鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

だだちゃ豆

2023年06月21日 | 兎糞録

 伊藤珍太郎「庄内の味」を読んでいるうちにだだちゃ豆が食べたくなり、と言っても旬にはまだ早い。ところが冷凍のものがあるのを発見。白山の(シラヤマと読みます)だだちゃ豆は小さいころからよく食べたもの、鞘に豆が二つが特徴、さて冷凍のお味は、

 200gで 税込み430円、通常の枝豆にくらべればはるかに高いですね。まあでもビアガーデンで枝豆を頼めば少しばかりの量でもっと高い、ここはひとつお試しに。パッケージの写真は豆が二つの正真正銘のだだちゃ豆。これは期待できそうです。

 開けてがっかり玉手箱。写真はわざと豆が二つのものばかり上にしましたけれど、中身は豆が三つのものがいっぱい。パッケージに騙されました。

 商品に「白山の」、とは書いていないのですがだだちゃ豆は豆が二つ。種豆のときから二つぶのものを選別していくのが昔の作り方だそうですから少しでも多く流通させるためにはそうもいっていられないのかもしれません、が。

 味は、ほのかにだだちゃ豆らしいところはありますが安価な冷凍の茶豆の方が甘みがあり美味しいようです。二度目は無いでしょう。

 


庄内の味

2023年06月17日 | 兎糞録

 探していた本で程度の良いものを発見。

 昭和49年発行。この時代は伊藤珍太郎さんを始めとして佐藤公太郎、田村寛三氏等地場に密着した物書き人が貴重な記録を残してくれています。観光のためのものとはその質、内容において全く異なります。ともあれ、目次だけでもご紹介いたしましょう。

 孟宗、民田茄子と来ては想像は止まりません。民田茄子は辛子漬けも美味いのですが夏の朝、氷を張った水に浮かべた塩漬けで炊きたての白いご飯を食べるのが最高。

 あまりにも美味しそうなので「つるおかおうち御前」から民田茄子の浅漬けの画像をご覧ください。ああ、急に食べたくなってきました。明日は早速買いに行きましょう。

 白山(しらやま)だだちゃ、この豆食べたら止まらない、ビールには最高の友、というより白山だだちゃを食べるためにビールがあるようなものです。

 白山だだちゃは基本さやに豆はふたつぶ。その甘やかさたるや。もう眠る時間なのに口中にはツバが湧いてきました。

 


藪は漕がない

2023年06月15日 | 鳥海山

 先日ガイドのOさんと話していて、池昭さんと一緒に登ったことがあるかという話になり、

 池昭さん、すなわち「山と高原地図 鳥海山」の1975年からの執筆者池田昭二さんと言えばわかるでしょうか、長い間「鳥海山の自然を守る会」会長を務めてこられた方です。「山と高原地図 鳥海山」は読み物として、資料として池昭さんのものは価値があります。手元には1976年版から2002年版まで9冊あります。

 この二冊はぜひ一度お読みください。

 先輩のN さんは池昭さんの教え子でそれこそ藪も漕がされたそうですが。笙ヶ岳を下り中折沢右岸を降る話です。


 昭文社 「山と高原地図 鳥海山 」1976より

 そのOさんが高校山岳部時代、総体だったかで二ッ森?に登った時の事、先導は池昭さん。その歩くのが早いこと早いこと。若い現役の高校生山岳部員がついていけない。先を見ると池昭さん、普通の人だったら藪は漕いでいきます。ところが池昭さん、藪は漕がない。藪の間を吸い込まれるように歩いていきます。まるで野生動物が進んでいくように。(話が不正確だったらすみません、何せ年なので話を正確に覚えているかと言われれば。)

 「山と高原地図 鳥海山」は池昭さんが実際歩いた、常人では実際に歩けないような道まで載っていますがそれが想像を掻き立たせてくれるまた面白いところです。山にはすごい人がいたものです。


二ノ滝口

2023年06月14日 | 鳥海山

 一、二年ほど前だったかSNSに二ノ滝口の上の方が藪こぎしないと歩けない、何をやっているんだ、などと勘違い野郎も甚だしい投稿がありました。登山道はいつでもあなたたちのために整備されているなどと思って登るような人は来なくてよろしいです。国定公園の整備は県の管轄ですが実際はほとんど民間のボランティアが行っています。県に言わせれば「予算がない。」常套句です。

 登山道に係わる諸問題については「これでいいのか登山道 現状と課題」が現状を取り上げています。百名山にかぶれた方々がごっちゃごっちゃといろいろな実情を取り上げています。解決に向けた方向性にまでは進まないものの、こういった問題があるということだけはわかります。

 

 二ノ滝口の話から脱線しましたが話を戻しますと、この二の滝口、実はかなり新しい道のようです。一の滝、二ノ滝は昔から道があったようですけれど、その先が開削されたのは昭和になってから。ちなみにその頃の二ノ滝は現在のように下から行くのではなく、上から鎖を伝って降りていたようです。画像もありますけれどFacebookなのでここで紹介するのは不可能です。

