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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

阪神淡路大震災で授かった能力(34)

2012-04-09 | 「アズミックアート物語」21~ その後
船井幸雄さんのブログ(毎月曜日更新)の中に連載されている、池田整治さんの『21世紀 ヤマトごころの部屋』を愛読している。

本日は「ガイアのつぶやき・・・その1 」として、昨年の3・11から1年が経ったフクシマの現状と原発の実態、放射能のことなど、広島の原爆の話も含めて、非常に役立つというか、今私たちが知っておく必要のあることが簡潔に分り易く書かれ、しかも今後のことに関する深い内容の提言もあり、本当に心動かされた。
この記事はぜひぜひ読んで欲しいと思う。

そして自分に何が出来るかを考えた時に、あまりの困難に打ちのめされ、多くの人がたぶん「あきらめの気持ち」を持ってしまうかもしれない。
これだけのひどい現実があるのに、なぜまた原発再稼働に賛成する人がいるのか。
どうしてみんなもっと怒らないのか!?

60年安保や70年代の全共闘運動のような社会的に影響力を及ぼすような直接行動がもっと起こっていい筈なのに、「大人し過ぎるのはなぜなのか」と誰もが不思議に思っていながら、(自分自身も含めて)もう一歩前に踏み出せず、思い切った「直接行動」に出られないのはなぜなんだ!?と我ながらはがゆく感じつつも、忸怩たる思いのまま、ただ「様子眺め」?をしている人も多いかもしれない。

このことに関して、前回も紹介した『ヤスの備忘録 歴史と予言の間 』に、「日本に関する思考実験 1 」という大変優れた考察が掲載されているので、まだ読まれていない方はこちらもぜひ読んで欲しい。

「いまの危機を作り出している最大の要因は、実は我々自身」 という、ヤス氏の指摘に、私は非常に納得がいったので、下記一部抜粋をして紹介する。
(ほんとうは全文をそのままご紹介したいのだが、かなりの長文にわたるため、各自でアクセスの上ご参照ください)

「不行動原則」
集団的な直接行動を通して社会的現実を変更することを放棄する態度。
(言い換えると)日常と社会的現実の分断を受け入れ、なんにも行動しないことを選択する態度。

(このような)「不行動の原則」が一般化している理由は、我々の心理に、「何をやっても変わらない」という強い諦めの気持が存在しているからだ。(というふうにヤス氏は鋭く洞察し、その心理の奥に何が存在しているかについて詳細に分析していく)

もっと怒るべき、もっと行動すべきということは誰でも分っている。
(それなのに動けないのはなぜかについての、下記はヤス氏の考察である)

それはだれでもよく分っている。
しかし直接行動を一瞬でも考えると、「何をやっても変わらない」という思いが、心の底から込み上げてくる。この思いが一度込み上げると、すべてのエネルギーが失われ、とてつもない諦めの気持ちが身体を駆け巡り、現実を変革する力が失せてしまうのだ。

(中略)

ボールが顔に向かって飛んでくると咄嗟に避けようとするが、それと同じぐらい(これは)咄嗟の自動化された反応なのだ。そうでないと、社会の現実を変えるために動こうとするときに沸き起こってくる諦めの気持ちの強烈さは説明できない。

(中略)

すべてが(まるで)ゲームのように進行 → 生み出され続ける無変化の日常という幻想 → 諦めの気持ちの基礎にある(日本人の)「世界の感じ方」

(中略)

我々(日本人)は世界や社会を、個人をはるかに越えた生きた有機体のように実感している。
それは独自の意思と法則で変化している全体的ななにものかである → それぞれの個人は、(欧米人のように)自我として自立した存在ではなく、全体的ななにものかと紐帯でつながりながら、かりそめに個人として分化している淡い存在

(中略)

日本人として社会の現実は、背後にある超越的な存在が作り出したものとして実感される 。我々自身もこうした全体の一部である → (淡い)個我でしかない個々の人間は、変化の方向をいち早く感じ取り、それに合わせて一緒に変化することができるぐらいで、ましてや人間の意志で全体性に働きかけ、変化を押し止めたり、方向を変更することなどできるわけがない → (社会的な現実を変えるための直接行動は)最初から負けが決まっている不適切な行動(という心理をほとんどの日本人が持つ)

