鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

T Honda + Mama T ‎– Misty 1976

2022年03月12日 | Jazz

 クナイプのバスソルトが切れたので何かないかと。頂き物の入浴剤があったので見ると、"混浴物語"、これは最高に期待できる入浴剤ではないかと、よく見たれば”温浴物語”。はいっ、体は温まりませんでした。そこで身も心も熱くなるアルバムを一枚。

 本田竹曠とMama T。Mama Tはこのアルバム以外は聴いたことがありません。真夏の夜のジャズもそうですが、黒人女性のヴォーカルはいいですね。黒人男性のヴォーカルも一度横浜からのクルーズ船ライブで最高のを聴いたことがあります。名も知らない方でしたが、こんないい歌い手が山ほどいるんだろうなあと思ったことでした。

 今日は料理しながらipod classicでこのアルバムを聴きながら調理。でも油を使っているときにイヤホンは駄目です、油の音が聞こえません。

 ※イヤホンしていると他の音は聞こえないと御思いでしょうが自分への悪口はちゃんと聞こえるものです。実験してみてください。

T Honda + Mama T ‎– Misty 1976


大正期の鳥海山風景

2022年03月10日 | 鳥海山

 絵葉書の発行は明治40年(1907年)から大正6年(1917年)の間。

 河合新蔵は明治37年に帰朝していますのでこの絵葉書の発行年も重なります。前景の帆掛け船は小鵜飼船でしょうか。今のどのあたりからの景色かそのうち散策してみましょう。それにしても湊に帆掛け船の構図は長いこと続いていたことがわかります。

 右に酒田風景、左にその四とありますのがその一は吉田博の作品、手元にはありませんが、その他にどんなものが発行されたか見てみたいです。こういった絵葉書は地元にはほぼ残されていないようです。売れ残りは処分されるでしょうし、地元の人は地元の風景絵葉書を購入することはあまりないでしょうから。結局全国に散逸したものが古物として時々世に出てくるのでしょう。こういったものを地元に集め保存するのも誰かがやらなければならないことと思います。集めた絵葉書もいずれ図書館に寄贈しましょう。

 

 見事なコレクションをなさっている方がYouTubeに投稿していらっしゃったのでご紹介させていただきます。

明治期~昭和初期頃 山形県・酒田の風景【戦前絵葉書コレクション】

明治期~昭和初期頃 山形県・酒田の風景2【戦前絵葉書コレクション】

 

 ところがこれ、調べてみたら

光丘文庫のデジタルアーカイブの無断使用

 でした。

 YouTuberってのはほんとろくなものがいねえなあ。ほめて損した。結局再生数稼ぎ、金目当ての下司でしたか。この人のチャンネルもすべてよそからの無断借用なんでしょうなあ。


トトロで芋水を一杯

2022年03月09日 | 兎糞録

 STANLEYのタンブラーがいまいち使い勝手がよくないので(大きめの氷が入らない、飲み口が良くない)、

 この保冷タンブラーを使っているとガラスのグラスを使わなくなってしまいました。ガラスの二重のものもそれなりの値段のものはいいでしょうがDaisoのものは氷を入れた瞬間にいれた衝撃で割れてしまいました。安物買いの銭失いとはよくいったものです。

 クリスタルの結構いいものも使っていたことがあるのですが、人に洗ってもらうとうっかり割られることがある、そうすると人のせいにして怒ってしまう、それではいけないと思い自分で洗っていたら蛇口にぶつけてピキッ。それ以降景品のロックグラスなんか使っていたのですがグラスが汗かいてびしょびしょ。そうこうしているうちに保温保冷タンブラーが登場。THERMOSの初代以来この手のタンブラーを使っていますが、保温保冷はTHERMOSが一番ですね。でも、トトロは絵がいいので使います、いい年こいて。


最上川の帆掛け船

2022年03月08日 | 兎糞録

 中学校の英語の時間、最上級を教わるのですがそこは普通にこう読んだ人がいたとか、もがみ級。その時代の人は最上川の流れを今の人より身近に感じていたでしょう。昔からの人はやはり最上川と鳥海山は身近なものです。

 葉書の表面の書式から見ると、昭和8年(1933年4)から昭和19年(1944年)の間に発行された葉書です。この帆掛け船は小鵜飼船とも異なるようですし、昭和の30年代に見たのもこれと同じような帆掛け船ではなかったかと思います。

 子供の頃の夕景に見た最上川を帰帆する帆掛け船はなにを積んでいたのか、折にふれ調べているのですが未だ不明です。この葉書、変色した色具合が何とも言えません。そしてこの風景が時を遡らせてくれます。

 ※よく見ると、帆というより細長い布を何本も垂らしていると見えます。


庄内案内記・鳥海山の項

2022年03月06日 | 鳥海山

 変体おやじが変体仮名に苦労する、ということで太田宣賢の鳥海登山案内記の下敷きとなった庄内案内記、明治に出版された本なので仮名は変体仮名、合略仮名がいっぱい。読みやすいように仮名に直してみました。

