鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

蘇乱鬼と12の戦士

2021年07月08日 | 鳥海山

 夜の上野駅。紺のジーンズの上下をきて、大きなリュックをせおった桐岡真砂留は、十四番線ホームへの階段を下りていた。

(左端に見えるのが上野駅14番線ホーム)

 長らくおまたせしました二十二時三十七分発羽越線回り急行秋田羽黒山まも なく到着しますおのりのかたはのうしろまでおさがりください。

 アナウンスと同時砂留のうしろに人がつまって全席定の寝台列車のせい かあわてる人もなくゆっくりと列ができる。やが火をた夜行列車がームはしに姿をみせはじ

  よいよ一人旅がはじまるのだ。

 三日前までは、東京から五〇〇キロもはなれた父の故郷にいくことになるなど夢にも思っていなかった。しかも、明日は真砂留の十四歳の誕生日だった。

 

 どうです、全文読みたくなってくるでしょう。

 古い文献で有耶無耶の関の事が出てきたのでこの本を思い出しました。

 もちろん、鳥海山、月山、羽黒山、修験者、有耶無耶鳥まで盛りだくさんに出てきます。児童文学ですが450頁におよび、読みごたえは十分。もし機会があれば図書館などで借りてご一読ください。古書でも少しばかり出回ってはいるようです。

 

 

 

※長いテキストを本より引用したいときは当該箇所をスキャンしてPDFで保存。それをGoogle Driveにアップロード、そのファイルをGoogleドキュメントで開きます。そうすると形は変ですが一応はテキスト文書として読めるものになります。今度はそれを貼り付けるのですが、此処で貼り付けのオプション、「テキストのみ保持」を選択して貼り付けます。(試しにそのまま貼り付けるとどうなるかわかります。)


絵葉書

2021年07月07日 | 鳥海山

 鳥海山や地元に関する古い絵葉書を少しずつ集めて居るのですが最近は値段も高くなり中々何枚もは買うわけにはいきません。復刻版は安いし、それなりの種類が手に入るのですがやはり表面(宛名を書く方、書式でおよその発行年代がわかります。)が当時のものでないと時代を知る手掛かりは半減してしまいます。鳥海山に関する絵葉書の復刻版はありませんが。

 これは昭和三十年代中頃のものと思われます。こういった絵葉書はやはり観光に訪れた人が買ったのでしょう。地元の人が買うことはあまり考えられません。なので地元で古い絵葉を入手することは困難です。こういった絵葉書を見て、もらって、「わーっ、良さそうなところだ、ぜひ行ってみたい!!」と思う人はまずいないでしょうね。してみると絵葉書というものはそこへ行ったという記念品なのでしょう。(あえてメモリアルなどと横文字は使わない。)

 年を追うごとに絵葉書の中身はつまらないものになっていきます。作る方も何の思いもなく作っているのでしょう。上の画像にあるように鳥海山は定番の一つです。種まき爺さんが見えるので5月の画像ですね。船には日章旗と万国旗、中景には左右に煙突が。画像から工場の空気と潮の香りが漂ってきます。

 小学校に上がるころまで住んでいたところはあの辺だあ、というのがわかりました。遠くの海岸線も街並みも様変わりしています。半世紀以上たっているのですから。中央奥、突堤の先に白灯台。釣には格好の場所でした。その突堤の根本、画像では左の湾状になっているところは内海といって海水浴場でした。

 

 結局何が言いたいかっていうと、ただ懐かしいだけなのです、本当のところは。


登山に就ての心得

2021年07月06日 | 鳥海山

 誰の著作とは敢て記しませんが「登山に就ての心得」です。現在動植物の採取は禁止されていますのでそこは真似しないこと。そこは写真撮影に置き換えてください。

 

第三章 登山に就ての心得

 「細心にして大胆なれ」とは、登山者の常に忘れてならぬ金言である、等しく登山とは云ふものの、其の目的に至つては人々必ずしも一でない、或は神社参拝に、或は學術研究に、又或者は畫を描き寫真を影しに登山するものもあれば、高山の気分を味ふべく登る人もあるだらう。が何れにもせよ、それゞ其の目的に叶ふ準備の必要な事は勿論である。

 

一、服 装

 登山用の衣服は、無論夏服(背廣・詰襟・カクシの多く然も覆のあるものがよい)半洋袴(はんずぼん)の仕度でよいが、外にシャッの類を忘れてはならない。又雨を、豫期して別に着替一租を持つならば頗る妙である。實に山上の夜は盛夏の候と云へども尚霜月・師走の肌持で 殊に寒い夜等になる(風雨の時)華氏の二十度位になる事が度々あるから其時の用としてシャツの用意を忘れてはならない。和服ならば軽装を旨として內カクシのあるのがよい、どちらにしても必ず股引の類を着ける事である。

