鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

奈曽渓谷と稲倉岳

2022年10月19日 | 鳥海山

 この写真ではかくれていますが左に見える稲倉岳。どうやってできたんでしょうね。

 皆さん山頂と白糸の滝にだけ目を奪われて歩く象潟口登山道の登りはじめ。上る途中の巨岩は気になりますよね。

 百名山登る事しか興味ない人には気になるわけはありませんがこの登り始めの道は左側が巨岩が並び立ちその下は断崖。右手から続く山肌が切れ落ちているのがわかります。渓谷が出来る時にこういった大きな岩が露出したということでしょうか。

 奈曽渓谷。この尾根の向こう側の中島台は紀元前466年の山体崩壊だそうですが、しからばこの奈曽渓谷はいったいどうやってできたのでしょう。活断層に関連した山体崩壊が成因ともいわれているとのことですがなんとも不思議な地形です。鳥海山には何か所か崩壊地形があるのですがこれは赤色立体地図を見るとよくわかります。


© Digital Earth Technology Corp.

 鶴間池の所は上の図には入っていませんが中島台へ続く大きな山体崩壊、千畳ヶ原の所の崩壊地形、中でも奈曽渓谷の崩壊は著しく見えます。蟻の戸渡しで山体が首の皮一枚で繋がっているように見えます。これを熔岩の分布で見ると、


産業技術研究所鳥海山地質図に見やすいように黒太字で加筆したものです。

 奈曽渓谷は奈曽谷熔岩、御滝熔岩、谷櫃下部熔岩と期の分類に属する古い熔岩で出来ているのがわかります。登山道はb5 鳥ノ海という後の時代のの熔岩の上を歩いていることになります。稲倉岳の熔岩の構成を見れば期の熔岩の上に期の熔岩が重なっていることも上の地質図でわかります。鳥海山・飛島ジオパークのHPでは「なぜここだけが選択的に削られているのかははっきりわかっていません。」と書かれています。(このHP見るとまるで土産物を売るためにあるようだと思うのは私だけでしょうか、このページ右側には認定商品としてせんべいやらなにやらのオンパレードです。)

 

 橋本賢助の「鳥海登山案内」に稲倉岳についての記述がありました。旧字体でちょっと長いですけど一度読んでみると面白いです。


 第五章 稲村ヶ嶽、一名稲倉ヶ嶽
以上新火山、舊火山或は寄生火山、爆裂火口等に就いて學者の說も略一定して居るのに、獨り稲村ヶ嶽のみは各人各樣の鑑定をしたのである。之と云ふのも、地形の甚だ復雑してゐるのと、昔のものと形が余程異なつたからであつて、唯「火口壁の壊れ残りだらう」と云ふ事だけは、皆一致するが、扨て何れの火口壁かとなると、議論百出其適歸する所を知らない有様である。故三浦理學士 (名を宗次郎と云ひ、明治二十六年五月の吾妻山噴火の際、調査中噴孔より飛揚する岩石に撃たれて斃れた人である。)は、新火山の外輪山、即ち七五山連嶺の一部分であると見做し、石井理學士は笙ヶ嶽及び月山森と運るべきもので、一大外輪山の一部分であると云つて三浦說に反対して居る。所が近頃 鳥海山を最も精細に調査した中島理學士の說に依ると、稲村ヶ嶽は之等の火山とは全く無關係の山で、舊火山よりも尚一層以前に噴出して出來た火山の殘塊であると云って居る。何れの說も一理ある事で、而も斯道の大家の調査であるから、今俄に之に對して自分の臆斷を下す事を憚るが、最も細密に而も最近に調査せられた、中島氏の說をオーソリチーと見てよからうと思ふ。氏は熔岩の性質から、又其重なり合った狀態から見て 稲村ヶ嶽熔岩や霊峰熔岩が、舊火山に関するそれよりも、別褌であつて然も古い事を確めて居る、若し此噴火口を見んとならば、宜しく小瀧口鉾立附近に行くがよい、一大爆 裂口らしいものがあって、底を關川(奈會川の事である)の上流が物凄い音をたてて流れて居る。此處が即ち西大澤(にしおほさわ)で、向って左側には例の稲村ヶ嶽嶽、右側絶壁には名高い白糸の瀧が懸つて居る、滝の高さ大約百米突其絶璧に十二段の熔岩層を数へ得るのである。又東大澤と西大澤との間即ち遥拜所の方から稲村ヶ嶽に渡る所をアリノトワタシと云つて、頗る細まつた馬の背か見えて居る。 