というふうに、ヤス氏は見事に深く考察している。

このような「不行動原則」とその元になっている我々の日本人の心理(世界の感じ方)を、ではどうやったら変えることが出来るのか?
それについてはこれからまだまだ続く彼の「日本に関する思考実験」において明らかにされていくことだろうが、早く続きが読みたいものだ。

さて、このような厳しい現実の中においても、少しは「希望」の持てるこれまでとはまた違った新しい動きや、私が参考にしている興味深いブログなどを次回にいくつか紹介したいと思う。

最後にひとつ勇気の出る話題を。
実の親から2度も殺されかけたいう、信じられないようなひどい虐待から生還して、自身の体験を『 e love smile 』(パレード発行)という本にされた島田妙子さんのことを、今日のサンケイニュース(虐待をこえてータエコの40年)で知った。

その記事を読みながら涙が出て止らなかった。この本が評判になり彼女は今あちこちから呼ばれて講演されているそうだが、私はこの彼女の生き方の中に、きっとこれからの日本人の生き方のヒントがあるのではないかと直観的に感じた。さっそく本を注文して読んでみようと思っている。


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オーリングテストの話(17)

2012-04-05 | シリーズ「オーリングテストの話」
あの凄い「台風以上!」の春嵐も過ぎて、今朝はとてもよい天気だったので、伸び放題の草抜きをしようと思いつき、その前に「オーリングテスト」をしてみたら、なぜかオッケーが出ないのです。

これは「仕事に集中しなさい」ということかなと思いつつ、(もうすぐ団地の外壁工事がある予定でそれまでに庭を整理しておかないと草と花を間違えて踏まれてしまうのは嫌なので)「やっぱりやろう!」と決心してルンルンとやり始めたら、何としばらくして急に雨が、、。

あれれ、今日の天気予報は晴天の筈なのに?きっとすぐに止むだろうと思っていたら、どんどん降ってきたので、仕方無く中止。
そして絵の仕事を仕上げている間にお天気が回復したので、もう一度庭仕事を始めたら、またまた急に雨が!

やっぱり今日はオーリング様の言う通りにした方がいいのね、「ハイ、ハイ、ワカリマシタよ!」というわけで、あと少し残して終わりました。
たまにはそんなふうにわざと逆らってみる?のも愉快です。

この団地の外壁工事は予定よりずれ込んでいて、毎日今日から始まるか、いつ始まるかと思って、気持ちが落ち着きません。でも遅れたおかげで良いこともあり、玄関ドアポストの塗装の剥げている部分をついでに塗ってもらえることになりました。
そのお願いに管理事務所へ行った時にも実はこっそりオーリングテストをしました。
こういう時の「一人オーリングテスト」は(二人でやるよりも)目立たないので便利です。

さて、以下はオーリングテストとはあまり関係の無い話です。

あるところから案内状が届き、その講演内容に「レジリエンス」と書いてあったのです。
私は全く初めて聞く言葉だったので、ネット検索して調べてみましたら、驚いたことにもうかなり普及していてあちこちでこの言葉が使われていました。(今まで知らなかったのはどうやら私だけ!?)

「レジリエンス」というのは例えばPTSD(心的外傷後ストレス障害)などを克服するためにも役立つ「精神的回復力」を現す言葉のようです。
「困難に打ち勝つ心の力、挫折から回復・復元する弾力性(しなやかさ)」とか、「困難な環境を生き延びる適応的な能力」また、「リスク・危機耐性」と訳しておられる人もいました。

またそういった能力を高めるために「レジリエンス・トレーニング」を行っているところもあり、DVや性的被害にあった「サバイバー」を支援するための「NPO法人レジリエンス」などもすでに発足していました。
(詳細は各自でネット検索してみてください)

そしてこれは単に被害者の回復だけでは無く、例えば新入社員教育などにも応用されているようです。
例えば「自分本来の強みを特定すると同時に、その強みを自分の持ち場でどう活かしていくか」その方法についてもこのような「レジリエンス・トレーニング」で学ぶことが出来るようです。

同じ困難な出来事やストレスに遭遇してもそこから早く立ち直れる人もいれば、そこで落ち込んでしまってその体験をずっと引き摺ってしまい、それがさらなるトラウマになってしまう人もいると思いますが、そのような場合でも、このような訓練によって少しでも早くその状態を抜け出して楽になることが出来るとしたら、これは素晴らしいテクニックであり、ぜひ身に付けたいスキルだと思いました。

