今年はなぜかあまり本を読まなかったような?
皆さまはいかがですか?
つい、最近ある方から『年収90万で東京ハッピーライフ』(太田出版)という本を紹介され、それを読み終えたところですが、もしかしてこれが今年の「読み納め」になるかも!?
この本は今年の6月出版ですが、前著『20代で隠居 週休5日の快適生活』も評判になったようです。
著者の大原扁理さんは1985年生まれ。やっと30代になったばかりの若者です。
驚いたことに「ホリエモン」(堀江貴文さん)が帯文を書いてこの本を推奨しておられます。
「働かざるもの食うべからず」なんて、古い。 と。
この言葉には胸がチクリとしました。
なぜって、私は父からこの「働かざるもの食うべからず」を骨の髄まで叩き込まれて育った世代だからです。
何か文句を言おうものなら、「自分で食べれるようになってから言え!」の一言で却下。
なので、私は自分で働いて食べていくことは(女性であっても)当然というふうに思って育ちました。
だから、まして男性が(というと男性差別のようですが)、「働かない」なんて絶対に嫌! という感覚が、今もどこかに残っています。
でも、今はかなり考え方も柔軟になって来て、「人それぞれの人生だから。。」と思えるようになりました。
この本の内容については、各自アマゾンで見ていただくこととして、下記は勝手な私の感想です。
いつもの如く、メッチャ長文ですので関心の無い方はワープしてくださいね♪
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一言で言うなら、この人の暮らし方は、私にとっては「特に何も目新しいことでは無い」ということです。
「そういう暮らしが当たり前だった昔」を私はすでに経験しているからです。
(「おしん」や「がばいばあちゃん」にはとても及びませんが・・・)
私たちが子どもだった頃には、土手のヨモギを摘んだり、川岸でセリを採ったりして、普通にさまざまな「野草」を食べていました。
海が近かったので、海草を採ったり、潮干狩りをしたり、釣った魚を食べたり、田んぼをしている親戚から米を送ってもらったり、近所の畑をしている人から芋や余った野菜をもらったり、、、 そんなにお金はかからなかったのではないでしょうか。
何せ川で洗濯をしたり、野菜を洗ったり、水遊びをしたり、、で、自宅では井戸水を使い、薪や石炭(コークス)でお風呂を湧かし、土間ではカマドでご飯を炊いていましたから、、。
その頃はテレビはもちろんのこと、まだ炊飯器も洗濯機も電子レンジも、冷蔵庫も何も無かったのですから!
なので、「おしん」の世界ほどではありませんが、この著者が今やっているような「シンプルな暮らし」は、どこもみんな同じくそんな感じでしたよ。
プールなんてもちろんありませんから、海へ泳ぎに行ったり、小さい子どもたちは盥(たらい)に水を入れて行水をしたり、大人は夕涼みしつつ路地で将棋を指したり、みんなで線香花火をしたり、、、お金はそんなに無くても、ガムシャラな働き方ではなく、実にのんびり、ゆったりとしていました。
私の幼い頃の記憶の中で鮮明に覚えているのは、「日向ぼっこ」の氣持ち好さです。
この著者もそんな話を書いていて共感しましたが、それって、何も特別なことでは無くて、昔は当たり前に誰もがしていたことだし、知っていたことだったのです。
「ぼろ買い」(不要になった布、衣類などを集める)の人もいたし、「鉄くず」を集めに来る人もいたし、「リサイクル」だってちゃんと自然に成り立っていたから、余分なものなんて何も無かったのです。
薬だって、「置き薬」で使った分だけ払う合理的なシステムというか、「富山の薬売り」の人が各家庭を回って定期的に新しい薬と交換してくれたりしていました。
そのついでに例えば日めくりカレンダーをくれたり、時には縁談を持って来てくれたり、いろんな情報交換も出来るという、うまく出来たシステムだったように思います。
村には「頼申講」(タノモシコウ〜もしかしたら漢字が違っているかもしれませんが)という、相互扶助システムがあって、必要な時はそこでお金を借りて、余裕が出来たら返すという、そんな仕組みもありました。
電話なんて携帯どころか、村全体の中で何軒かしか無くて、そこで借りたり、餅つきの臼や杵もお互いに貸し借りしたり、冠婚葬祭の衣服も自前で持っている人は少なかったように思います。
だから、家の中に余分なものなんて、何も無く、掃除もとても楽でした。
もちろん、その頃はほうきとチリトリ、雑巾だけで、例えば、畳の上に絞った茶殻を撒いて、ホコリを立てないようにしながら掃除していました。
それで何も不満も無く、十分に幸せな暮らしだったように思います。
ただし、トイレだけはやっぱり今の水洗の方が好きですけどね。。。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
