鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山のオコジョ

2019年08月14日 | 鳥海山

この時、何枚か撮影したのだけど、元フィルムが行方不明。
わずかに残った一枚のプリント。
これは千蛇谷のオコジョです。
チョロチョロ、チョロチョロ、かわいいこと。
人がいるのにもかかわらず、結構長い間岩を出入りして姿を見せてくれました。

他には御浜にも現れました。管理人室の裏口から小屋に入ってきて、畳の上ででんぐり返しを何度かしてから出て行きました。

ある時、テレビのクルーが二人でやってきてオコジョを撮影してみたいと、御浜小屋の裏手の岩場にポテトサラダをまいて、そんなもの撒いたってオコジョはあらわれません。オコジョは肉食なのです。
二人組、そのポテトサラダ、片付けもしないで帰ってしまった。

山男Mさんは冬の鳥海山で真っ白いオコジョがウサギを捉え食らいついているところを写真に納めたそうです。

オコジョには出会うことができましたが、幸いなことに熊さんには出会うことが出来ませんでした、今のところ。ただし、熊さんの通過直後の強烈な獣臭には二度、滝の小屋の下の追分、手代林道で遭遇しました。

御浜、百宅口大倉の滝近く、また唐獅子平での遭遇情報もありますし、二ノ滝駐車場にもかつてあらわれたと聞いたことがあります。
これからの季節、熊さんには気を付けましょう。

かつて熊さんと戦って一勝一敗というAさんは、襲われる瞬間、ありゃ、なんてかわいい顔してるんだと思ったそうです。

ちなみに、一敗は熊パンチでヘルメットをたたき割られたとき、一勝は斧で切りかかり熊さんが退散したのだそうです。

はい、お粗末様でした。


ふるさと 鳥海山 村岡謙治

2019年08月14日 | 鳥海山
自称・他称プロ、アマチュア、多くの人が鳥海山写真集を出しているけれど一番見ごたえがあるのは村岡謙治さんの「ふるさと 鳥海山 Ⅰ」「ふるさと 鳥海山 Ⅱ」です。村岡さんはもう一冊「鳥海 写真集 四季生彩」と出していますがこれはちょいと生彩を欠きます。
「鳥海 写真集 四季生彩」この前、志の無い本屋B※※K O※※で108円で売られていた。手元にあるから買わなかったけれど、あの本のために買っておくべきだった。
そのあと行ったときは無かったのでセドリされたか好きな人に買われたかしたのだろう。

A4スキャナーでスキャンしたので全部は写っていませんがサイズは30×42cmと結構大型です。
今となっては入手も難しいようですが図書館にはあるかもしれません。
これだけの中身の充実した鳥海山写真集は後にも先にも表れないでしょう。
プロでないからこそ、逆にアマチュアだからこそつくることができたんですね。
村岡さん、鳥海山ではいつも長靴、しかも必ず三馬印の長靴。一番丈夫で履きやすいのだそうです。首からカメラをに二、三台ぶら下げていました。

写真家の石橋睦さん、この方も足しげく鳥海山に入山され、しっとりとした写真集を出しました。
石橋さんご夫婦は鳥海でよく一緒になりました。スプレー式のインスタントコーヒーを山で差し上げたら後日あった時奥さんから、あれは美味しかったねと喜んでいただけました。

ところで、有名なプロの写真家も鳥海と名の付く写真集をだしているのですが、中身を見るといつ、どこで撮ったかがわかるばかりか、たいして情熱の感じられない写真ばかりです。
昔、地元に縁有る有名な某山岳写真家が鳥海山の写真展をある町で開催した時のこと、同時に写真も販売していたのだそうですが、ある人が写真展を見て、いいなあ、よし、写真を購入しよう、と思った瞬間、「まてよ、こんな写真くらい俺にも撮れるかも知れない。」と思い直して購入をやめたそうです。

どうも写真というものはどっか、まあ言いたいことはひかえておきますけど。
多くの写真を他人の目にさらすことを生きがいにしている人たちは何故か、自分の所有機材、カメラ、レンズ、撮影時のシャッタースピード、絞りまで余さず一緒に添付してくる。中には自分の持っていないレンズを記してそれで撮ったと称している。
油彩、水彩でキャンバスメーカー、絵の具、筆メーカーまで書いてくる人はいません。
もっとも、油彩を見せびらかすと同時に「画家」と肩書の付いた名刺を差し出した馬鹿が現れたのには驚きましたが。

写真に関しては、いかに商売に踊らされて虚栄に満ちている人の多いことかと思います、そういうこちらがひねくれて間違っていると言われればそう認めますけどね。

商業写真としてのプロは成り立つけれど、芸術としての写真は難しいですね。土門拳の写真はドキュメンタリーとしての迫力に満ちていますし、感動を与えてくれますが.........