 


Microsoft365のWord Online

2022年10月17日 | 兎糞録

 Microsoft365を使ってみたら、

 Word Onlineでは出来ないことがあり過ぎました。

  1. 文書は開くことが出来ますがレイアウトはずれます。
  2. 縦書きで作成した文書は横書きで表示されます。すなわち、縦書きの機能はないのです。これはGoogle スプレッドシートと同じですね。もともと横文字の文化で作成されたものですのでOnlineではそこまでの機能はありません。
  3. ルビを振った文書は無効になります。せっかくルビを振った「京都醍醐三法院宮御門蹟きやうとだいごさんぽうゐんみやごもんぜきの」このような文書も下のようになります。
    「京都醍醐(きやうとだいご)三法院宮(さんぽうゐんみや)御門蹟(ごもんぜき)の」
    これでは読めたものではありません。

 調べてみたらMicrosoft365のWord Onlineでできないことは次の通りです。

http://www.office-qa.com/Word/wd764.htm

 パソコン本体にOfficeをインストールすれば問題ないのですがやはりOnlineは不便です。リボンもデスクトップと違って使いなれないせいでしょうけれど見づらい。即座に元々使っていたOfficeに戻しました。

 会社で無料という理由でGoogle スプレッドシートを使っているところもあるようですけれどあれも?ですね。山形県も無料につられてopen officeを導入したものの不具合があり過ぎて僅か2年でMS Officeへ再移行しましたしね。あちらの国製のパチものOfficeを使ってみた人も今や使っていないようです。

 仕事をするにはお金がかかるのです。大工仕事だっていい仕事をするにはいい道具じゃないと。知り合いの大工さんは道具貧乏と称していました。弘法も筆を選びます。

 


1979年10月16日の鳥海山

2022年10月16日 | 鳥海山

 今日は一気に43年前まで遡ってみましょう。

 1979年(昭和54年)の10月16日火曜日、湯ノ台口より入山。

 沢追分より横堂へ、既に無人となった箸王子神社。横堂は傾き始めています。左右の建物内にはまだ何か残っていたような気がします。ここより月光坂の急登。

 ※横堂は箸王子神社を祀るこの建物の事、横に長いので横堂といいました。今は手前に見える石段と横堂という名前のみが残っています。この二十数年前まではこの左手前に休憩できる小さな小屋がありました。それ以前は中村不折描くところの笹小屋がありました。横堂今昔物語としてまとめてありますのでそちらをご覧ください。横堂こんなところに小屋があっても水場は?と思われた方はこちらを。

 おそらく西物見。

たぶん籠山?で一服。河原宿でお昼、薊坂をヒーハー登って、

やっとこさ伏拝嶽。この頃から祠と標識は好きだったようです。

 この新山がドーーーンと無音の音を立て聳えているのには感激しました。この感覚は四十年以上たった今もはっきり覚えています。

 新山頂上より。二枚の写真を継ぎ合わせてあります。継ぎ目はどこでしょう。

 新山頂上より

 新山頂上より、七高山の頂上に登山者が一人います。その日あったのはこの方一人のみ。その方と谷越しに会話しました。

「そこ頂上ですか~!」

「はい、頂上ですよ~、お菓子たべますか~」

「とどきませ~ん」

「さよなら~」

 そうそういえば七高山と破方口の鞍部から二層目へ降りトラバースする道らしきものが見えるようにも思えます。

 この時カメラはまだオリンパスペン。ハーフサイズといって35mmフィルム1コマを縦に分割して2倍写せるようになっています、36枚撮りフィルムなら72枚撮影できます。横の構図で撮影するにはカメラを縦に構える必要がるので使いづらい。時代を感じますね。古い写真も今になってみなおせばなかなか味のあるものと思うのは自分だけでしょうか。

