「わかる」 のは 行動じゃないし、行為でもない。
目に見えない心の状態。
何をわかっているのか・・・
例えば、前を走っている車の運転手が心臓麻痺を起こして、
いきなり道で止まってしまった時に、後ろの車が、その車を見て、
「なんでそんな所でいつまでも止まってるんだっ!早く動け!」
と怒鳴る人があったとして、怒鳴った人の意識は、
その車が間違った判断で止まった、・・とわかっている、状態と言えるかも。
勿論そんな自覚は無いだろうけども。
けど、それが心臓麻痺によるものだとわかった時、
怒鳴った人はばつの悪い思いをすることが多い。
どうしてそんな思いになるんだろ?
自分が自信たっぷりだったことがわかって恥ずかしくなる、
という素直な正直な心が現れる現象なんだろ。
まぁ、誤解曲解というようなことだろうけど、
こういう例なんかは誤解してたことがすぐにわかるけど、
誤解曲解していてもそれに自覚がないのが、日常の中でほとんどだと思う。
ひとの行為を見て、それはこういう気持ちでこうしてる、って
わかっていると“なっている”。
でもそうなっている自覚はない。無意識的にそうなってるから。
自分がわかっているという状態に在ることを、自分は知らない状態。
ソクラテスの“無知の知”(わからないということをわかっている)の反対。
自分がわかっているという状態に在ることを知らない。知?の無知。
「わかっている」ということ自体が本当にわかっているのかはわからない。
人ってこういうことがかなり多い。
私もしょっちゅう。
目に見えない心の状態。
何をわかっているのか・・・
例えば、前を走っている車の運転手が心臓麻痺を起こして、
いきなり道で止まってしまった時に、後ろの車が、その車を見て、
「なんでそんな所でいつまでも止まってるんだっ!早く動け!」
と怒鳴る人があったとして、怒鳴った人の意識は、
その車が間違った判断で止まった、・・とわかっている、状態と言えるかも。
勿論そんな自覚は無いだろうけども。
けど、それが心臓麻痺によるものだとわかった時、
怒鳴った人はばつの悪い思いをすることが多い。
どうしてそんな思いになるんだろ?
自分が自信たっぷりだったことがわかって恥ずかしくなる、
という素直な正直な心が現れる現象なんだろ。
まぁ、誤解曲解というようなことだろうけど、
こういう例なんかは誤解してたことがすぐにわかるけど、
誤解曲解していてもそれに自覚がないのが、日常の中でほとんどだと思う。
ひとの行為を見て、それはこういう気持ちでこうしてる、って
わかっていると“なっている”。
でもそうなっている自覚はない。無意識的にそうなってるから。
自分がわかっているという状態に在ることを、自分は知らない状態。
ソクラテスの“無知の知”(わからないということをわかっている)の反対。
自分がわかっているという状態に在ることを知らない。知?の無知。
「わかっている」ということ自体が本当にわかっているのかはわからない。
人ってこういうことがかなり多い。
私もしょっちゅう。