セクシャルハラスメント(セクハラ)という言葉の普及によって、「それはセクハラだからやめて!」と女性が声を上げやすくなったり、しつこい上司のイジメに対しても部下が「パワハラはやめてください」と言い易くなったように、このような新しい言葉が生まれる(定義される)ことによって、人々の注意、注目を集め、「認識が変化する」というのは興味深いですね。(「言葉」の大切さを教えられますね)

そして現在のような「危機的状況に常時晒されているような社会情勢」の中では、これは今もっとも求められていることであり、単に「レジリエンス」という言葉の広がりだけでなく、具体的な「訓練の機会」がもっと増えるといいなと感じました。

ところでこの「レジリエンス」ですが、その「精神的回復力尺度」は3因子で構成されているそうです。
(ー精神的回復力と危機耐性ー 香川大学教育学部助教授 阪根健二氏のネット掲載論文より一部拝借)

それは「新奇性追求」「感情調整」「肯定的な未来志向」の3因子ということですが、これを我流に解釈(我田引水)させていただくと、下記のようなことが言えるかもしれません。

一つは目新しいものや好奇心の湧くものに目を向けるということ。つまりワクワクすることを探すこと?
二つ目の「感情調整」などには「アートセラピー」なども役立ちそうです。
それから「肯定的な未来志向」というのは要するに「ボジティブシンキング」のことでしょうか?

他の文献を見ても、「希望」(楽観性)とか、「自分の人生は変えることが出来る」というコミットメント(全人的関与の姿勢)というのが重要であることが言われていました。
そういうものがあることによって、より習得が容易になり、効果が高まるようです。

そして、私が「さもありなん!」と思ったのは、このような全てのファクターの底に、全てに共通するものとして「自尊心」があるという指摘でした。
私が「家と自尊心」というタイトルでこのブログに書いたことも、要するに言いたかったことはそういうことでした。これこそが全てに影響を与えているのですね

(故)中村天風さんはそれを「(潜在)意識の更改」というふうに言い、その訓練方法を教えてくれていますが、福田高規先生もいつも(行動よりも前に)自分の「理想」を決める方が先だと言っておられます。
言い方は少し違っても、みんな同じことを教えてくれているのではと思います。

実はかつて私もかなり劣等感が強くて、それを克服するために(今でも完全に克服出来ているとは言えませんが)いろいろな方法を試みました。
その中で効果があった幾つかの方法や体験について、また機会があればお伝えしたいと思います。

最後に言いたいことは、「オーリングテスト」は上記に述べた「新奇性追求」という意味で、もしかしたらかなり役立つのではということです。

すなわち、ひとつのことに固まっている頑な心をほぐし、こんな方法もあるのか?とふと思考がゆるんで、「こだわりが消える効果」もあるのでは?という気がします。

また自画自賛になりますが、「感情調整」に「テレパスアート」も少しはお役に立てるかもしれません。
まったく思いがけない観点から自分のことや起きた出来事などを見直すことで、滞っていた「感情」がふと動き出したり?少しは癒されることもあるかもしれない?と思うからです。

そして何よりも「あきらめない」で「希望」を持ち続けるという楽観性

話は突然に変わりますが、昨夜はブログを書いているうちに眠くて続けられなくて、ギブアップしてしまったのです。
そんな時にも自分を責めないで、これからも「間が空いてもいいので続けていけたら」と、この話を書きながら思いました。

「短くていいから毎日続けよう」と思っていたのですが、どうも私は書いているうちに(自動的に書いているのですが)止らなくなって、つい長くなってしまいます。(書くのに大体2~3時間ぐらいかかるのです)
話もあちこち飛んでいきますが、これも個性と思っていただけたら幸いです。 ご愛読に感謝です。





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阪神淡路大震災で授かった能力(33)

2012-04-04 | 「アズミックアート物語」21~ その後
すでに愛読されている方も多いと思うが、「ヤスの備忘録 歴史と予言の間 番外編 思いっきり予言6」というブログ(3月31日更新)の中に、3月15日に公開されたディムス少佐の「最新予言」が紹介されていた。

このディムス少佐がどういう人物であるか、詳しい経歴などは上記のブログを読んでいただくとして、私が関心を持った事柄について、下記にその一部を抜粋してご紹介する。
(文章が本人の文とは順不同であったり、話の都合で文章のニュアンスが違ったり、言葉遣いが若干変わったりしているところがあるが、ご容赦を。興味を持たれた方は元の文を参照のこと)