 庄内案内記は明治廿六年八月十五日発行 大熊堯之著、国立国会図書館デジタルコレクションのページで閲覧、ダウンロードできます。

 鳥海山の項は蕨岡から始まります。


晝飯を食し旅裝して東方に向て去る行くと四里余にして鳥海山の麓なる蕨岡に至る該村は戸數凡三拾余戶村民多く舊修驗者な里といふ旅舍某方に投宿し明日は鳥海登山の見込なるを以て宵より眠に就く
八月九日午前二時に起き飯を食し旅裝して該家を發し登山の同行者數十人あり行くこと壹里余字駒止めといふ所に至る蕨岡村より此所まて馬通るを得ると雖も是れより登る能す依て此名ありといふ此所より行くと更に貮里余道の中央に仁王門の如き神門あり此門を橫堂といふ老弱山上に至る能はさるものは門の右側より谷に降ること拾余丁御澤といふ所に至り禮拜するを例とす此所に大瀑布ありて甚た靈地なり余等山頂に至るを以て橫堂を直行し道漸く嶮なり其中壹里余の所松樹鬱茂して他を見る能はす路傍拜所多しと雖も社殿あるにあらす奇石洞崛を拜するなく行 くこと貮里余にして八丁坂と稱る所に至る此処より又貮里余にして河原宿と云ふ所に至る此所に憩小屋あり食物を販賣し且つ山中宿所に究する行人を宿泊せしむ此処より上ると壱里余の間雪路なり千古消ることなく皚々として恰も巖の如く故に甚た寒冷にして肌を裂くか如し滿山岩石を以て積みたる如く所々小柴あるのみにして大樹を見ず 貮里余にして(あたみ)坂と稱る所に至る此所より道路最險惡なり誤て蹉躓するあらば千尋の谷に轉落すること必せり行步甚た危嶮なり且つ空氣稀薄にして呼吸苦しく殆と氣息絶んとすることあり然れとも勇を皷して進む行くこと壹里余にして山頂仁達し此日幸天氣晴朗にして雲散し山頂より四望すれは南庄內の地方より東南仙臺の地方北秋田の地方北に至るまて眼力の及ふ限り悉く瞰下するを得又西方飛嶋の如きは殆と山脚に連るものゝ如く其髙きこと實に驚くへきなり此所より北方矢島に越ゆる道あり之れより轉して新山といふ所に至る此所は本山中最も髙くして古噴火の際新に吹出したる所なりといふ巨岩(徑十間位のもの) 累々吹出し恰 も籠の如く誠に巨石を山下に投すれは混々として轉落すること幾拾丁なりや知るへからす該所より少しく下れは則大物忌神社あり方五六尺構造甚た質素なり風害を避るか爲め周囲に石を積めり禮拜して更に下ること貳里余烏海の湖水に至る此湖周回壹里余水淸くして且つ深し 常に淸波を漂はし恰も龍蛇の飛躍せんとするものゝ如く岸上に至れは神心凄然たり湖邊より一脉の峯を越れは鳥海の憩小屋あり該小屋も河腹宿の小屋と同しく行人を宿泊せしむ此所より下坂なり然れとも行步却て上坂より危險を感するものゝ如し午後六時漸くにして烏海山の西麓吹浦村に達す該村より北方に三四町距りて大物忌神社の拜所あり社殿は丘陵にあり石段を登ること數拾閒社前に至れは壯嚴にし社地老樹繁り森々として甚風致あり傳へ聞く西京加茂の社と風致相似たるものありといふ其夜該村へ泊せんとするに里人いふ之より北方貮半里小山脉隔て〵海邊に湯のと稱る溫泉場あり該處に至るへしといふ里人の言に從ひ更に該處に至る此處は秋田縣の境にして戸數貮拾餘戸溫泉宿を以て料理店を兼る如き家五六戸あり家屋は何れも壯大にして二階造なり餘某方仁投宿し直ちに旅裝を脫して浴に入る食後終日の山行甚疲勞するを以て直ちに眠に就く枕頭濤聲夢思を惱ます


 行間が狭いですが、テンプレートのせい。変更するのも面倒なのでそのまま使います。

 明治、大正、昭和の記録を見ると必ず横堂、大澤神社が出てきます。大学の先生方はこの部分は掘り下げては書きません。思い入れがあるかないかで物の見方、愛着心は全く違うのでしょうがないんですけど。この今は歩かれなくなった蕨岡から駒止、弘法水、水呑そして横堂というのが鳥海登山の一つのハイライトです。自分も人の案内でこの道は初めて歩いたのですが何とも言えないいい道です。地図にあるソブ谷地からの道ではありません。雪の中を歩くより無雪期の緑の山毛欅の大木の中を歩くのがいいです。