食と世界

食と世界についての雑記 菜食・断食の勧め

 ◇教会の贖罪

2006-08-22 23:47:47 | 宗教


罪を罪だと認めた時、為すべき事が見えてくる。
「環境の事を考えてこなかったので
これからは環境を守ります。」

良心が麻痺し懺悔もできない教会は十字架を背負いキリストに付いて行く、贖罪の旅へ出る事ができていない。「イエス・キリストを贖い主として受け入れれば赦される」 …………というが……意味が分かりません。


何をしてきたのか
一つの理として、殺し合いを要求する悪魔に従事しながら平和を祈念する事は矛盾している。快楽浸りになりながら日本の治安の向上や、神の国の到来を祈る事はおかしい。極端な話、 砂糖捨てますか?平和捨てますか?の問いに「平和捨てます!」と即答してきたのが日本の教会だ。真理に気付かない者が飽食するたび社会は荒れていた。今の悲惨な日本社会は当然の帰結でもある。

若者の性の乱れに物申す! このような闘争なしに平和は守られないという事を知らなかったらしい。面倒な道を避け平和に安住して居れば、放置された悪魔達が勝利するのは必然だ。

イエス、モーセ、パウロ、ペテロらの人生を「苦」、「闘」、「癒」とすれば 日本のキリスト教が歩んできた道は「安」、「楽」、「戦」である


 

 

 

 



ごめんで済んだら神も警察も要らない
虐めた人間がいるなら相手に謝る。平和を壊したのなら構築の努力が要る。そして当然、窃盗1件の者より殺人10件の者の方が多量の贖罪が必要になる。

良心や因果を知らない者は
自分の背負っている罪に気付かずに終わるので無論天国行きなど諦めるよりない。日本の教会は正気を取り戻した時、謝るべき相手がいるのかも知れない。


当然の事ながらキリスト教では贖罪は必須である。
最後の1コドラントを支払うまで、あなたは牢から出て来られません。


 

 

 




 

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