1970年代後半に結成されたアメリカの国防省諜報庁遠隔透視部隊は、その後の20年を越える期間に数々の成果を残して解散したそうだが、その部隊の中にこのデイムス少佐もいて、また後年日本で有名になったジョー・マクモニーグル氏も在籍していたそうだ。
(マクモニーグル氏は来日して「遠隔透視」を使って「卑弥呼の墓」の探求などされたこともあるので、そのテレビ番組を観られた方もいることだろう)
「遠隔透視」を使えば、例えば遠くにあるものだけではなく、過去や未来なども見ることが出来るようだ。

ところで、この「遠隔透視」の技術がマニュアル化され、個人のもつサイキックな能力にはいっさい依存しないスキルとして標準化され、「遠隔透視トレーニングDVD」としてすでに発売されたそうで、自宅でそのDVDを何度も観て繰り返し練習すれば、だれでもそのスキルを身につけることが出来るそうだ。(ただし現在は英語版のみ)

初心者の場合、的中率は10~20% 程度で、よく訓練された遠隔透視者であればその的中率は80%程度ということだ。20%は未知の部分が残るがこれはしょうがないということらしい。

このようなこと(遠隔透視)が可能なのは、もともと人間がもっている無意識は驚くべき能力を持っていて、この「遠隔透視」能力もそのうちの一つだからだ。

無意識はイメージなどの象徴を言語として使いコミュニケートしてくるため、その意味を正しく把握するためには、その解釈の方法を知る必要がある。
(無意識が意識に向かって返してくる返答を正しく解釈することが必要ということ)

この「遠隔透視」の訓練においては、考えはいらない。とにかく考えないこと。思考、分析は不要なのだ。
無意識だけで直感的に反応し、判断するように訓練するということのようだ。

さて、ディムス少佐の予言は破滅的予言が多いのが特徴らしいが、これまで数々の予言を当てているそうだ。
例えば1997年には、彼は「鳥インフルエンザ」が起きることなどもすでに予言していたらしい。
しかしながらその起こる時期については、的中時期が大幅にずれることも多く、だから彼の予言は当たらないと言う人もいるそうだ。

無意識にははっきりとした時間感覚はないので、いつできごとが起こるか?正確な時までは分らないということのようだ。

今回の最新予言では、ディムス少佐は太陽フレア直撃で何が起こるかといったことも述べているようだ。
(詳細は上記のブログ参照)

ここから先は私見であるが、確かに私が仕事として描いている「テレパスアート」においても、そこに描かれた出来事がいつ起こるのか、過去のことなのか、未来に実現することなのかということを判断することはかなり難しい。また過去にもあったが、未来にも再びあるという可能性もあり、それが重なっている場合もあるかもしれない。だから絵自体はもしも正しく描けていたとしても、その解釈の方が何倍も難しいと感じる。

かつてあるお客様の絵で「煙草ケース」が画面に現れていたのだが、その場合「シュガーケース」(シガレットケース)とも重なっていると感じて、砂糖を控える(糖尿病予防)というメッセージをお伝えしたことがある。そしてそれはまた、夫婦関係の「甘さ」(妻が夫を甘やかせ過ぎている)ということも暗示していたようだったので、夫の食事の糖分を控えるということの裏にあるそのような「隠された意味」も同時に絵の説明に
書き加えた。(その内容は後でご本人に確認してみたらその通りのようだった)

ところが驚いたのは、ある日、あるところから実際にシガレットケースがふと出て来て、それはそのご本人も知らない「亡父の形見」であることが、その方のお母さんの話でわかったのだ。
絵を描いた時点ではまだ起きていない出来事ではあるが、そのシガレットケースはずっとそこに前からあったわけで、それがいつ発見されて出て来るかの予測はかなり難しいと思う。

しかもそのような形見があることをお母さんはその娘(テレパスアートを依頼したご本人)に伝えていなかったので、絵に描かれたシガレットケースだけを見てもそれが何を意味するのかは、その時点では彼女に分らなくて当然だし、私もまたそういう観点での説明をすることは出来なかったわけだ。
(ただ、何かこれが重要な意味を持つものであり、本人にとっては「大切なもの」ということは感じた)