 帯は木綿或は金巾類の兵児帯にすると、不時の用に応ずる事が出来て頗る便利である。

 脚絆とゲートル、之はこちらでも、自分の慣れた方がよい、若し長洋袴の場合なら、ゲートルを着けるにしても、膝までまくり上げてやつた方が、身軽に出来て都合がよい。

 靴にした所が登れない程の山ではない。實際靴で登って平気で下山して居る人もあるのだから。然し普通の人は草鞋がよからう、成るべく丈夫なもので、一二足の余分を持つた方がよい、山中の小屋でも賣るが仲々高い。

 特に草鞋掛の丈夫なものをはくがよい、但し登山に裸足足袋は危険である。

 雨具用としては、羅紗かゴムの頭巾附の外套とか、若しくは合羽類又は茣蓙の類を携帯すべきである。茣蓙であると値は廉くて且携に便な許りでなく、雨よけにも日よけにもなった上途中休む時の敷物にもなる。唯頭巾だけは別に持たなければならない、兎に角持ち行く衣服類は、自分が持つにしても、強力に持たせるにしても、雨に濡らさぬ用心が極めて必要である。

 単に道だけを歩く人なら兎も角、採集でもする人は、鍔の狭い鳥打帽がよい、その上顎紐があれば更に便利である(風を操期して)然しなくとも必要な時は、手拭でも代用は出来る。

 暖かい手袋を持参する事は決して徒労の業でない、殊に植物採集者の手のこごえた時程苦痛な事はないのだから、若しかゝる折に手袋の用意をしてゐれば、頗る都合がよい。著者は之まで、度々雨にも遭遇したから、痛切に此の必要を感じて居る。

二、携帯品

 入物は成るべく丈夫で又成るべく雨水の透らない物を選ばなければならない、之には 登山嚢(背嚢)か、雑囊・或は嚢の類が最もよい。

 時計(腕巻がよい)・磁石・地図(圖の方を内側に折って)・呼子笛・水筒・水呑・手拭・手帖・ 鉛筆・半紙類・住所入の名刺・ナイフ・鋏・毛抜の類を携帯し、燐寸は點火の確實なもの(蝋燐寸がよい)を用意して行く必要がある。

 金剛杖、之は決して形式的のものでない、真に必要であるし又便利でもある、壯の人なら兎も角なくとも間に合ふが、登山記念として持つのも亦一興であらう。持てば 持つただけそのお世話になるものである、著者の經驗からすると手のあたる處だけ節をけづつた竹の杖が一番よい。八角棒等では、手の掌が痛くなつて困るものである、駒止の茶屋で賣つてるのは簡単な「コナラ」等の雑木杖である。

三、 食 料

 晝飯さへも持参すれば、小屋で副食物を買はれるけれども、食パンとか其の他のお菓子ミルクキャラメル・ビスケット・氷砂糖・白砂糖等を携帯するがよい、或は葛粉を持参して小屋からお湯を貰ひ、葛湯をするならば更に結構なものである。「腹がすいては登山が出來ぬ」と云ふ通り、食握は十二分に持つ事を忘れてはならない、仝時に登山は食ふとすぐ烈しく運動するものたから、其の邊十分の注意がないと、腹の弱い人は壊す虞 れがある。

四、薬 品

 各自持薬の外、寶丹・仁丹・清心丹・健胃剤・鎮痛剤・繃帯・ガーゼ・絆瘡膏・即効紙の類を携帯する必要がある。

五、山上の泊

 山上に泊る時、蒲団に寝られると思っては大間違ひである。毛布なら少しあるから、人數でも少なかったら一枚五錢位で借りられる位なもの、火だけは十分置いてくれるから、其處だけは余程よいとしても、各自下着の用意をして行ったに越した事はない。又 飯のまづい事と御馳走のない事に不服をいつてはならない、それで十分待遇したものである。一泊六七拾錢はちと高い樣に思ふけれども、よく考へて見れば尤もと思はれよう、然し各自米を持参すれば半額位で泊めてくれる、次に水の貴い事を忘れてはならない、全部雨水に雪を溶かしたもので、殊に附近に雪のなくなった時は、余程遠方から選ばなければならない、詰所に繪ハガキや扇子・スタンプ等があるから必要な人は求めるがよからう。