というわけで、私の年代のような者にとっては、特に何も珍しいことは書かれてなかったのですが、「住まい」の見つけ方に関しては大変参考になりました。
私は自分の体験から、「家は結婚と同じだ」と考えていましたが、この著者は「住まいは『恋人』」と言っているのが、ちょっぴり新鮮でした。
そうか、家=「結婚」では無く、永遠の恋人だとしたら、また「住まいの見つけ方や暮らし方」も少し違って来るかもしれないなと感じました。
もしも「住まいが恋人」だとしたら、もっと純粋に「好き」だから一緒に暮らし、もっと「愛」を交わせる氣がします♡
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私の子どもの頃の唯一の不満は、「独りになれない」(そういうスペースが無い)ことでした。
「自分の居場所」と言えるところがどこにも無かったのです。
親や姉妹、親戚、近所の目、ともかく村中で誰にも会わないことなんて不可能で、「プライバシー」なんてものは一切無く、自分の部屋ももちろん無くて、私はずっと「独りで暮らす」というのが、子どもの頃の夢でした。
私にとっては、「働く」というのは、好きだからするのでは無く、ともかく「自由」を得るため、「独立」するためには、どうしても必要不可欠なことだったのです。
ともかく私は「窮屈」な暮らしというのがとっても苦手でした。どこにも逃げ場が無かったからです。
人も時間ものんびりしているのに、なぜかその頃はみんなが人に干渉したがるというか、お互いに関心を持つのが普通のことだったからです。
人間関係が今よりももっともっと濃密だったのです。
ですから、この本で一番感心したことは、人と付き合わず、友だちを作らず、「ずっと独りでいてもかまわない」ということです。
私たちの時代はそういう人は「変わり者」として、村八分になって、生きていきにくい環境だったのです。
否応無しにみんなと仲良くする必要があったのです。
今の時代の好いところは、人に関心を持たなくていいし、人から認められなくてもいいし、親や姉妹や近所の人からあれこれ言われて「比較される」ことも無いし、、、もしも自分が自分を好きでいられるなら、一人暮らしも愉しくやっていけるという「自由」がある(「個」としてのプライバシーが保てる)ことではないでしょうか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
だから、いきなり話が飛躍しますが、戦争になると、この「自由」が奪われ、人の目が厳しくなり、お互いに監視し合って、息苦しい=生き苦しい そんな社会になってしまうので、私はこの著者の生き方がどうであれ、誰もが自分の好きなスタイルで、それなりに幸せに生きられる、そんな「平和」な社会であることを、心から願っています。
ちなみに、本のプレビューを見ると、他の人たちも私と同じようなことを思うらしく、著者はまだ若いから、、この人の歳取ってからの姿や暮らし方を見てみたいという、そんな意見もありました。
余談ですが、私は20代の前半は、この人よりもっとシンプルな生活をしていました。
共同トイレしか無いアパート生活や、シャワーどころかお風呂も無い暮らし、、その後居候生活も経験しましたし、阪神淡路大震災後の広島では小さなワンルームでコタツも無いような暮らしでした。
でも、「いいじゃないの、幸せならば♪」という感じで、若い頃って、あまりつらさを感じ無いのかも?しれません。
それはやはり(無意識的であっても)未来に「希望」というものを抱いているからではないかと思います。
けれども、もう人生の残り時間が限られ、肉体的な衰えを感じて来る年代になると、「精神力」とか、ボジティブシンキングなんかではやっていけないぐらいに、人生の下り坂は何よりも「体力」が要るのです。
そういうわけで、今はとっても健康な生活を送られているらしいこの著者も、いつかは歳を取るし、病氣もするだろうし、自分の看取りは誰がしてくれるのか? 等々、年齢がいかないとわからないこともたくさんあると感じます。
ですから、氣持ちは「生涯青春」!!って確かに素晴らしいですが、体力が衰えるとやはり「氣力」も衰えがちですし、歳を取ってから、真のその人の「実力」が試されるというか、生死の「覚悟」が要るのだと思います。
ただ、著書は壮絶なイジメにも遭遇しておられ、その中でよくぞ生き延びて、自死することなく、こんなに愉しい幸せな暮らしを得ることが出来たことは、ほんとうによかったなと心からうれしくなりました。
今イジメに遭っていたり、借金で困っていたり、いろいろつらいことがある人は、この本を読むと少しは元氣が出て、もう少し生きてみようと思われるのではないでしょうか。
年内の「読み納め」にどんな本を読むか?