だから例えばの話。未来に出逢うべき相手はすでに存在していて、それが絵に出て来ていたとしても、その人と実際に「いつ出逢えるのか?」は、まさに「神のみぞ知る」ということかもしれない。
(決してそういう人が存在していないというわけでは無いと私は信じるのだが、もし出逢えなければそれは存在していないのと同じこと?として感じられるかもしれない)

今回このような例をお話したのは、(私は決してサイキックな人間では無く、たまたま阪神淡路大震災をきっかけとして、その後このような絵が描けるようになったに過ぎないのだが)たとえ最高の超能力を持った人でも「未来予測」は難しいということを知って、実はほっとしたからである。

「テレパスアート」は気付きのために描かれているので、「当たる、当たらない」というのは二の次で、絵を通してそこから何に気づくかということの方が大事と思っているのだが、どうしてもつい責任を感じ過ぎてしまって、絵が果たしてほんとうにお役に立ったかどうか?が気になったりするのだ。

それから、最後にもう一つ。
「無意識」からのメッセージだと、そんなふうに破滅的な暗い予言が出て来るのかもしれないが、「超意識」からのメッセージであれば、逆にもっと楽天的な予言になるのでは?という気がするのだが、どうだろうか?

それにしてもすでに「遠隔透視」の訓練用DVDまで発売されているとは、さすがにアメリカだと感じた。
しかもだれでも訓練によってそういう能力を身につけることが出来るなんて、全く驚きである。
実はデイムス少佐自身だってそういう能力を最初から持っていたわけでは決して無く、(むしろ自分は出来ない方だったと言っているぐらいで)彼自身も訓練によってそのような能力を身に付けた人であるらしい。

話は長くなるが、植物さんとの共同研究をされていた三上晃先生は、植物さんに聞くことで、「ある人が今どこで何をしているか」も手に取るようにわかったそうだ。
友人に協力してもらって実証実験を繰り返し、その精度を高めておられたようだ。

植物は人間よりもこの地球上での歴史が長いので、人間よりももっと古い歴史もよく知っているし、他の天体のことまで知っていると三上先生は信じておられたのだ。

ともかくもせめて植物と同程度?には人類も進化してくれるといいなと思う。
そしてせっかく「遠隔透視」の力を得たなら、それを競争や戦争のためで無く、「平和のために」よりよく使って欲しいと願う。


下記の絵は『SACRA』(聖なる輪)です。




(無断転載、許可無しのコピーなどはご遠慮ください)




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オーリングテストの話(16)

2012-04-03 | シリーズ「オーリングテストの話」
今朝の朝日新聞(文化面)ネット版ニュースの中に、心惹かれる話題を見つけました。

(故)森田芳光監督は「いま、この世の中に足りないことは何だろう」と考えて映画を作っていたそうです。
そして現在全国公開中の遺作映画に触れて、「好きなことでつながる人間関係が、人をちょっと幸せにしたり、人生を豊かにする。(後略)」と、公私にわたるパートナーだった三沢和子プロジューサーの話が続いていました。

「自分に足りないものは・・・」と考えると、つい不満が出たり、自分を責めてしまったりしがちですが、こういう「足していくような発想」だと気持ちが前向きになれますね。

家族やふつうの友人関係とはまた違った「好きなことでつながる人間関係」というのは、確かに独特の深い味わいがある気がします。
私もかつて20年以上続けていた趣味があり、その後そこからは離れましたが、その頃の仲間との交流は今でも続き、たまにどこかで会うと姉妹以上?のなつかしさを感じて「不思議な親密感」が湧きます。

また、これもたまたま別のニュースで知ったのですが、倉敷にある「蟲(むし)文庫」という小さな古本屋のオーナー女性は「苔好き」で、その関連の彼女の著書がきっかけとなって「苔好きの古本屋」として評判になり、そこから出会いが生まれ、「古本好き」の人たちとの交流もさらに広がっていったそうで、面白いですね!
(詳細は『わたしの小さな古本屋』田中美穂著/洋泉社 参照)

そう言えば大阪(天五中崎通商店街)にも「青空書房」という素敵な古本屋さんがあるそうで、私はまだ一度も行ったことが無いのですが、そこには「坐った人は必ず夢が叶う」という椅子があるそうです。
でもそこに坐れる人は数少ないようです。
なぜなら店主の坂本健一さんの許可が要るからです♪
(興味を持たれた方は、まず先に『浪華の古本屋 ぎっこんばったん』を読んでからお出かけください)

