鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

大物忌神社吹浦口之宮

2020年02月22日 | 鳥海山
 今年は雪が全くないので、吹浦大物忌神社までちょいと散歩。

 右に見えるのは下拝殿です。

 下拝殿左側の石段を上ります。
 雪は全くありません。
 この石段を上りきると、
 やっと拝殿です。この拝殿の左にまた石段があり、そこを上ると

 柵越しに二つの本殿が見えます。案内書は何種類も出ていますので、今更書くこともないのですが、手前が摂社月山神社本殿(せっしゃつきやまじんじゃほんでん)、奥に見えるのが大物忌神社本殿です。どちらも国登録有形文化財です。大物忌神社御本社は鳥海山山頂にありますね。
 この本殿右側には石段の登り路があります。この登りは結構続きます。
 この路は現在は東参道となっていて、 国道七号線から神社に参拝に行く路になっていますが、この道路、国道七号線で寸断されているものの、かつては山頂への登拝路になっていたようです。ブルーラインができる前はみんな下から登ったのですから。
 東参道の現在の終点はこの鳥居のあるところです。七号線に車を置いた人はこの鳥居をくぐり、この先石段を下りて拝殿へ向かいます。

 鳥海山吹浦大物忌神社と蕨岡大物忌神社との争い、また、秋田矢島側とのかつての紛争はいろいろな資料がありますので興味のある方はどうぞ調べてみてください。
 一例をあげれば、大物忌神社で出した、「鳥海山」、姉崎岩蔵氏の「鳥海山史」、どちらも古書で探すか図書館で探すかしかないのですが面白いですよ。特に、姉崎岩蔵氏は矢島生まれのため、かなり矢島側に立った記述で、延喜式の鳥海山御本社に関する解釈も現在通例で言われている解釈とは異なります。

 今度は大物忌神社蕨岡口之宮へ行ってきます。そういえば、蕨岡口之宮には随神門があるのですが、吹浦口之宮には随神門がありません。なぜでしょう。


博物館動物園駅

2020年02月22日 | 旅行
 上野駅、又その周辺は東北育ちの人にとっては格別の思いのある場所なのではないでしょうか。

 先日、文春オンラインの記事を見ていたら「廃駅となった博物館動物園駅に潜入した――京成上野駅からわずか0.9kmの“非日常空間”」という記事がありました。

 京成電鉄の「博物館動物園駅」のは廃駅なのですが、初めて東京へ行った時は現役の駅でした。上野のどこかに西洋建築の駅があったなあ、とずっと記憶の片隅に引っかかっていて、上野へ行ったときに探し当て、二、三度訪れたことがあります。

 京成電鉄がこの駅舎を残した理由は文春オンラインの記事に詳細がありますが、文化遺産として保護保存していく企業の姿勢は立派なものです。
 同記事によれば、「東京都選定歴史的建造物の指定を受けて、京成電鉄は一般公開を想定した改修を実施した。といっても、なるべく現状を維持し、新たに取り付けた施設は防火用設備とLED照明程度だ。整備したところは地下1階のきっぷ売り場前まで。ここまでは定期的な清掃を実施している 」とのことですが、歴史的価値のある施設をこういった形で残すのが街にも建物にも一番いいのではないでしょうか。京成電鉄は「地域貢献のため、文化的な催しに限って使用を許可する方針」だそうです。

 いろんなところを見ると、若い人が中心となって何かを行うとか、イベント屋を利用してお祭り騒ぎを行うだとか、一時的人寄せの行事だけが行われ、過ぎれば施設は放置され、だれも顧みることもないという状況の方が多いようです。
 観光のために施設を残し、それで客寄せ、地元に銭を落とさせよう、などという発想では文化、文化財の保護・保存などできないと思います。過去にそういう半端な取り組みを行ったところが現在どうなっているか、そういうイベントを行った当人たちも、又そこへつり込まれていった人々にもなんの記憶も残さず現在に至っているのではないでしょうか。賑やかなのは商店街だけで結構です。
 駅舎の扉です。

 たまたま、解放されているときにも行きました。
 入り口入ったところのドーム型天井です。
 左に見える変なオブジェは逆さ兎らしいです。気持ち悪いし、邪魔ですね。「きっぷうりば」とひらがなで書いてあるのがまたいいです。
 黒田記念館側より見たところ。小さな国会議事堂のようです。