それが案外「来年の指標」になることもあるのかもしれません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
長くなりますが、最後に、下記の本も面白かったので(マンガですが)ご紹介致します。
★ 『やめてみた。』 本当に必要なものが見えてくる 暮らし方・考え方 (幻冬舎)
著者は わたなべぽん。
「生きるのがラクになる31のやめてみたこと」というキャッチコピーが付いています。
私はこの本を読んで、年末の忘年会を二つキャンセルしました♪
墓参も回数を絞りました。
いろいろやめてみると、本の表紙に書かれているように、「心の中まですっきりしていく」ようです。
2017年は、もっともっとシンプルに! 楽に愉しく生きたいですね♡
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さらに余談が続きます。
自分には出来無いことだけど、スピリュアルTVで藤木吾呂さんの番組を視聴して以来、吾呂さんのような生き方もとっても素晴らしいなと思いました。
大原扁理さんも面白いとは思いますが、もし自分に残された最後の食べ物を誰かにあげるとしたら、私は吾呂さんのような人にあげたいです♡
吾呂さんは「みんなのペットになりたい♪」という願いを持っておられますが、ほんとうに人からの「愛」によって活かされ、また、人からの「愛」を引き出すことがとっても上手に出来る人です。
そこにイヤラシサや卑屈さ、計算とかが全く無くて、こんなふうに人との繋がりによって生きることが出来たら、どんなにか幸せだろうな〜と思います。
吾呂さんは、どんなことにも決して「NO」を言ったことが無いそうで、 どんなことも全て受け容れて生きていて、それでいて「自分ほど幸せな人間はいない」と、とっても感謝して生きておられます。
生き方の達人!?というか、ほんとにこんなふうに生きられたら(人を愛し、人からも愛されたら)毎日がどんなにか愉しいでしょうね!
★ 藤木吾呂さんに興味を持たれた方はぜひ下記の番組をご覧ください。
☆ 週末はいらっしゃい! 154 『人との繋がりだけで生きていきたい』の巻
最後まで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
来年はもっと短く!? いや、いや、さらに長くなるかも・・・。
これからもどうぞよろしくお付き合いくださいね♪
皆さまはいかがですか?
つい、最近ある方から『年収90万で東京ハッピーライフ』(太田出版)という本を紹介され、それを読み終えたところですが、もしかしてこれが今年の「読み納め」になるかも!?
この本は今年の6月出版ですが、前著『20代で隠居 週休5日の快適生活』も評判になったようです。
著者の大原扁理さんは1985年生まれ。やっと30代になったばかりの若者です。
驚いたことに「ホリエモン」(堀江貴文さん)が帯文を書いてこの本を推奨しておられます。
「働かざるもの食うべからず」なんて、古い。 と。
この言葉には胸がチクリとしました。
なぜって、私は父からこの「働かざるもの食うべからず」を骨の髄まで叩き込まれて育った世代だからです。
何か文句を言おうものなら、「自分で食べれるようになってから言え!」の一言で却下。
なので、私は自分で働いて食べていくことは(女性であっても)当然というふうに思って育ちました。
だから、まして男性が(というと男性差別のようですが)、「働かない」なんて絶対に嫌! という感覚が、今もどこかに残っています。
でも、今はかなり考え方も柔軟になって来て、「人それぞれの人生だから。。」と思えるようになりました。
この本の内容については、各自アマゾンで見ていただくこととして、下記は勝手な私の感想です。
いつもの如く、メッチャ長文ですので関心の無い方はワープしてくださいね♪
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一言で言うなら、この人の暮らし方は、私にとっては「特に何も目新しいことでは無い」ということです。
「そういう暮らしが当たり前だった昔」を私はすでに経験しているからです。
(「おしん」や「がばいばあちゃん」にはとても及びませんが・・・)
私たちが子どもだった頃には、土手のヨモギを摘んだり、川岸でセリを採ったりして、普通にさまざまな「野草」を食べていました。
海が近かったので、海草を採ったり、潮干狩りをしたり、釣った魚を食べたり、田んぼをしている親戚から米を送ってもらったり、近所の畑をしている人から芋や余った野菜をもらったり、、、 そんなにお金はかからなかったのではないでしょうか。
何せ川で洗濯をしたり、野菜を洗ったり、水遊びをしたり、、で、自宅では井戸水を使い、薪や石炭(コークス)でお風呂を湧かし、土間ではカマドでご飯を炊いていましたから、、。
その頃はテレビはもちろんのこと、まだ炊飯器も洗濯機も電子レンジも、冷蔵庫も何も無かったのですから!
