懊悩とは、悩む時間が長く、深く内向して、処理できないことです。
御神尊様の修行の眼目は、《人間と運命》がありました。
修行者のなかには、人間を離れて、単に神仏を見たいと、山にこもり、滝に打たれる人がいました。
御神尊様も《若いころは、それを目的として、行をしたこともあった》
と語られています。
それを、《見神》といわれ、《行中に、心身がきわまると、刹那的に、人間の姿をした、神を見る‼️》ことがあった、と語られています。
しかし、それをもってしても、《運命的、現象》は、いかんともし難く、《運命の解明》は、厚い壁にはばまれまのでした。
初一念は、岩をも通す、病者の枕辺にはべり、臨床に次ぐ、臨床の結果
《不幸は悩みの姿にして、病気は悩みのあらわれなり》つかまれたのでした。
現に、不幸病気に、苦しむ人の心中には、必ず懊悩の念、が秘められているからです。
神に、すがり、頼ったとしても、自分の性格上より作られる懊悩を自覚することが大切です。
これの〈切り替え〉によって、〈速やかに〉改善して、わだかまりの解消に努めましょう。
それが本来の、信仰生活です。
今こそ、邪気、邪念を断つのです。