 これは上野ではありませんが、商業施設の中の一店舗ではなく、ごく普通に街の中にこういう店舗があるというのはいいですね。


魚市場、きのうのパン

2020年02月19日 | 兎糞録
 昭和三十年代初め、小学校に入る前、港の近くに住んでいました。近くには島への連絡船を待つ人のための葭簀張りの売店、駄菓子屋もあり、当時はまだ魚もそこの魚市場に揚がっていました。棒状のバーハンドルのオート三輪が走り始めた頃です。葭簀張りの売店にはお使いで四部休符の書いてある煙草、いこいを買いにやらされていました。
(出典:http://www.lsando.com/oldcigarette/oldcigarette11.htm )

 よく、魚は生臭いと言いますが、新鮮な魚はちっとも生臭くなんかは無いんですよ。


 初めて築地の魚市場へ行ったとき、大江戸線の地下鉄の出口階段を上るに連れて漂ってくる市場の新鮮な魚の香りにその頃のその場所を思い出しました。
(築地魚市場移転前の場外市場の賑わい)
 談志師匠の落語「芝浜」にもありますよね、「魚が生臭いだなんて言いやがる。」「そんな野郎どもは、生きのいい魚を食ったことがねえんだ。」と魚屋の言ったセリフが。

 この街は海は近いんですが、いい魚は地元には回ってきません。知りあいの魚料理のお店の主人も言っていましたが、いい魚介類は皆県外の港へ水揚げされるのだそうです。そこの港の名前が付いた方がいい値が付きますからね。もっとも、港はあっても水揚げする大きな市場がないのですから。
 料理屋さんは特別なルートで手に入れると言っていました。鮮魚、海産物を売りにしている店に行ったって、生臭すぎて長時間店にいられません。

 その港の近くに大きなパン屋さんの工場がありました。最近、そこのパンを売っていないと思っていたら近年自主廃業してしまったのですね。工場に直接食パンを買いに行くと美味しかったのですが。


 時は冒頭に戻りますが、そのころ昭和三十年代初め、時々母親が十円渡して「パン屋さ(に)いて、「きんのの(昨日の)パンくれ、て言て買てこい」と言われ買いに行ったことを昨日のことのように思い出しました。


 こんなパンはグローブのように見えたので、手手(てて)パンと勝手に名付けていっていました。


 きのうのパンは子供が持つにはとてもたくさんあり、またとても豪華なもののように思えました。

 鳥海山の麓に美味しいパン屋さんがあったのですが、十五年やったので節目だと言ってやめてしまいました。買って帰る途中車のなかが馥郁たる小麦粉の香りに満たされるくらいのパンだったのですが、残念です。