 この上着は以降十年近く着続けました。登山靴はビブラムを何度か張り替えながら今も現役。靴擦れは皆無。最近購入したモンベルの登山靴の方が先に昇天しました。ズボンはニッカズボン、このズボンもしばらくはいていましたがいつのまにかお腹が、いやいやズボンが縮んだのです。ついでに当時靴下はこの頃は重ね履き。キスリングではないですがザックはまだ帆布のもの。すべて昭和のスタイルですねえ。

 この後は御浜を通り大平まで一直線。国民宿舎大平山荘間にあったあ。

 これから二三年おいて鳥海山は毎週登る山となりました。


大雪路、小雪路

2022年10月13日 | 鳥海山

 湯ノ台口、いまでは滝の小屋口になってしまいましたが八丁坂を上り河原宿。その先にあるの大雪渓、小雪渓。心字雪渓などと即物的で情緒もない名前で下界では言いますがあれは古来大雪路、小雪路と呼ばれていました。音がオオユキヂ、コユキヂなので知らない人は大雪地、小雪地と書いたりしますがあれは間違い。(カナで書く場合はオオユキジ、コユキジではなくオオユキヂ、コユキヂです。)研究書でも大雪地、小雪地と書いてあるようですが正しくはありません。音が同じならどちらに書いてもよさそうですが地は面を意味します。この場合道を示しますので路の文字が正しいのです。

 大雪路、盛夏は夏道と呼ばれるものが現れません。登るときは大雪路は左端を、小雪路は右側を、と昔から言われていました。夏に下りで大雪路を間違って左側(登では右方にあたる)を歩いていくと十メートルはあろうかという雪渓の断崖に行き当たります。

 

 この雪渓について、大正生まれのお山詣りをしていた方も大雪路(オオユキジ)、小雪路(コユキジ)と呼んでいました。(もちろん文字は大雪路、小雪路)、大雪渓、小雪渓とは呼びません。

 橋本賢助の「鳥海登山案内」には


【雪 路】(ゆきぢ) 心字雪の中、大雪路と小雪路との二つを通るのだが、何れも千古の雪田である、二ヶ所合せて山路一里其先きが薊坂である


 太田宣賢「鳥海山登山案内記」では


大雪路(おほゆきぢ)小雪路(こゆきぢ) は千古(せんこ)の雪皚々(がいゞ)として宛鱗狀(さながらりんじやう)を爲(な)し鬼斧(きふ)を以て削(けづ)れるが如く三伏(さんぷく)の炎暑(えんしよ)尙且(なほかつ)凜冽(りんれつ)として悚然(しようぜん)たらしむ


 また別の個所では、


由來蕨岡口には山中沿道(えんだう)至處冷泉淸流(いたるところれいせんせいりう)に富む祓川(はらひかは)牛御堂(うしおどう)駒王子(こまわうじ)弘法水水呑(みづのみ)箸王子(はしわうじ)白絲瀧(しろいとがたき)川原宿(かわはらしゆく)大雪路(おほゆきぢ)小雪路(こゆきぢ)等にして皆(みな)淸冽(せいれつ)渴(かつ)を醫(い)するに足る


 ※上記引用中の太字部分はこのブログの筆者による強調です。

 両書共「雪路」と書いて(ゆきぢ)とルビが振ってあります。ちなみに太田宣賢「鳥海山登山案内記」は明治期に蕨岡大泉坊の当時の御当主の書いたもの。雪地と書かれたものは今の所見たことがあるのは浅学にして「史跡鳥海山」という本のみです。この本、狩籠鉾立新山大神(か?)としてあるところも祠の場所が地図と全く違います。又水呑の水破の神の記述も引用の原本と全く異なります。資料は原本迄たどるのが鉄則、しかも記述を変えてはなりません。歴史家のなりそこないでもそこはわかります。(史学専攻していたこともあるんですよ。)