ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

第一印象

2012-11-23 08:45:16 | ひとの幸福
何かで一度、何かを「やりたくない」と発すると、

聞いた人はあの人はこれをやりたくない人なんだ、

・・という刻印を押されることもある。

「あの人はこういうことが嫌いな人」として、その人の頭にインプットされるということが起こることもある。

次回からそういう人“として扱われる”ことがある。

だから第一印象は大事だとまことしやかにささやかれる。

まぁ、今の世の中でそうした方が無難ということはどうしてもあるけど。

すると、いつも緊張してないといけない・・になることもある。

こういうことも観測者効果なんだろうけど、誤解に基づくもの、かもしれない。

人がもっと進化発達したら、第一印象は大事なんて諺は消えてなくなるかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

I (わたくし)

2012-11-22 08:49:18 | 言葉
日本語では英語の「I」にあたる言葉がたくさんある。

村上春樹さんのある小説を訳したひとが困ったと云う話が今読んでる福岡ハカセの本にあった。

私の章 と 僕の章 があって、英語だとどっちも「I」で区別できない。

その訳者は『私の章』を全部過去形で書き、

『僕の章』を現在形で書いたことで解決したというもの。

(どっちがどうだったか、うろ覚えだけど)

へぇ、面白い!と思ったよ。

どうして日本語はたくさん「I」があるんだろう???

こんな仮説を立てて考えたみた。

「わたし」と表現するか、「僕」と表現するか、「わし」と表現するか、

「お母さん」とか、「おとうさん」と表現するか、「俺」と表現するか、

(自分の名前)で表現するか、「手前」と表現するか・・・

相手やその場に相応しい言葉がすっと出るんじゃないか。

相手との関係やその場の空気を読むことによって、「I」が変わる。

意識の「I」は一つではなく、幾つでもある。

自分という意識が、相互関連作用の中で姿を変える(心が変わる)という事実に、

相応しい言葉遣いなんじゃないだろうか。

複数の「I」があるのは理に適っているんじゃないかな。

言葉は認識そのものだから。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

必須アミノ酸

2012-11-21 13:07:14 | 本を読んで
まだ、全部読んでないんだけど、

福岡伸一ハカセの「生命と記憶のパラドクス」の中に

必須アミノ酸にまつわる話があった。

必須アミノ酸って、ロイシンだとかリジンだとか、せっせと憶えた記憶があるけど、

それはこういう9つでそれを憶えなさいなんてちっとも面白くなかった。

私のそれについての探究心がなかったせいでもある。

植物や微生物はそれらを自ら作り出せるが動物はその能力がない。

彼も云ってたけど、何故そのようになったのか?

どうしてこの9つのアミノ酸が人間に必須のものになったのか??

福岡ハカセは仮説を立てた。それはこう・・・

あるアミノ酸が生命に必須となった瞬間、生物は動物になりえた。

必須アミノ酸が生まれたことによって、生物は自ら動くことを求められ、

自ら行動しうるものが選抜された。

そしてそのことが生命にさらなる発展を齎した。

視覚、嗅覚、味覚もこのプロセスで獲得されたのではないか。

自前で合成できないこと、つまり want が、

生命の進化にとってにわかに輝かしい鍵となった。

・・・というもの。

仮説を立てて考えるのって本当に面白いもんだ。

want が基。これは本当にそうだと思う。

それも“こうしたい・こうなりたい”という want であって、

こうしたくない・こうなりたくない という want じゃないはず。

「願いは要らない」なんて書いたけど、

その「願い」は願うという思いだけでナントカしようとするモノ。

ここでいう want は人間の在りようそのもの。

want があれば、その実現方法をなんとしてでも探し出す、そういうwant。

いわば、パッション、情熱。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人類の知性は落ちている!?

