鳥海山に限らず、山は危険なところなんです。
まさか自分たちの身に起ころうとは、
携帯電話なんてまだなかったころの話。
9月、秋晴れの日ゆっくり家を出て、翌日頂上へ行くことにして一行四人御浜で一泊。
その日は祝日だったため、御浜小屋は神主さんが泊まりに来ていて酒を酌み交わしました。
翌日も頂上は快晴。新山山頂からは360度見渡せます。
仙台から一人でやってきたというK子さんという方と一緒になり、記念撮影。
この時、鉄剣を手にしたのが間違いだったか。
この後我々は女性と別れて外輪を降り始めるのだが、
どのくらい歩いただろう、行者岳までも行かないうちだ、
先頭を速足で歩いていた、先の写真の鉄剣を持って写っていたOさんが這松の所にうずくまっている。
「やっちまった」
見ると足首が外側へ完全に曲がり、ソックスは見る見るうちに血にまみれていく。
骨は皮膚を突き破っている。開放骨折だ。
すぐさま周りの這松を切り、副木とし、荷物にあった細紐で結わえる。
そこからがとてつもなく長かった。
その人なんと体重が90㎏以上ある。我々交代で左右方を貸し、一人は荷物を持ち外輪尾根を降る。
Oさんは片足をつきながらうめき声も出さずに歩き続ける。
七五三掛を過ぎたあたりだろうか。あとから降りてきたラグビー選手のような体つきをした男の人と連れの女性。
どうしましたと声をかけてくれる。
女性が男性に向かって静かに一言
「ねえあなた、助けてあげて。」
男性は女性に自分の荷物を渡すとおもむろにOさんを背負って歩き始めた。
われわれのうち一人が走って御浜小屋まで助けを求めに行く。
急なところを過ぎたあたりで御浜から神主さんと先に行った一人が戻ってきたので二人連れには夕方にもなったので皆で丁重に礼を言い、先に下山していただいた。
小屋から持ってきた板材で担架をつくり搬送を始めたのだが、Oさんの体重を支え切れず、いくらも歩かないうちに木材はミシミシと音を立てて割れ、応急の担架は使い物にならなくなってしまった。
そこへ若い眼鏡をかけたいかにもオタクといった風体の男が山の石を両手にもって下山してきた。
神主さんが
「おーい、山の石を持ち帰るな!山が低くなる。」
と呼びかけると、ああ、何十年たった今でも思い出すと腹が立つ、これで殺意が芽生えなかったら人じゃない。
なんといったと思う。
「ふんっ、何が骨折だ。骨折くらいでどうしたというんだ、おれなんか癌であと少しの命なんだ。何が骨折だ、ばからしい。」
と言って振り返ることもしないで去っていった。
偶然には助けられるもので、その時後から下山してきた一行に高校の同級生が。
彼にみんなの家族、職場への連絡を頼み引き受けてもらった。 (翌日はみんな出勤日だったから。)
扇子森であたりは真っ暗。どんどん寒くなってくる。
一息と横たわった途端睡魔が。寒いと眠くなるって本当なんだなと思ってウトウト。ハット我に返って歩き始める。
やっとのことで御浜小屋にたどり着き、無線で救助を求める。
夜も遅いため救助隊も登ってこられず、明朝夜明けを待って救助に来ることに。
翌朝救助隊到着。無事鉾立に搬送。
Oさん、最後まで痛いと一言も言わなかった。
山岳救助隊の一人からは、もう登りたくはないだろうといわれたが、そんなことはない、
ここからが更に旅重なる鳥海山行きが始まるのであった。
その時駐車場のガスがかかった中から、一人の女性が、
頂上で一緒になったK子さんだった。
われわれのことを心配して待っていてくれた。
その女性とはそれ以降十年以上連絡が続いたかなあ、いつの間にかお互い音信不通になってしまったけれど。
とても達筆な人だった。メールなんかない時代だからね。
その何年か後、今度は遭難者を見ることとなった。それはまた近いうちに。