千蛇谷の老人

2019年08月13日 | 鳥海山

鳥海山で出会った今までの最高齢の方は千蛇谷で出会った八十いくつかのお爺ちゃん。
お孫さんに手を引かれ、
「じっちゃん、早ぐー!」
「こえぐで(大変疲れて)歩がんね~」
「早ぐー!」
「こえぐで歩がんねでぃや~」

頂上で休んでいるとお孫さんと二人、ちゃんと登ってきました。
自分もその年まで登りたいなーと。

快晴のある日、象潟の知り合いがやはり千蛇谷を登っていくと前方をエッチラオッチラ登っていくお年寄り。

たいしたもんだと思って後ろから声をかけた。

「爺っちゃん、じっちゃん、元気だのー」
するとご老人、くるりと振り向いて、

「おれ、おなごだー!」

おあとがよろしいようで。

東雲荘の蟒蛇(うわばみ)女

2019年08月12日 | 鳥海山
 鉾立登山口すぐのところにある東雲荘とううんそう、そこの管理人斎藤さんとは二十年以上にわたる長い付き合いでした。鉾立口から入山した時は行きかえりに必ず顔を出したものでした。
 昔写した東雲荘台所の様子。ガス炊飯器はあまりにも傷み具合が激しかったので寄付させていただきました。
 管理人室はガスコンロと流し台の向こうで外に出入り口があったのですが、ガスコンロの上のガラス窓は開閉できるので斎藤さんは時々そこから出入りしていました。
 
 ある日山行きの帰りに東雲荘によると、夫婦物とそれを囲んで数人の女性で大酒宴の真っ最中。
 まあまあこっちへ、というので帰りだから酒は付き合わなかったけれどしばらく話を聞いていました。
 夫婦物の語るところでは、旦那は東北のある発電所に勤めていて、二人でドライブにきて鉾立まで足を延ばし少し歩いたところこの東雲荘を見つけてお邪魔したのだそうです。
 その奥さんの飲むことの飲むこと。途中で酒が足りなくなって稲倉山荘の売店に買いに行く始末。
 周りにいた女性グループは仙台の病院の看護婦さんたちでした。(そのころ看護師さんなんて呼称はまだありませんでした。また、鳥海山に来る女性は看護婦さんグループというのが結構多かったです。)
 その周りの看護婦さんたちも一緒になっての宴なものだから旦那も飲む、奥さんも飲む。もうわけのわからんほど。
(東雲荘の一室)
 
 時間も時間なので、泊って行けとはいわれたけれど、失礼してその夜は帰らせていただいたのです。ここで一泊して朝帰りして出社してたなんてよくあったので。
 
 で、話はそれからです。
 
 しばらくしてから東雲荘に顔を出すと、斎藤さん
 
 「このめえ(この前)は大変だったんだ~」
 
 「旦那に風呂入れって言って風呂入ってもらったらよ~、旦那のいね間よっ」
 「おなごの方が『おれ奥さんでなんかでねえんだー、おれ飲み屋のおなごだー』っていうのよ。『ほんでドライブいごっていうから奥さんさ内緒でついてきたんだー』ってんだ。」
 
 「男も寝でしまたようだで、おなごの方さ、風呂入れっていったらまず入ったんだ。」
 「しばらぐしてよ、あんまり風呂出でこねもんだから看護婦の姉ちゃんがださ見いいがしだば、ふぐ(服)着たまんま風呂さはいて寝っだんだけど。」
 「それがらよ、姉ちゃんがだがら引っ張り出してもらて、ふぐ脱がしでもらて体拭いでもらてそいがら寝がしだのよ。」
 