2012-11-21 10:53:27 | 新聞を読んで
「人類の知性は2千~6千年前ごろをピークにゆっくりと低下し続けているかもしれない――。」

こんな説を米スタンフォード大のジェラルド・クラブトリー教授が米科学誌セルの関連誌に発表した。

 教授の論文によると、人類の知性の形成には2千~5千という多数の遺伝子が関係しており、

ランダムに起きる変異により、それらの遺伝子は、働きが低下する危険にさらされている。

 一瞬の判断の誤りが命取りになる狩猟採集生活を送っていたころは、

知性や感情の安定性に優れた人が生き残りやすいという自然選択の結果、

人類の知性は高まっていった。

・・・以上、朝日新聞社より。

へぇ、こういう考えもあるのか~と思った。

狩猟採集生活をしていた頃、知性や感情の安定性が優れている人が生き残った。

狩をするというのは、命がけだったと思う。それは、

いつも、いつ死んでもいいという覚悟があるということなんだろうと思う。

死ぬかも死ぬかもと不安に怯えていたら、感情の安定どころの騒ぎじゃないだろうし、

冷静で的確な判断も出来ないだろう。

いつ死んでもいいという覚悟が出来ているということは、

狩ることに準備万端抜かりなし、という技術面もさることながら、

その日その日を十分満足して暮らしているせい、ともいえる。

そういう人は過去や未来に囚われず、幸福に生きていたのかもしれない。

幸福に生きることが知性が伸びることであり、

感情が安定するということか・・当たり前か・・・


にほんブログ村


にほんブログ村


にほんブログ村





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

剪定

2012-11-21 10:06:57 | ひとの幸福
昨日は畑の梅ノ木のビョーンと伸びている枝を切った。

一昨日は図書館で「切るナビ」というタイトルの剪定の本を借りてきた。

とても興味深く読んだ。

それにこんなことが書かれてあった。

木を一気に短く切ると、上に伸びる力を強引にぶった切ることになって、

木に強い刺激を与えるという。

活力ある根と大幅に芽数を減らされた枝とのバランスが崩れた木は反発して、

徒長枝をたくさん伸ばすことになる。

この現象を『木が暴れる』という。

途中で切るのではなく、切り替えるという間引き剪定で、

“伸びる力の行き場を確保”してやることがポイント。

・・・この文章を読んで人間と同じだなと思った。

木も人間も生命なので、当たり前のことなんだろう。

福岡伸一ハカセ(彼の「生命と記憶のパラドクス」を読んでいるんだけど、

彼は自分をこう語っていたので、使うことにしたよ)

の云っている動的平衡の姿だ、これも。

木が暴れるのも副作用の働きかと思う。

これを読んで昔の日本の、子に対する親の在りようを思い出した。

父親が厳しく子を叱った後に、母親は、

厳しく当たられた(否定された)子供の気持ちを受け止め、慰めた・・・

シツケの内容については何も言わなかったろうけど、

言ったとしても、おまえのことを思って言ってくれたんだよ、くらいで。

あんなことをしてダメだと否定された、そのことに傷ついている子供を癒したのではないかと思う。

母親のこの行為は“伸びる力の行き場を確保”したという姿なんじゃないかと思う。

両親揃って何かした子供を否定するばかりだったら、

子供は徒長枝をたくさん出すことに“なる”んじゃないかな。

そんなことばかり親がしていたら、

その時は切られたままだけど、後で暴れることに“なる”のかと思う。

生命力の生せるわざ、だね、これも。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レストランのトイレ ②

2012-11-20 10:57:34 | ひとの幸福
「トイレをきれいに使って頂いてありがとう」という言葉は、

きれいに使うことが願う前から叶えられている、ということを表わしている言葉だ。

頼みもしないのに対向車が私の車に突っ込んでこない、という奴を前に書いたけど、

それと同じ。それも私が願う前から叶えられている。

今回の旅で中央道や長野道を走ったけど、実にコレを思った。

まぁ、高速道路は対向車は無いけど、

前の車、横の車、後ろの車、前の前の車、後ろの後ろの車、横の車の後ろの車・・・

それぞれどの車も私が頼みもしないのに、流れ走っている。

私が意識的に願ってもいないのに、

事故を起こすことなく、走っている。

たくさんのそういった車の中で行きたい所に行かれた。

私が願う前に叶えられている。

その車を運転する人、同乗している人、サービスエリアの人たち、

いろんな高速道路関係の人たち、その他各所みんなで創られている私の旅という感じ。

上手く表現できないけど、皆で織っている織物。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012-11-19 10:18:14 | 日々の暮らし・思い出
この一週間、謂わば、非日常の時空間だった。

普段の7日間よりこの7日間という時間はずっと長く感じた。

時間は観念だから、こういう感覚が在るんだろうな。

楽しい時はあっという間だ、というのも聞くけど、

それで行くと、今回の旅は楽しくなかったのかってことになるけど、そんなことは全く無い。

なんで長く感じたんだろう?

