
火曜のブログ担当を小原先生とチェンジした石山です。
今日のblogでは普段授業中披露している、私の真面目な部分のみ使った学生作品紹介でいきたかったのですが(もはや過去には触れるべきでないと)笑、小原先生のリクエストもあり宴会の報告をさせて頂きます。
しかし…
個人的な反省から言うと
ああーー…
おかしな事になっていたようですね…
ああ、本当にすみませんでした。
17:00~スタートした一次会が29名で盛り上がり、20:30~の二次会が19名で22:00過ぎまで続き(新橋なのに、翌日仕事であろうに)、みなさんの熱気にあてられもはや記憶が曖昧でございます。
みなさんとのかけあいや、逆にスタッフ同士のやりとりまでも楽しんでいただけたのでしたら幸いなのですが。
講師としてのラインぎりぎりのとこ、いえむしろはみ出しまくりだったのではないかと多少心配しております…苦笑
「すごく楽しかったです!また企画して下さい!」と皆さんに言っていただけた事が唯一の救いです…
たくさんの大人クラスの方とお話できる機会に感謝しています!
お会いできない曜日の皆様にも、この場を借りて御礼申し上げます!
本当にありがとうございました!
今日から写真撮影の仕事で弾丸日程オーストラリアに行ってしまうため、手短ですが宴会報告(反省文?)とさせて頂きます。
火曜クラスには間に合うよう帰国の予定ですので!
9.母なる遊女 谷崎潤一郎『蘆刈』/トポスと「私」 より抜粋
中年も少し年をとってくると、あらためて自分という存在に目を向けることになる。いったい自分とは何者なのか。
もちろん、そんなことは誰しも若いときから、ある程度考えているものだ。若いときだって、自分というものを大切に思い、自分を生かしてゆきたいと思う。そして一般的にいえば、自分のやりたい職業とか、結婚したい相手などが見つかり、そのなかで自分を確立してゆくことになる。
それがある程度成功したとして、そのときに自分とは何かを考えてみると、それを支えてくれるものが、社会的地位や自分の能力や財産や・・・いろいろあるにしても、それを測定する尺度が外側にあって、そのことによって相当明確に自分の位置を見定められることがわかる。
(中略)
このような考えの便利な点は、他と比較することが容易なことである。たとえば「年収」などということを尺度とする限り、その人がどのような職業についていようと、どこに住んでいようと、ともかくピッタリと順位をつけることができる。その尺度はどこにも適用できるという意味で、普遍性をもつ。これがこのような考えの強みである。
しかし、人間が「私」とは何かを考えるとき、これとはまったく異なる考え方もある。
たとえば「私」とは、今ここに一人で山小屋の前に座って、高い山々の峰を見ている。それだけでまったく十分なときがある。これが「私だ」と感じることができるのだ。そんなとき、その山や空気や、そして自分の体の状況や、それらすべてが渾然一体となり、「私」の感覚を支える。
このような感覚がわからない人は、自分がそのときに見た山が「海抜何メートル」であるのか、自分はそこに行くためにはどれほどの費用を使ったのか、その場所は「有名」かどうか、などを強調する。こうした人は、同じように山を見ている「私」について考えるとしても、その尺度は先に述べた一般的尺度に頼っている。
一般的・普遍的尺度はわかりやすいし、他人に対して説得力を持ち、他と比較することが容易なので、多くの人がそれに頼ることになる。しかし、それだけで十分だろうか。「年収」がどれだけ多くとも、「年収」を大きい支えとしている人は、他の非常に多くの人々と同じ人生を歩んでいるわけで、特に「私」というものの独自性を示すことにならないのではなかろうか。
それに対して、ある場所である時に、自分のみが「ウン、これが私だ」と感じたことは、他との比較を超え、一般的尺度に還元しがたいものとしての独自性をもつと言える。前者のみならず後者のような観点からも「私」とは何か、と言えてこそ、「私」というものがわかってきたと言えるのではなかろうか。中年から老年にかけての課題のひとつとして、そのような「私」の発見ということがあげられるだろう。
(中略)
人と場所とのかかわりにおいても、同様のことが言える。
(中略)
わかりやすい例で言えば、「故郷」などというものは、それになるだろう。その場所は、他の人にとっては、それほどの重みをもたぬにしろ、ある人にとっては「心休まる」土地であったりする。
(中略)
場所といっても、それは単なる地点ではなく、それを取り巻く全体的なものの作用を受けているのであり、それはあるとき、ある人にとって特に重みをもつことがある。そのような意味での場所をトポスと呼ぶことにする。
トポスを見いだし、そのトポスとの関連で「私」を定位できるとき、その人の独自性は強固のものとなる。そのようなことができてこそ、人間は一回限りの人生を安心して終えることができるのではなかろうか。老いや死を迎える前の中年の仕事として、このことがあると思われる。
(中略) ・・・おわり
ミオスのことを考えるとき、この“トポス”の話が思い浮かびます。逆のことも言えます。“トポス”について考えるとき、ミオスが思い浮かびます、と。
中年ど真ん中にいる私(本当は認めたくないんですけど。(^_^;))。
この本の巻末エッセイで、養老孟司さんが言っています。「この文章に出会うまで、こういう内容を意識したことは、私にはない。しかし中年の定義としても、みごとなものだと感じられる。そう思わない人は、たぶんまだ中年ではないのである。」
大人の遠足を楽しんだ方々にとって、飲み会までを含めたその日一日は、普段のレッスン以上にきっとミオスに対して、そのトポスを感じていたであろうことは容易に推察されます。
明日へつなぐ、つなげる・・・この「明日へ」を「(私の)命を」と置き換えても構わないと思うのですが、他には譲れない自分だけのもの(世界)をひとつ作ることが、人生を豊にするのかな、と思いました。
土曜午前クラス 太田 浩子
あ、いえ、ありがとうございます!
石山先生が海外にいるのでオバラがコメント返させていただきます。
えー、太田さんの長いコメントを読むのが大変な方の為に要約させて頂きますと、
アトリエ・ミオス☆サイコー!
って感じ?
いっそアトリエ・トポスに改名しちゃおっかなー!?
宴会中に「アトリエは自分が一番自分らしくいられる場所」「一週間をリセットする大切な時間」というお話を何人かの生徒さんたちから伺いました。
これからもミオスが皆さんのトポスであり続けられるよう、スタッフ一同がんばってまいります。
太田さんからの深い愛をしっかり受け取りました。ありがとうございました!
そして小原先生の「アトリエ・トポス」に爆笑しました。(笑
教える側の私にとってもミオスは元気になれる場所、刺激をもらえる場所です!こういったコメントお聞きするたび、もっと皆さんの期待に答えられるように頑張らねば~っと、身が引き締まります!