今は無き構築物

2020年02月17日 | 兎糞録
 以前、「荒れるがまま」というタイトルで書いた記事の建物に関連したお話です。
 十年以上前の映画ですが、本木雅弘 主演の「おくりびと」で使用された小幡という料亭の洋風別館の建物です。この建物の話ではなく、この写真の左端、石垣の上に松の木が一本、その左隣にかつてレンガ造りの建物がありました。
 上の写真の通り、映画「おくりびと」の中の風景でみられるように今は全くの空き地です。足場パイプでバリケードがつくられていますが、その下は数メートル地面が低くなっています。
 実は、ここに、小幡洋風別館以上に古いと思われるレンガ造りの建物があったのです。
 市の資料館で写真を頂いてきましたが、資料展を開催した時も、だれもこの建物について由来も履歴も知る者はいなかったという事でした。この写真が撮影された時点では飲み屋が何軒か入る雑居ビルとなっていました。壁面に「サントリー」という看板が掲げられているのがわかります。きっと、オーナーは飲み屋の入ったビルとしてサントリーにアピールして看板を設置させたか、サントリーが宣伝のために看板を設置したかなのでしょう。駅前にあった飲み屋さんが移転したのでおいでくださいという案内を頂き、一度だけそこに飲みに行った記憶があります。
 写真の後方に見えるのは分譲マンションですが、このマンションが出来たのは1997年7月 、映画おくりびとの公開は2008年、撮影は2007年あたりでしょうか、とすると、2000年前後に解体されたという事になるかもしれません。
 入り口が半分坂道で隠れています。左の消防団の倉庫の所から回り込んで入っていったものと思われます。地面はずっと下にあるという事は、この入り口は実際は二階だったか、下が半地下だったのでしょう。
 小幡そのものは、お金持ちの方が名乗りを上げ、修復されるようですが、この建物は誰からも記憶されることなく消え去ってしまいました。
 小幡洋館は大正11年築でその時の写真にはすでに写っていたそうですからかなり古い建物という事になります。雑居ビルになる前は、印刷所であったらしいですが、これだけ古ければ、構造上の危険、維持管理費の問題等の理由を掲げられ、まして所有者が保存の意志をを持たなければ消え去る運命にあったのは仕方のないことかも知れませんし、ただ個人の記憶の中の懐かしさだけで終わってしまうのかもしれません。
 しかし、それでもなお、建物が消滅しようとも、こういった記録を後世に残しておくのも今を生きる人の務めではないでしょうか。
 未来は過去の歴史の上にしかないのですから、過去の記録を紐解き、対話していかなければ将来はあり得ませんのでこういった記録を例として考えてみるのもいいのではないかと思います。
 資料館でみた写真のおまけです。工場地帯に鉤形状の運河があります。現在は奥の曲がったところは埋め立てられ、緑地になっています。その運河の入り口に橋が架かっています。この橋も私が小学校に入るころには壊れていて通行禁止となっていました。
 鳥海山を背景にした橋の写真です。これらがいつ撮影されたものかわかりませんが、なぜこの橋に興味を惹かれたかと言えば、又記憶にあるのかと言えば、小さいころ父親に連れられて小さい船で魚釣りに沖に出たとき、父親から、「あの橋は俺が設計して架けたのだ」と聞かされたことが、あれから数十年たった今でも忘れられないからなのです。
 こちらの方は大した記録ではありませんが、自分の心覚えとして記しておきます。そういえばその頃、最上川の河口を行き来しているのは本当の「帆掛け船」でした。また、海と川を行き来するのは焼き玉エンジンで走るポンポン舟と言われるものでした。単なる懐かし話ですが、こういったことも無駄に年を重ねてきたとはいえ、またいい思い出です。

雛街道

2020年02月16日 | 兎糞録
 今日は、いにしへのお雛様を見にでかけてきました。
 これは、個人が旧質店の建物を買い取って、美術館として一般に開放しているところです。玄関を開けると横に細長い土間があり、その先には、かつて質店の店主がいたであろう座敷があります。履物を脱いで、中にお邪魔します。
 いきなり古今雛の登場です。
 質店だっというわけで、隣接する土蔵には立派な細工の鍵がついています。鍵穴の向こうには何やら質の預かり品らしきものが見えます。流れてしまったやつかな。質店としては、平成の初めころまでは営業していたようです。
 ほかの建物についても興味を持って調べているのですが、今は建物そのものがない、建物はあるけれど平成の初めころまでは建っていて、営業していた、という事を聞くと、平成の初めまでに存在したものは、もう相当過去の滅びゆくものであり、ほとんどの人から忘れ去られてしまったものなのではないかと思います。

 このお雛様は、今の季節だけ飾っているのだそうです。専門に調べている人ならかなり興味を持つものでしょう。享保雛という名前はよく聞きますね。
 詳しい説明は別にメモもしていません。
 お内裏様よりも、飾りの一番下にいる皆さまの方に興味を惹かれます。なにも持ってはいませんが、五人囃子のようです。
 お雛様だけではありません。これは鍾馗様でしょうか。手前にあるギヤマンの高坏も由緒ありそうです。

 彩り豊かで丸みを帯びたお人形さんは、この街の一部に伝わる鵜渡川原人形というものです。

 さてつぎに思い立ち、今度は近くにある酒田市立資料館へ。こちらでも今、いにしへのお雛様を展示しています。
 やはり、お内裏様より五人囃子の方へ目が行きます。
 華やかなお内裏様もちゃんとありますよ。
 雛菓子も素敵です。色よく,形よくできていますね。

 なぜか最近、滅びてしまったもの、滅びゆくものに多大な興味をひかれます。雪が解けたら滅びつつある河原宿の小屋も見に行かなければ、と思います。
 今日も資料館で、今はすでに無くなり、ほとんどの人の記憶からも忘れ去られてしまった建物の写真をコピーしていただきました。
 単なる思い出で終わるのかもしれませんが、少しでものちに残ってくれればいいかとも思い、調べ続けています。

 ※すべて、撮影許可はいただいております。