六、登山の諸注意

 一、登山する前夜は十分に休養すること。

 二、足の爪は出來得る限り短く切り足袋と脚絆とは隙のない様に着けること。

 三、足装束は少しの不加減にも、直ちに之を直すこと。

 四、常に足先に注意して、岩稜や切り株等に躓かない様に、気をつけること。

 五、愈歩してる屡々休むよりは、寧ろ緩歩して休息度数を少くする方が却って路もはかどり、身体も疲労しないものである。

 六、心臓鼓動の余りに激しい時は、直ちに休息するがよい、又用便を我慢してはならたい。

 七、休息する際、足を地上から離して動揺させる事は、却って脚部た疲らすものである。

 八、暑くて暑くて困る時は笠・帽子の中に潤葉を入れて被ると清涼を覚える。

 九、気圧の開係上、頭痛とか或は孤分の悪い等の事があるものだが、こう云ふ時は少量の興奮剤を用ゆるとよい。

 一〇、参拝者には五十人組だの百人団体等と多人数が一所になって登山する場合があるが、こんな時は脚の強弱 に依って数組に分け、各組毎に丈夫な人が二人位づゞ附くに様にすると、何をする上にも便利である。

 

 どうです、ちっとも古くないでしょう。


牻牛兒科

2021年07月05日 | 鳥海山

 花の名前と分類を見ていたら牻牛兒科というものが出てきました。牻牛兒科とは何だと思いますか。植物に詳しい方なら疑問にも思わないのでしょうが、実際に書いてあったのは牻の字が異体字なのか禾編に尤、そんな字は探してもありません。当時の活字にあったか作字したかですね。

はて困ったと思い、花から逆に追っていくと牻牛兒はフウロソウと読むのだそうです。また、牻牛兒苗と書いてこちらはゲンノショウコと読むそうです。ゲンノショウコはフウロソウ科ですからそうなるのでしょう。

 これはハクサンフウロの項に在りました。大正年間の本ですからかつてはそんな漢字で表記したのでしょう。わずか百年前の本があちこち調べないと読み進めません。まだまだ勉強不足のようです。


蕨岡龍頭寺の薬師如来像

2021年07月03日 | 鳥海山

 明治の神仏分離について書くとややこしくなるので詳細は省略して、神仏分離前までは鳥海山山頂には本地佛の薬師如来像が安置されていました。えっ、神社じゃないのと言われても神仏混交の世の時代だからいいのです。また蕨岡には下居堂おりいどうというものがあり、冬の間薬師如来像はそこに遷座します。そこへ明治の神仏分離令、それまで神仏混交の蕨岡ではそろって神道一本へ鞍替え、そうしないと時の明治政府によって背くことになり蕨岡の人々は生きていけません。そうなると神道ですから鳥海山山頂に薬師如来像を安置するわけにはいきません。下居堂も磯前いそざき神社と名前を変え薬師如来様は行き場を失いました。落ち着いたのがお寺として存続した龍頭寺。

 龍頭寺飾られてある仁王像。これも神仏分離までは今の大物忌神社の今の随神門に飾られていましたが神道となってしまっては神社となってしまったところに置いておくわけにはいきません。随神門も当時は仁王門という名前だったのです。そこで仁王様は夜通し自分たちの居場所を求めてあちこちさまよったのですが丁度良い居場所が見つかりません。探しあぐねて疲れ果て、路傍に寝てしまいます。目が覚めて気が付くとそこはなんと隣りの龍頭寺、それ以来龍頭寺に立っています。

 神社の入り口に仁王様を立たせておくわけにはいきません。蕨岡の大物忌神社の随神門が空っぽなのはそういうわけです。奥に小さな像が一応は安置されていますが柵の中は左右ともぽっかりとあいています。

 

 さて、龍頭寺の須弥壇しゅみだんに遷座された薬師如来像、山道を担いで歩けるように光背6.5㎏、仏像6.5㎏、台座12㎏と分解して担げるように作ってあります。これなら三人で分けて持ち運べます。

 それほど大きいものではありません。現在コロナの影響で一般には公開していません。電話で申し込んでもお断りされますのでしばらく拝観はご遠慮ください。

 ご住職に別にちょっとだけ伺いたいことがあり龍頭寺を訪ねたのですが、突然の訪問にも係わらずいろいろ話をしていただいているうちに鳥海山山頂にあった薬師如来像見ていきませんか、ということになり特別に拝観させていただきました。

 鳥海山、花や景色を見るだけではもったいない、先人の歩いた道を歩いてみたり、訪れる人のいないところを訪ねてみるのも楽しみです。