なので、「おしん」の世界ほどではありませんが、この著者が今やっているような「シンプルな暮らし」は、どこもみんな同じくそんな感じでしたよ。
プールなんてもちろんありませんから、海へ泳ぎに行ったり、小さい子どもたちは盥(たらい)に水を入れて行水をしたり、大人は夕涼みしつつ路地で将棋を指したり、みんなで線香花火をしたり、、、お金はそんなに無くても、ガムシャラな働き方ではなく、実にのんびり、ゆったりとしていました。
私の幼い頃の記憶の中で鮮明に覚えているのは、「日向ぼっこ」の氣持ち好さです。
この著者もそんな話を書いていて共感しましたが、それって、何も特別なことでは無くて、昔は当たり前に誰もがしていたことだし、知っていたことだったのです。
「ぼろ買い」(不要になった布、衣類などを集める)の人もいたし、「鉄くず」を集めに来る人もいたし、「リサイクル」だってちゃんと自然に成り立っていたから、余分なものなんて何も無かったのです。
薬だって、「置き薬」で使った分だけ払う合理的なシステムというか、「富山の薬売り」の人が各家庭を回って定期的に新しい薬と交換してくれたりしていました。
そのついでに例えば日めくりカレンダーをくれたり、時には縁談を持って来てくれたり、いろんな情報交換も出来るという、うまく出来たシステムだったように思います。
村には「頼申講」(タノモシコウ〜もしかしたら漢字が違っているかもしれませんが)という、相互扶助システムがあって、必要な時はそこでお金を借りて、余裕が出来たら返すという、そんな仕組みもありました。
電話なんて携帯どころか、村全体の中で何軒かしか無くて、そこで借りたり、餅つきの臼や杵もお互いに貸し借りしたり、冠婚葬祭の衣服も自前で持っている人は少なかったように思います。
だから、家の中に余分なものなんて、何も無く、掃除もとても楽でした。
もちろん、その頃はほうきとチリトリ、雑巾だけで、例えば、畳の上に絞った茶殻を撒いて、ホコリを立てないようにしながら掃除していました。
それで何も不満も無く、十分に幸せな暮らしだったように思います。
ただし、トイレだけはやっぱり今の水洗の方が好きですけどね。。。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
というわけで、私の年代のような者にとっては、特に何も珍しいことは書かれてなかったのですが、「住まい」の見つけ方に関しては大変参考になりました。
私は自分の体験から、「家は結婚と同じだ」と考えていましたが、この著者は「住まいは『恋人』」と言っているのが、ちょっぴり新鮮でした。
そうか、家=「結婚」では無く、永遠の恋人だとしたら、また「住まいの見つけ方や暮らし方」も少し違って来るかもしれないなと感じました。
もしも「住まいが恋人」だとしたら、もっと純粋に「好き」だから一緒に暮らし、もっと「愛」を交わせる氣がします♡
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私の子どもの頃の唯一の不満は、「独りになれない」(そういうスペースが無い)ことでした。
「自分の居場所」と言えるところがどこにも無かったのです。
親や姉妹、親戚、近所の目、ともかく村中で誰にも会わないことなんて不可能で、「プライバシー」なんてものは一切無く、自分の部屋ももちろん無くて、私はずっと「独りで暮らす」というのが、子どもの頃の夢でした。
私にとっては、「働く」というのは、好きだからするのでは無く、ともかく「自由」を得るため、「独立」するためには、どうしても必要不可欠なことだったのです。
ともかく私は「窮屈」な暮らしというのがとっても苦手でした。どこにも逃げ場が無かったからです。
人も時間ものんびりしているのに、なぜかその頃はみんなが人に干渉したがるというか、お互いに関心を持つのが普通のことだったからです。
人間関係が今よりももっともっと濃密だったのです。
ですから、この本で一番感心したことは、人と付き合わず、友だちを作らず、「ずっと独りでいてもかまわない」ということです。
私たちの時代はそういう人は「変わり者」として、村八分になって、生きていきにくい環境だったのです。
否応無しにみんなと仲良くする必要があったのです。
今の時代の好いところは、人に関心を持たなくていいし、人から認められなくてもいいし、親や姉妹や近所の人からあれこれ言われて「比較される」ことも無いし、、、もしも自分が自分を好きでいられるなら、一人暮らしも愉しくやっていけるという「自由」がある(「個」としてのプライバシーが保てる)ことではないでしょうか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