ところで話は元に戻りますが、「好きなことでつながる人間関係」は私の場合なら、例えば「UFOウオッチャー」とか、「オーリングテスト好き」仲間とかになるでしょうか。

あるいは「夢好き友だち」かな?それとも「不動産好き」?「田舎暮らし」にも憧れているし、巨木や草花も大好きだし、以前から神社や巨石巡りにも興味があるし、ともかく「好きなこと」ならいっぱいあります。

私の周囲はけっこう「芸術好き」「本好き」「映画好き」の人たちが多いみたいですが、決して「大金持ち」では無いところだけは共通しているようです。「類は友を呼ぶ」のでしょうか。

もしかしたら「マイナー」なものほど強い絆やご縁が生まれやすいのかもしれませんね。
そういう意味ではこのブログを読んで下さっている方はお互いに「顔見知り」では無くても、「こころ見知り」?で、すでに繋がっているのかも? いつかここから交流会が出来るといいですね!


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阪神淡路大震災で授かった能力(32)

2012-04-01 | 「アズミックアート物語」21~ その後
今、新しいHPというか、これまでのものを前面リニューアルするために奮闘中です。
と言っても私はパソコンオンチなので、もっぱら相棒が頑張ってくれています。

本来なら、本日4月1日からリニューアルオープン!の予定だったのですが、なぜかパソコンが途中でフリーズしてしまったり、また、せっかくページが出来上がったのにUPが出来なかったり、ページがうまく開かなかったり、、。
そんないろいろなトラブルがあったために、残念ながら本日はお披露目が出来ませんでした。

そんな時、ある人のことがふと思い浮かんで来ました。

それは私がまだ30代前半で「再独身」?だった頃のこと。
その頃私はある人と付き合っていたのですがうまくいかないことがあり、たまたま趣味の会の仲間の一人が「精神科医」をされていたので、これ幸いとばかりにその方に悩みの相談をしたことがありました。

その方はとても温厚なクリスチャンで私よりもずっと年配でした。その方のお父様は有名な詩人とかで、ご本人ももの静かな深い思索をされる方で、私の秘かな憧れの人でもありました。

趣味の会では会が終わった後、何人かで食事をしたり、仲間で一緒に呑んだりするのが楽しみで、その折もそういうなごやかな雰囲気でみんなでくつろいでいたのですが、私一人が真剣にその方に自分の話を聴いてもらっていました。他のことは一切目に入らず、まるで一対一のカウンセリングのようでした。

そして、その方の答えはただひとつ。「そのまま、そのまま。そのままでいいのです」「そのままがいいのです」とそればかり繰り返し言われるのです。

当時の私はその答えが腑に落ちず、せっかく相談したのに、今困っているから相談したのに、「そのままがいいって一体どういうつもりなんだろう?」(そのままじゃうまくいかないから、うまくいっていないからこそ相談したのに、、)と大いに不満だったのです。
でも、なぜかその言葉がとても印象に残りました。

その方はご自分の体験も話して下さいました。
「若い頃、結婚したばかりの頃に結核にかかってね、それで入院している間に妻に逃げられてしまったのですよ」「それがきっかけで、少しノイローゼ気味になりましてね、森田療法に出合ったのです」

その時この方が私に言われた「そのまま、そのまま」というのが、その「森田療法」から来ているということがわかったのはずっと後になってからですが、今思い返すとそれは本当にそれ以外に無い「最高のアドバイス」だったなと思います。

この文を書きながらその方のことが急になつかしくなり、なぜか涙が滲みました。
(その方はその後すぐにご病気で亡くなられてしまったのですが、私のことをずっと気にかけてくださっていて、今も宇宙から見守ってくれているのかもしれません)
その方と二人でお話したのはそれが最初で最後、まさに「一期一会」でした。

その頃は理解出来なかった言葉ですが、今では行き詰まった時はこの「そのまま、そのまま、そのままでいい」という言葉を呪文のように唱えています。

特に今日は、念願の新しいHPがUP出来なかったことで少々しょげていたのですが、このブログを書いているうちに元気が出てきました。
自分自身を励ますためにも微力ながらこれからも書き続けたいと思います。
この話を読んで下さった方にもどうもありがとうございました。

写真は「オリーブ」です。







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