

前に書いたけど、湯川博士のいう寒暖計だ。

機嫌、気分というのを持ってる全人類は本当の正しさ、絶対的真理を元々知っているんじゃないだろうか・・・なんて思う。

それを忘れているだけで。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする