以前紹介した絵葉書、どこから見て描いたものか判明しました。佐藤三郎「酒田よもやま話」にその記述がありました。資料館の資料にも絵の書かれたいきさつは同書を引用して記載しているのですが「どこから」は書いてありませんでした。「酒田よもやま話」には次のように書いてあります。
大正の初めに「大家浄画原色版酒田風景絵葉書」といぅのが売り出されたことがあった。 これは酒田の伊藤家が、当時の洋画家四人を酒田に招き、何日でも自宅に滞在させて描か せた油絵であった。 吉田博「中瀬渡頭」は、宮野浦渡し場から鳥海山をバックに新町方面を描いている。中 川八郎「日和山落暉」は、公園の現在灯台のある丘の松林から河口を描いている。 石川寅治「宮之浦帰舟」は、宮野浦の漁船が漁を終えて網を上げて、魚を捕っていると ころが近景で、対岸の日和山の丘が描かれている。 河合新蔵「山王森午影」は、最上川の中島から日和山の森を描き船場町の家並みが見える。
その時の絵が絵葉書になっていて内三枚が手元にあるので再掲します。
これを地形図で見ると、
陸地測量部1/50000酒田、大正二年測図ですがこれは昭和九年に修正されたものです。最上川河口は大正二年測図以降大幅に変わっています。手元にあるのは明治四十四年の酒田市街図。(下図)
「中瀬渡頭」は、宮野浦渡し場から鳥海山をバックに新町方面を、と書いてありますが中瀬渡と宮野浦渡は結構離れていますので?ですが、「中瀬渡頭」なのでなんとなく納得。
「中瀬渡頭」はこの辺りから描いたのかもしれません。
資料の引用は原文を書き換えたり要約すると、原文を書いた人の伝えようとしたことが損なわれる場合がほとんどですので注意しなければいけません。