その時間が無意識的に自動的に流れるという感じじゃなくて、

ひとつひとつじっくり味わったせいなのか・・・

どの日も歓迎されて歓迎されて、本当に嬉しく楽しかった。

初めての土地や、久しぶりに会う友人、久しぶりの娘や婿さん、寝たきり母、

久しぶりの夫の兄弟、その家族、どの人とも心と心の付き合いだなと思った。

本当に嬉しく楽しい贅沢な日々だった。


にほんブログ村

にほんブログ村

にほんブログ村





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

義父の凄さ

2012-11-19 09:54:56 | 日々の暮らし・思い出
一週間家族三人で家を離れていた。(ブログは予定投稿というのをやっていたよ)

どこも紅葉がとても綺麗だった。

群馬県の富広美術館の近くの『不動の滝』に行った時のこと。

急な坂道が階段状になっていて、そこを降りた先に滝が綺麗に見える場所が作られてある。

まぁ、ちょっとした展望台。

96才の義父もそこを歩いて降りた。紅葉と滝が本当に美しかった。

さて、その帰り道、かなり急な階段は義父に辛かったのだろう、途中で二回息を整えていた。

上がりきった時、労うとにっこり笑った。

大変だな、と感じただろう時でも、義父は弱音を吐かない。

少し微笑むだけ。

後になってその時のことを聞かれたら、あの時はきつかったぁと淡々と言う。

けど、義父にはハードだったと少し反省。

それが二日前。昨日帰路についたんだけど、その朝、義父は車に乗るなり、

普段もっと歩かないといけないなぁ、というようなことを言っていた。


最近、辛いとき、悲しいときも笑顔で、なんて言葉を聞くと、

辛い時は辛いし、悲しい時は悲しいんだから、無理することないのになぁ、

なんて思っていたけど、義父の様子を見ると、

本当にそんなふうにしているなぁと気が付いた。

彼にとってそうすることはちっとも無理じゃないのかと思った。

そうする、と言うより、そう在るのだろうと思う。

自然な在りようなんだろう。


にほんブログ村

にほんブログ村

にほんブログ村



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レストランのトイレ

2012-11-19 09:19:52 | ひとの幸福
最近はコンビニや喫茶店やレストランのトイレにこんな張り紙がある。

「いつもきれいに使って頂いてありがとうございます」。

トイレを使おうと思った人が用を足す前にそれを見ることになる。

トイレを使う人を『きれいにトイレを使う人』として観ることから、

始まっている。

この張り紙を張った人がどんな顕在意識で張ったのか、

それは知らないけれど、

この張り紙の“言葉”はそのような人間観の基から始まっている。

「汚さないで下さい!」という言葉と、

「・・・使ってくれてありがとう・・」という言葉とで、

どっちが使う人にとって快適なんだろうか・・・


にほんブログ村

にほんブログ村


にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界の在りよう

2012-11-18 15:28:31 | ひとの幸福
マックス・ボルンという科学者の著書の中に

「わたしはいま、理論物理学とはじつは哲学であると確信している」

という言葉があるそう。

湯川秀樹博士の著書を読んでも、そういった見解が見られる。

量子現象というもので、世界の在りようを説明できるんじゃないかと思う。

観測という人の意識が物理的現象の変化を齎すということで、

その観測という意識は主に潜在意識。ものの見方、人間観、世界観など。

瞬間瞬間の各自の見方がその人の人生を創り、

それが集まったのが世界。

自分の意識観察と、いろんなことを、どういうことなんだろう?