 この二の滝口については斎藤十象「鳥海山談義」にそのいきさつが書いてあります。前にも紹介しましたが今一度紹介いたします。


    高橋伝喜太翁のこと

 鳥海山には、それまでほんとの意味での沢沿いの登山路はなかった。日向、月光の二つの川が鳥海の東面と南面から出て、最上川の下流域穀倉荘内平野の北半を潤おし、最上川へは注がずに、西流してそのまま日本海に入る。ふたすじの乳の流れとでも云うべきか。

 月光川の源流は、滝と潭との連続で大へん美しいのだが、この沢の上流に龍ヶ滝という滝があって、高さ約六十米、この沢中豪壮第一の滝である。その下流には、一ノ滝、二ノ滝があって、ここまではいい登山路があり、特に二ノ滝は縁結びの神として、旧六月一日の例祭には、地元の青年男女の登拝によって賑わっている。そこには熔岩の洞窟があって、岩面にできている無数の小さな岩瘤に、左手で紙撚を結びつけるのである。この沢は、だから二ノ滝沢と呼ばれている。

 どこの山にも付きものの、この山にも七太郎さんという奇人がいた。部落から一里ばかり山へ入ったところに、掘立小屋を建てて住んでいた。私は、この七太郎老人の小屋で、焚火を囲んで、訥々と語られる山の話を聞くのが好きだった。この老人、いつか、部落にある自分の家から鍋を提げて出てきたが、そのまま一里の山道を小屋まで行ったものだ。何と、その鍋には、煮かけた鰯汁が入っていた。聞けば、煮かけていた汁を、そのまま小屋で進ぜようと思って、かくは提げてきたのだというのであった。

 いま一人伝喜太翁がいた。翁は、村の素封家で呉服屋の檀那さんであった。それに慶応義塾のオールドボーイで山好きで能書家であった。七太郎さんとは、馬が合うというのであろうか、一は無学文盲、一は才ールド文化人であったが、すこぶる仲がよかった。年も同じ位であった。龍ケ滝へ道をつけようと思い立った二人は、早速仕事にかかって、二ノ滝の上部を、沢沿いに道路を切り開きにかかった。二人は、遂に念願を達して、龍ケ滝の壮観を世に紹介することができた。それからの上部は、二人を助けた地元の若い人達の奉仕で、二ノ滝口鳥海登山道が完成したのはいうまでもない。昭和七年のことである。


 このように昭和七年に完成したことがわかります。

 この絵葉書はおそらく昭和初期のもの。登山道が開削されて間もないころのものと思われます。葉書の下部には(遊佐新登山道名勝)龍頭瀧 龍ヶ瀧 とあります。こういった先人の道づくりの事も考えず藪こぎだったなどと騒ぎ立てる人は自ら刈払いに来てください。多くの人が整備に係わっても山は生きていますので人が付けた傷跡を消そう消そうとしています。消しきれないときは大きく崩れて人が来ることを拒むようになります。と、このように思うのですがどうでしょう。山も人が入り過ぎです。これも百名山などという本が一番山が荒れる原因を作ったからでしょう。

 


エビオス錠

2023年06月13日 | 兎糞録

 今朝新聞のチラシを目にしたら半世紀近い昔のことを突然思い出してしまいました。

 そのチラシはエビオス錠。

 初めて東京へ出た時、親が用意してくれたのは鉄道公安官していた叔父が紹介してくれた二食付きの三畳間。大家は一人暮らしのおばあさん。

 最初の晩「私の事はおばさんって呼んでね」(うげっ)、初めての食事はとてつもなく不味いクリームシチュー一皿。目の前にはびちゃびちゃと音を立ててシチューをすする婆さんが一人いるだけ。この婆さんがいつも飲んでいたのがエビオス錠、だからエビオス錠というのは婆さんの飲む薬だと今も思っています。

 ある日、「あ、そうそう、今度来る人あなたと同郷の人のようよ。」

 まったくの偶然とはあるもので、後日現れた下宿人は高校の同級生。大学医学部へ入学するため浪人するのだとか。

 後日もう一人の下宿人が、こちらは能代高校サッカー部出身、二言目には「あいっ、しこたまよー」

 

 さてこの婆さん世の中の吝嗇を絵で描いたような婆さん。

 ある日浪人生の親戚の人がショートケーキがたんまり入った箱を土産に持ってきて浪人の陣中見舞い。婆さんに「これ下宿のみんなに差し上げてください。」

 みんな甘いものに飢えていて楽しみにすることしきり。しかし待てど暮らせどケーキは現れず、何!婆さん一人で全部食ってしまった。

 この婆さん、電話は絶対使わせない。外出するときはダイヤル式の黒電話に鍵かける。

 ならばとある日一同鍵を探し出し長距離電話をかけまくる。その月は通話料が大変だったろうなあ。

 風呂はあるんだけど使わせない、後日下宿を出てから聞いた話では、婆さん有料で下宿人に風呂を使わせるようになったとか、但し上がり湯はいっぱいのみという制限付きで。そりゃ誰だって先頭を選びます。ちなみに当時戦闘は45円、その後47円に。

 

 いくら何でもこんな所にはいられないと飛び出すことを決め探し出したのが運命の阿佐ヶ谷。以下続く、かも。