だから、いきなり話が飛躍しますが、戦争になると、この「自由」が奪われ、人の目が厳しくなり、お互いに監視し合って、息苦しい=生き苦しい そんな社会になってしまうので、私はこの著者の生き方がどうであれ、誰もが自分の好きなスタイルで、それなりに幸せに生きられる、そんな「平和」な社会であることを、心から願っています。
ちなみに、本のプレビューを見ると、他の人たちも私と同じようなことを思うらしく、著者はまだ若いから、、この人の歳取ってからの姿や暮らし方を見てみたいという、そんな意見もありました。
余談ですが、私は20代の前半は、この人よりもっとシンプルな生活をしていました。
共同トイレしか無いアパート生活や、シャワーどころかお風呂も無い暮らし、、その後居候生活も経験しましたし、阪神淡路大震災後の広島では小さなワンルームでコタツも無いような暮らしでした。
でも、「いいじゃないの、幸せならば♪」という感じで、若い頃って、あまりつらさを感じ無いのかも?しれません。
それはやはり(無意識的であっても)未来に「希望」というものを抱いているからではないかと思います。
けれども、もう人生の残り時間が限られ、肉体的な衰えを感じて来る年代になると、「精神力」とか、ボジティブシンキングなんかではやっていけないぐらいに、人生の下り坂は何よりも「体力」が要るのです。
そういうわけで、今はとっても健康な生活を送られているらしいこの著者も、いつかは歳を取るし、病氣もするだろうし、自分の看取りは誰がしてくれるのか? 等々、年齢がいかないとわからないこともたくさんあると感じます。
ですから、氣持ちは「生涯青春」!!って確かに素晴らしいですが、体力が衰えるとやはり「氣力」も衰えがちですし、歳を取ってから、真のその人の「実力」が試されるというか、生死の「覚悟」が要るのだと思います。
ただ、著書は壮絶なイジメにも遭遇しておられ、その中でよくぞ生き延びて、自死することなく、こんなに愉しい幸せな暮らしを得ることが出来たことは、ほんとうによかったなと心からうれしくなりました。
今イジメに遭っていたり、借金で困っていたり、いろいろつらいことがある人は、この本を読むと少しは元氣が出て、もう少し生きてみようと思われるのではないでしょうか。
年内の「読み納め」にどんな本を読むか?
それが案外「来年の指標」になることもあるのかもしれません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
長くなりますが、最後に、下記の本も面白かったので(マンガですが)ご紹介致します。
★ 『やめてみた。』 本当に必要なものが見えてくる 暮らし方・考え方 (幻冬舎)
著者は わたなべぽん。
「生きるのがラクになる31のやめてみたこと」というキャッチコピーが付いています。
私はこの本を読んで、年末の忘年会を二つキャンセルしました♪
墓参も回数を絞りました。
いろいろやめてみると、本の表紙に書かれているように、「心の中まですっきりしていく」ようです。
2017年は、もっともっとシンプルに! 楽に愉しく生きたいですね♡
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さらに余談が続きます。
自分には出来無いことだけど、スピリュアルTVで藤木吾呂さんの番組を視聴して以来、吾呂さんのような生き方もとっても素晴らしいなと思いました。
大原扁理さんも面白いとは思いますが、もし自分に残された最後の食べ物を誰かにあげるとしたら、私は吾呂さんのような人にあげたいです♡
吾呂さんは「みんなのペットになりたい♪」という願いを持っておられますが、ほんとうに人からの「愛」によって活かされ、また、人からの「愛」を引き出すことがとっても上手に出来る人です。
そこにイヤラシサや卑屈さ、計算とかが全く無くて、こんなふうに人との繋がりによって生きることが出来たら、どんなにか幸せだろうな〜と思います。
吾呂さんは、どんなことにも決して「NO」を言ったことが無いそうで、 どんなことも全て受け容れて生きていて、それでいて「自分ほど幸せな人間はいない」と、とっても感謝して生きておられます。
生き方の達人!?というか、ほんとにこんなふうに生きられたら(人を愛し、人からも愛されたら)毎日がどんなにか愉しいでしょうね!
★ 藤木吾呂さんに興味を持たれた方はぜひ下記の番組をご覧ください。
☆ 週末はいらっしゃい! 154 『人との繋がりだけで生きていきたい』の巻
最後まで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
来年はもっと短く!? いや、いや、さらに長くなるかも・・・。
これからもどうぞよろしくお付き合いくださいね♪