・・と考えて、来たことで、そう思ってしまう。

ひとはどんなことを思おうと自由なので、ま、いいか。

にほんブログ村
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

KA と MI という音

2012-11-18 11:38:33 | ひとの幸福
この世の中に、神 と聞いただけでアレルギーを起こす人がいる。

神なんていない!って。

「神」 とは数ある言葉のうちの一つ。kaとmiの音。

その音、その文字を何かしらに解釈している。

そのひとは神がいないとわかっているんだろうが、

それが無いと言い切れるということはそれが何だか知っているということだ。


その文字があるものには近寄らない人もいるみたい。

その人は見ないうちに何が書いてあるのかわかるのかもしれない。

今明らかになっている科学を信仰している、科学教の信者だったりしそう。

今言われている科学的な事も新しい研究結果が出るたびに消えてしまうこともある。

神を信じるのも科学を信じるのも同じ。

それが絶対に正しいと信じている自分を信じてる。


にほんブログ村

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユング 「影」 ②

2012-11-17 14:51:22 | 新聞を読んで
オウムの問題はわからないままになっているけど、

オウムがそうなったのには必ず何らかの間違いがある。

何が一番の間違いだったのか・・・

オウムの人たちは悪い事をしようとして、悪い事をしたんじゃない。

良い事をしようとして、悪い事をした。

そんな馬鹿な、と思う人もあるかも知れない。

でも、私たちはほとんど毎日そんなことをしている。

願っていることと、やっていることが正反対。

平和を願って、戦争してる。内乱してる。

子供を良くしようと、子供を怒鳴り、子供にイライラし、子供に冷たく接する。

子供が幸福に暮らせるようにと願って、

子を自分の敷いたレールを歩かせようとやっていることが、

子が親を殺す事態まで進む。

小さなことから世界的なことまで、根は一緒。

自分が意志を持って、したことの、結果を見ていない。

どうしてそうなるのか・・・自分の心・意識を観ていないから。

目を瞑ったまま行為行動しているから。

自分が何をしているのかわかってない。

自分もそうだったし、そういうことは今でもあるからわかる。

そのことを否定しているわけじゃない。観察しているだけ。

にほんブログ村
にほんブログ村







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユング・・「影」

2012-11-17 11:05:33 | テレビを見て
「影はわれわれ人間が前向きな存在であるのと同じくらい、

よこしまな存在である。

我々が善良で優れた完璧な人間になろうと、努めれば努めるほど、

影は暗くよこしまで破壊的になろうとする意思を明確にしていく。」

・・・・これは心理学者のユングのもの。


ひとの認識の中で「これが正しい」というものがあると、

「これ以外」は間違っているということになる。

「正しさ」を求めることによって、ひとは「正しくないもの(と、認識するもの)」を排除しようとする。

否定、排除しようとする時の心、気持ちは強い。

それは正しさを求めるのと同じ力を持つからだ。

それがユングの言う影ではないかと思う。

「これが絶対正しい」という判断があると、

目に映るそのものをそのまま観察することが出来なくなる。


オウム真理教もエホバの証人もどの組織もどの家庭も、

ひとが正しさを求める力の強さの分だけ、

“本当の”「正しさ」から遠くなっていく。

「正しさ」を求める力が強いほど影も強い。

それが“絶対の正しさ”ではないからこそ影を生む。

影は光があるから生まれるのであって、光と影は相対的なものだ。

本当の正しさというものは絶対なので、影の生まれようがない。

「間違い」が生まれる「正しさ」は相対的なものだからこそだ。

オウム真理教の教義も何も知らないし、裁判の資料を読んだことも無い。

けれど、真面目に真理を求めようとした普通の人たち、真面目な医師たちが、

あーいうことをしたということは聞いて知った。

悪い事をしようと思ってした人はいなかったんじゃないかと思う。

間違いを正そうとしたことが、大きな間違いだったんじゃないかと思う。


このブログでいろいろ書いてるけど、

オウムの人たちが自分とは全く関係ない悪魔だとは思えない。

粉石鹸を使うのがいい、という正しさで、合成洗剤を使っている人を非難・否定したことがある私と、

巣は同じところにあると思える。

求めるものが大きいものほど、その影は大きい。

にほんブログ村
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間違い

2012-11-16 14:12:58 | ひとの幸福
子供が小さな頃、思ったことがある。

もし万一、夫の不注意で子供が事故に遭ったり、

怪我をしてしまったり、死んでしまったりするようなことがあっても、

私は絶対夫を責めない って決めてた。

悲しくてたまらないだろうけど、絶対責めないって心に誓ってた。

夫が子供を可愛がってることは十分知ってるし。

傷つけたいなんて意志は絶対持ってないって確信してたし。

松本サリン事件で容疑者にされた河野さんの言葉で、こういうものがある。

「何にもしていなくても死刑になることもある。

間違うのが人間なんだ。」

オウム真理教も警察も間違う。

間違いを非難しても間違いはなくならない。


「恨んでも幸せになれない」これも河野さんの言葉だけど、

彼の言葉は頭の理屈だけじゃない。

彼の生き方がそう言ってる、と感じる。

間違うのが人間だけどれも、出来るだけ間違いは減らしたい。

何を間違うのか・・・解釈かと思う。どう観るか、だと思う。


にほんブログ村

にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気分

2012-11-16 09:28:28 | ひとの幸福
“気分”というものは本当に凄い。

どんな場合でも、自分が自分を否定しているモードになると気分は暗くなる。

気分が暗くなったら、何かを否定している自分に気が付こうっと。


人はその人にしか出来ないことがある。

自分の奥深くに入ることだ。

そういうことがたった今は不得手の人も居る。

人それぞれだ。でも、人は変わる。変わり続ける。

それが自然というもんだ。

人は自然が創った自然のものだから、自然の法則、相互関連作用によって、

変化し続ける。


にほんブログ村

にほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする