第二次世界大戦を経験した人が高齢になり、直接話しを聞ける機会が減ってきています。
TVや映画で、日本がその当時どんなだったかは何となくわかりますが、実感が湧かないような感じです。
身近では、母親は愛知県の小牧市の紡績で働いている時に終戦間近で空襲が頻回で防空壕に逃げ込む日々だったそうです。
父親は祖父の反対を押し切って予科練に入隊が決まった7日前に終戦を迎えたそうです。
私は、この土地に移って子供を保育園に預けて、再就職先で壮絶な戦争体験をした方と出会いました。
Tさんは、一緒の夜勤中にポツポツと戦争体験を話して下さいました。
「当時Tさんは、長崎日赤病院の看護学生で8月9日のその日は、それぞれ分かれて学生が実習場所に・・・
Tさんは1人日赤病院の放射線科の実習だったそうです。
11時2分Tさんは丁度Drから頼まれてカルテを持って廊下に出た所だったそうです。強い光でしゃがみ込んだ後爆風が・・・
落ち着いて放射線科の部屋を覗いたらDrは、爆風で壁に叩きつけられて亡くなっていたそうです。
自分は、放射線科の厚い壁に守られて無傷だったとの事(しかし被爆した事にかわりなく被爆者手帳を発行されたとの事です)
同期の看護学生のほとんどは、爆心地から1Kmの分院に実習に行っていて、全滅だったとの事でした。
その後は、負傷した方を体育館に収容して手当したのですが、夏なので蠅が傷口に卵を産みウジが湧いてくるのでピンセットや箸でウジを
取ってあげるのが自分達免許のない看護学生の仕事だったそうですが、ほとんどの方が亡くなっていったと辛そうに話して下さいました」
もう一人のHさんは、家が近かった事もあり96才で亡くなるまで親しくお付き合いをさせて頂いた方です。
「Hさんは、福井の日赤病院から従軍看護婦として最前線の戦地に配属されて東南アジアの島々を転々として、
何処へ行ったか分からない状態だったとの事です。
負傷した兵隊さんを看護しながら、敗戦して後退して行く日々だったとの事・・・
Hさんが、いつも言っていたのは、後退命令が出た時に生存率の低い兵隊さんを置き去りにしなくてはならなく
「連れってくれ~」と泣き叫ぶ声に耳を塞ぎ、歩ける人のみを連れて逃げるよう命令されて、死なずに引き上げてきた
自分が許せない。置いてきた人の分までしっかり生きて、死んだら私は、あの人達に謝らないかんのよ!」でした。
Hさんは、病院勤務している時は、凛とした態度で仕事をこなし、退職後は、高校生の修学旅行の付き添いや近所の人達の
相談役やまとめ役として頑張られてました。
でも時々「今でも置いてきた人の夢を見て夜中に目が覚めて泣くのよ」と弱音を吐かれてました。
Hさんは、一昨年亡くなりましたが、きっと置き去りにした兵隊さんに謝って、やっとHさんの終戦を迎えられたのだと思います。
戦争が世界中から無くなり、悲しむ人がいない未来が来ますようにお祈りします 合掌