 「ストーブ焚いで上さふぐやら乳バンド吊るしてよ、下さ落ぢで焦げねよヨッピで番しったのよ、まず寝らんねけ。」
 
 「次の朝よ、おなご目え覚めっど帰り支度して『おじさん、夕んべは楽しけ、ありがどの、まだ来るの』って帰っていたけどよ、」
 
 「あど、来ねたって良っ!」
 

鳥海山、遭難、そーなんです。

2019年08月11日 | 鳥海山

鳥海山に限らず、山は危険なところなんです。

まさか自分たちの身に起ころうとは、

携帯電話なんてまだなかったころの話。

9月、秋晴れの日ゆっくり家を出て、翌日頂上へ行くことにして一行四人御浜で一泊。

その日は祝日だったため、御浜小屋は神主さんが泊まりに来ていて酒を酌み交わしました。

 

翌日も頂上は快晴。新山山頂からは360度見渡せます。

仙台から一人でやってきたというK子さんという方と一緒になり、記念撮影。

この時、鉄剣を手にしたのが間違いだったか。

 

この後我々は女性と別れて外輪を降り始めるのだが、

どのくらい歩いただろう、行者岳までも行かないうちだ、

先頭を速足で歩いていた、先の写真の鉄剣を持って写っていたOさんが這松の所にうずくまっている。

「やっちまった」

見ると足首が外側へ完全に曲がり、ソックスは見る見るうちに血にまみれていく。

骨は皮膚を突き破っている。開放骨折だ。

すぐさま周りの這松を切り、副木とし、荷物にあった細紐で結わえる。

そこからがとてつもなく長かった。

 

その人なんと体重が90㎏以上ある。我々交代で左右方を貸し、一人は荷物を持ち外輪尾根を降る。

Oさんは片足をつきながらうめき声も出さずに歩き続ける。

 

七五三掛を過ぎたあたりだろうか。あとから降りてきたラグビー選手のような体つきをした男の人と連れの女性。

どうしましたと声をかけてくれる。

女性が男性に向かって静かに一言

「ねえあなた、助けてあげて。」

男性は女性に自分の荷物を渡すとおもむろにOさんを背負って歩き始めた。

われわれのうち一人が走って御浜小屋まで助けを求めに行く。

急なところを過ぎたあたりで御浜から神主さんと先に行った一人が戻ってきたので二人連れには夕方にもなったので皆で丁重に礼を言い、先に下山していただいた。

小屋から持ってきた板材で担架をつくり搬送を始めたのだが、Oさんの体重を支え切れず、いくらも歩かないうちに木材はミシミシと音を立てて割れ、応急の担架は使い物にならなくなってしまった。

そこへ若い眼鏡をかけたいかにもオタクといった風体の男が山の石を両手にもって下山してきた。

神主さんが

「おーい、山の石を持ち帰るな!山が低くなる。」

と呼びかけると、ああ、何十年たった今でも思い出すと腹が立つ、これで殺意が芽生えなかったら人じゃない。

なんといったと思う。

「ふんっ、何が骨折だ。骨折くらいでどうしたというんだ、おれなんか癌であと少しの命なんだ。何が骨折だ、ばからしい。」

と言って振り返ることもしないで去っていった。

 

偶然には助けられるもので、その時後から下山してきた一行に高校の同級生が。

彼にみんなの家族、職場への連絡を頼み引き受けてもらった。 (翌日はみんな出勤日だったから。)

 

扇子森であたりは真っ暗。どんどん寒くなってくる。

一息と横たわった途端睡魔が。寒いと眠くなるって本当なんだなと思ってウトウト。ハット我に返って歩き始める。

やっとのことで御浜小屋にたどり着き、無線で救助を求める。

夜も遅いため救助隊も登ってこられず、明朝夜明けを待って救助に来ることに。

翌朝救助隊到着。無事鉾立に搬送。

Oさん、最後まで痛いと一言も言わなかった。

山岳救助隊の一人からは、もう登りたくはないだろうといわれたが、そんなことはない、

ここからが更に旅重なる鳥海山行きが始まるのであった。

 

その時駐車場のガスがかかった中から、一人の女性が、

頂上で一緒になったK子さんだった。

われわれのことを心配して待っていてくれた。

その女性とはそれ以降十年以上連絡が続いたかなあ、いつの間にかお互い音信不通になってしまったけれど。

とても達筆な人だった。メールなんかない時代だからね。

 

 

その何年か後、今度は遭難者を見ることとなった。それはまた近いうちに。