動画はちょっと前のものですが問題は今なお続いています。
【シェア・拡散お願いします】竹富島の声を聞いてください
こちらの記事も参考にしてください。
https://yoitabi.jp/news/post-18119/
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下の図の本は鳥海山の史跡について各所から調べ上げた労作なのですが特に拝所の記述に関して間違いが結構見受けられます。
別の所でその一つとして七五三掛連嶺の読みについて書いたところ連絡いただきました。
七五三掛より続く七五三掛連嶺
この本では七五三掛連嶺を七五三連嶺を(しちごさんながね)としてあります。
読みにくいと思いますが
W28拝所【鳥の海御浜の神】坂の絶頂には鳥海湖を遥拝できる拝所があったという。ここから登山道は、「七五三連嶺(しちごさんながね)」とも云われる外輪をたどる。
と書いてあります。七五三連嶺は(しちごさんながね)などとは呼びません。山岳信仰において七五三は「しめ」と呼びます。ここから先は聖域なので、注連を新しいものに代えて、古い注連は木に掛けることから七五三掛(しめかけ)と呼びます。ここの呼称は七五三掛連嶺(しめかけながね)です。
なぜ上記の本ではこう書いたかといえば、それは橋本賢助の「鳥海登山案内」を丸写しにしたからです。
【鳥の海御浜の神】坂の絶頂には鳥海湖を遥拝できる拝所があったという。この記述も同じです。史跡鳥海山保存管理計画書(平成23年3月、販売していません)にも「坂の絶頂には鳥海湖を遥拝できる拝所があったというが不明」としてあると連絡がありました。
これは橋本賢助が太田宣賢の「鳥海山登山案内記」を読み違えた結果です。下の画像は太田宣賢「鳥海山登山案内記」の該当の箇所。
山頂に行く前に御浜へ降りるというのは考えにくいでしょうがあくまでも文章の上。この本はあくまでも蕨岡道の紹介、御浜は吹浦道の拝所ですが重要な拝所として外すわけにはいかなかったのでしょう。この文章を読み違え外輪の上に鳥の海遥拝所があると考えてしまったのでしょう。鳥の海遥拝所は御浜のことです。
「鳥海山麓遊佐の民族(上) 遊佐のお参り文化 中山和久」は太田著を参照している箇所もあるようですが鳥の海遥拝所に関しては橋本賢助の記述をもとにしているとおもわれ「場所は不明」としています。
ページ冒頭に御田ヶ原が登場しますがこれは昭和の幕営で裸地とされ姿を消してしまったところで現在探してもありません。また大雪路、小雪路も文字はこのように書かれていた証左でもあります。
この「鳥海山登山案内記」までたどらないと蕨岡登拝道の詳細までうかがうことはできません。
津雲出郷(ツクモデゴウ、ツクモイヅゴウ)とは十四世紀ころの矢島町の古い呼び名です。
当時の記録には読み方までは書いてありませんのでもしかしたらツクモイヅノサトかもしれません。近年であれば矢島口登拝道を例に挙げてみれば「御田」はその読み方が多くの書にオタ、オンタと記載されており間違うのは勝手に読み違えている人ばかり。
先日頂いた冊子「津雲出(つくもで)」矢島町の郷土史研究会によるものです。
長い間康さんの鳥海山日記のこの部分が不明でした。大舘高校の二名の遭難の話のところです。
鳥海山日記 昭和28年8月
八月十四日
天気が悪いので、五人は、午後二時半、頂上に登った。暴風もおちついてきた。
午後七時、この五人のうちの一人と、本社の飯炊き須田元太郎の二人が来て話す。
きのう登った二人が遭難しているとのことだ。遭難場所は、七高山破方口の風石と蛇石の間。死んだ二人は五十メートルも離れて死んでいるとの事だ。
「七高山破方口の風石と蛇石の間」ここが不明でした。
そのまえに宝永元年 (一七〇四 )九月二十二日幕府詳定所における矢島、庄内の鳥海山境界争いの採決文には次のようにあります。
