一、二年ほど前だったかSNSに二ノ滝口の上の方が藪こぎしないと歩けない、何をやっているんだ、などと勘違い野郎も甚だしい投稿がありました。登山道はいつでもあなたたちのために整備されているなどと思って登るような人は来なくてよろしいです。国定公園の整備は県の管轄ですが実際はほとんど民間のボランティアが行っています。県に言わせれば「予算がない。」常套句です。
登山道に係わる諸問題については「これでいいのか登山道 現状と課題」が現状を取り上げています。百名山にかぶれた方々がごっちゃごっちゃといろいろな実情を取り上げています。解決に向けた方向性にまでは進まないものの、こういった問題があるということだけはわかります。
二ノ滝口の話から脱線しましたが話を戻しますと、この二の滝口、実はかなり新しい道のようです。一の滝、二ノ滝は昔から道があったようですけれど、その先が開削されたのは昭和になってから。ちなみにその頃の二ノ滝は現在のように下から行くのではなく、上から鎖を伝って降りていたようです。画像もありますけれどFacebookなのでここで紹介するのは不可能です。
この二の滝口については斎藤十象「鳥海山談義」にそのいきさつが書いてあります。前にも紹介しましたが今一度紹介いたします。
高橋伝喜太翁のこと
鳥海山には、それまでほんとの意味での沢沿いの登山路はなかった。日向、月光の二つの川が鳥海の東面と南面から出て、最上川の下流域穀倉荘内平野の北半を潤おし、最上川へは注がずに、西流してそのまま日本海に入る。ふたすじの乳の流れとでも云うべきか。
月光川の源流は、滝と潭との連続で大へん美しいのだが、この沢の上流に龍ヶ滝という滝があって、高さ約六十米、この沢中豪壮第一の滝である。その下流には、一ノ滝、二ノ滝があって、ここまではいい登山路があり、特に二ノ滝は縁結びの神として、旧六月一日の例祭には、地元の青年男女の登拝によって賑わっている。そこには熔岩の洞窟があって、岩面にできている無数の小さな岩瘤に、左手で紙撚を結びつけるのである。この沢は、だから二ノ滝沢と呼ばれている。
どこの山にも付きものの、この山にも七太郎さんという奇人がいた。部落から一里ばかり山へ入ったところに、掘立小屋を建てて住んでいた。私は、この七太郎老人の小屋で、焚火を囲んで、訥々と語られる山の話を聞くのが好きだった。この老人、いつか、部落にある自分の家から鍋を提げて出てきたが、そのまま一里の山道を小屋まで行ったものだ。何と、その鍋には、煮かけた鰯汁が入っていた。聞けば、煮かけていた汁を、そのまま小屋で進ぜようと思って、かくは提げてきたのだというのであった。
いま一人伝喜太翁がいた。翁は、村の素封家で呉服屋の檀那さんであった。それに慶応義塾のオールドボーイで山好きで能書家であった。七太郎さんとは、馬が合うというのであろうか、一は無学文盲、一は才ールド文化人であったが、すこぶる仲がよかった。年も同じ位であった。龍ケ滝へ道をつけようと思い立った二人は、早速仕事にかかって、二ノ滝の上部を、沢沿いに道路を切り開きにかかった。二人は、遂に念願を達して、龍ケ滝の壮観を世に紹介することができた。それからの上部は、二人を助けた地元の若い人達の奉仕で、二ノ滝口鳥海登山道が完成したのはいうまでもない。昭和七年のことである。
このように昭和七年に完成したことがわかります。
この絵葉書はおそらく昭和初期のもの。登山道が開削されて間もないころのものと思われます。葉書の下部には(遊佐新登山道名勝)龍頭瀧 龍ヶ瀧 とあります。こういった先人の道づくりの事も考えず藪こぎだったなどと騒ぎ立てる人は自ら刈払いに来てください。多くの人が整備に係わっても山は生きていますので人が付けた傷跡を消そう消そうとしています。消しきれないときは大きく崩れて人が来ることを拒むようになります。と、このように思うのですがどうでしょう。山も人が入り過ぎです。これも百名山などという本が一番山が荒れる原因を作ったからでしょう。