朝日新聞のいいところは、名前が通るようになれば気ままに振舞えることだ。
本田勝一がそうだった。もっとも彼は若いころから事件ものの取材などにはとんと興味を示さず、道警クラブ員の顰蹙を買っていたとどこかで書いている。
論説委員から編集委員に転じた河谷史夫氏もそうした人種の一人だろう。朝日新聞とは一線を画し、河谷個人で勝負する。それはそれで素晴らしいことだ。
だが、次のような一節を目にすると「うーむ、お主の本心はどこに」と問いたくなる。一ひねりも二ひねりもある曲者文章だ。
《新聞を広げれば、半ば近くがオリンピックと高校野球、加えて一面から社会面、コラムまでが飛んだり跳ねたりの記事であふれるという有り様に暗然とし、テレビをつければ、アナウンサーの絶叫と勝者の雄叫びに唖然とし、さらにまた、しょせんは他人の勝ち負けに泣いて喜んだり悲しむ姿に呆然として、ことしは「とにかく夏よ、去れ」と念じる日々であった》=選択9月号=
素粒子などという原稿を書いた反動か、だらだらと流れる文章だが、それは置いておこう。
当ブログでも以前書いておいたが、朝日の五輪記事、とりわけ「看看北京」はひどかった。河谷さんが「コラムまでが」と嘆く気持ちも分からないではない。
しかし、書いているのは同僚ではないか。同じ編集委員の肩書きも散見された。「おかしいんじゃないの」と言ってあげるのが普通だろう。ところが、河谷氏はコラムニストや編集委員の原稿も「飛んだり跳ねたりの記事」と馬鹿にするだけだ。紙面構成についても「半ば近くがオリンピックと高校野球」とあきれて見せるが、自分もそれに加担していることについては口をつぐむ。
もう63歳ぐらいになっているだろうから、正規労働者ではないのかもしれない。「現役の連中にあれこれ言ってもうるさがられるだけ」との思いもあるだろう。でも、スタイルにこだわる編集委員の本心は別にあると観た。
こうして斜に構えて「朝日の良心」をさりげなくアピールする。朝日をけなしているようで、実は朝日の懐の深さをさりげなく伝える。河谷さんの役割はそんなところだろう。
自民党総裁選に出るであろう「咬ませ犬・小池百合子」らと同じ役回りだ。河谷さんも小池も、自分の役回りを承知の上で、反(半)体制づらをしてみせる。目指すところはそれぞれ違うのだが、やっていることはほとんど同じだ。こういう人種を自意識過剰というのではなかったか。
本田勝一がそうだった。もっとも彼は若いころから事件ものの取材などにはとんと興味を示さず、道警クラブ員の顰蹙を買っていたとどこかで書いている。
論説委員から編集委員に転じた河谷史夫氏もそうした人種の一人だろう。朝日新聞とは一線を画し、河谷個人で勝負する。それはそれで素晴らしいことだ。
だが、次のような一節を目にすると「うーむ、お主の本心はどこに」と問いたくなる。一ひねりも二ひねりもある曲者文章だ。
《新聞を広げれば、半ば近くがオリンピックと高校野球、加えて一面から社会面、コラムまでが飛んだり跳ねたりの記事であふれるという有り様に暗然とし、テレビをつければ、アナウンサーの絶叫と勝者の雄叫びに唖然とし、さらにまた、しょせんは他人の勝ち負けに泣いて喜んだり悲しむ姿に呆然として、ことしは「とにかく夏よ、去れ」と念じる日々であった》=選択9月号=
素粒子などという原稿を書いた反動か、だらだらと流れる文章だが、それは置いておこう。
当ブログでも以前書いておいたが、朝日の五輪記事、とりわけ「看看北京」はひどかった。河谷さんが「コラムまでが」と嘆く気持ちも分からないではない。
しかし、書いているのは同僚ではないか。同じ編集委員の肩書きも散見された。「おかしいんじゃないの」と言ってあげるのが普通だろう。ところが、河谷氏はコラムニストや編集委員の原稿も「飛んだり跳ねたりの記事」と馬鹿にするだけだ。紙面構成についても「半ば近くがオリンピックと高校野球」とあきれて見せるが、自分もそれに加担していることについては口をつぐむ。
もう63歳ぐらいになっているだろうから、正規労働者ではないのかもしれない。「現役の連中にあれこれ言ってもうるさがられるだけ」との思いもあるだろう。でも、スタイルにこだわる編集委員の本心は別にあると観た。
こうして斜に構えて「朝日の良心」をさりげなくアピールする。朝日をけなしているようで、実は朝日の懐の深さをさりげなく伝える。河谷さんの役割はそんなところだろう。
自民党総裁選に出るであろう「咬ませ犬・小池百合子」らと同じ役回りだ。河谷さんも小池も、自分の役回りを承知の上で、反(半)体制づらをしてみせる。目指すところはそれぞれ違うのだが、やっていることはほとんど同じだ。こういう人種を自意識過剰というのではなかったか。