矢嶋百姓申す所、峯通りの証據一円これなし、今度新規の総図面に峯境相知らざる由、これを記すに付、正保年中の古絵図點検せしめ候、庄内領百姓申す趣と符合せしめ候、その上蛇石を限り両郡境の由申すといへども、膀示より八拾間余り北方に件の石これあり、糾明せしめ候処、蛇石より南は飽海郡の由証文これあり候、此石庄内領においては、虫穴と名付けている旨申すに付、由利郡鳥海山麓の者並びに小瀧村衆徒に相尋候処、蛇石は焼石峠の所で仁加保道にこれあり、矢嶋百姓申す処の蛇石は、虫穴と号し由、これを申し、不毛の地、麓之村々並びに由利郡本郷村庄屋不致進退旨これを申す。(引用は松本良一「鳥海山信仰史」)
矢嶋百姓のいうところの蛇石と庄内百姓のいうところの蛇石が違っていたということです。矢嶋でいう蛇石は庄内でいうところの虫穴で由利郡鳥海山麓の者並びに小瀧村衆徒に尋ねたところ蛇石は焼石峠のところで仁賀保道(象潟口)にあるということだったのです。その時の張り抜き模型には焼石峠と蛇石、虫穴ははっきりと書かれています。
ところが今回読んだ「津雲出(つくもで)」令和元年第31号
付記 「鳥海山大権現」に記載されていない場所 千三百九十一年以降に記されたり誕生した拝所・名所 ここには次の記述があります。
蛇石
外輪山最北端の頂き部。舎利坂金鎖斜面を登り上げる時、行く手正面から襲いかぶさるように、頭上に迫ってくる蛇頭に削られた頂き部東面の名。
斜面を登り終え、左折して七高山、右折すると蛇石の頭。
(七高山とほぼ同じ高さ )
破方口
舎利坂を登り終えた後の蛇石・七高山の分岐地点。 (左右の頂きへの凹部 )
日本海から山頂に真直ぐ上昇してきた気流が外輪内壁に当たり、左右上下に分かれる地点」から名付けられたと言う。
七高山頂から稲倉・鉾立方面を眺望する時、その視界は左に新山、右に蛇石、中央に稲倉、中央下部が破方口の構図となる。
虫穴 (虫穴権現 ) (風石・縁結び岩 )
七高山から南に外輪を一五〇mほど歩むと、左手に屏風のように立つ大岩がある。この大岩を「虫穴』または「虫穴権現」「風石」「縁結び岩」と言う。ゴツゴツした溶岩肌が長年の風化によって、虫に食われたように細かな凹凸状になっている。近年はあまり目立たなくなったが、昭和三十六年頃までは、多くの紙縒りが岩の凸部に結ばれていた。
その昔、女人禁制の山だったこと、男女の愛が慎ましやかに表現された時代の思い、家族の幸せ等々を祈願したものであったろう。
また、「風石」は西風の強い日に暖と休息の取り場所としてこの岩かげを利用するから…と聞いている
画像は津雲出31号より
蛇石、破方口、虫穴が一直線に並びました。鳥海山日記の遭難場所もここで頭の中に浮かんできます。
ただし庄内側の古絵図では「津雲出(つくもで)」に記載された蛇石が破方口、あるいはは破方口山となっているように見えますし、境界争いの文書では蛇石が「津雲出(つくもで)」と異なっています。土地によって同じ場所でも呼び名が違うというのは往々にしてあることと思えばいいのですが、やはりここは斎藤重一さんが存命ならば、何度も「破方口に出た」と書いているくらいですから明確になったことでしょう。
脳卒中には次の三つが含まれます。脳の血管が破れる「脳出血」、脳動脈瘤が破裂する「くも膜下出血」、脳の血管が詰まる「脳梗塞」
脳卒中がなんで鳥海山と関係があるかって?類は友を呼ぶというのか、鳥海山で一緒になりfacebookでも繋がりのあるKさんが最近投稿がないと思ったら脳梗塞で入院中。
今は新たに発行していませんが鳥海山、東北の山を取り上げた小雑誌。佐藤要さんの発行です。残部のあるものは今でも楽天で購入できるようです。中身は大変濃いです。
見本のシールが貼ってあるのは佐藤要さんのところにも残りの在庫がなく、欲しい記事があったため分けていただいたもの。
ずっと以前から書店に置いてあるのは知っていたのですがなぜか販売中は買わなかった、終刊になってからちょこちょこ集めているのです。最初から買っておけばよかったと、いまさら、と思うことの多さよ。