新約聖書の半数を占めるパウロ書簡のうちパウロの真筆と一般に認められているのは7つ。残りの6つはパウロが建てた教会やその系統の諸教会を指導する目的でパウロの権威を借りて書かれた「第二パウロ書簡」として認識されている。その判断の論拠を簡単に並べてみたい。 パウロの名前で書かれた書簡(第二書簡) http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/sinyaku.html 敬虔な律法主義的ユダヤ人キリスト者から見ると、自由で解放的な異邦人キリスト者の振る舞いは問題でした。パウロ亡き後、パウロ教会・第二世代の指導者は非難に応え、教会の秩序維持と倫理の適正化をはかり、異邦人信徒の品位を高めようと、教会の回読用として、再三書簡を送ります。 『テサロニケ信徒への手紙二』 (90年代?) 『テサロニケ一』の数十年後に黙示思想の観測上の変化から現れた書簡と見られている(異論もある)。文体はパウロ似。(偽書簡を意識してか)巻末に真正を示す判を押しているが、これはパウロのどの書にも見られない。 「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます」(3:17) 『エフェソ信徒への手紙』 (80~100年頃) 文体や語彙のほか要所での主張もパウロと異なっている。短く簡潔な文を書くパウロとは対照的な長文(例:1章3節~14節が一文)が特徴。 『エフェソ』に出てくる100前後の文のうち、9つは50以上の単語から構成されている。例えば『フィリピ』に登場する102の文のうち、50以上の単語を持つ文はたった1つだ。181の文から成る『ガラテヤ』でも、同じく1つしかない。加えて『エフェソ』には、パウロの文書では見られない言葉が頻出する。その数は何と116語に上り、優に半分以上だ(例えば、ほぼ同じ長さの『フィリピ』の5割以上)。(引用:『キリスト教の創造』バート.D.アーマン著) 『コロサイ信徒への手紙』 (80年代) 『エフェソ』同様異邦人改宗者にユダヤの律法を守る必要がない事を説いている。高度な解析から、こちらも他人の筆を真似る難しさを露呈している。 ■「反意接続詞」(例えば「~にも関わらず」)の頻度 『ガラテヤ』は84回、『フィリピ』は52回、『テサロニケ1』は29回、『コロサイ』はたった8回 ■因由接続詞(例えば「なぜなら」)の頻度 『ガラテヤ』は45回、『フィリピ』は20回、『テサロニケ1』は31回、『コロサイ』はたった9回 ■名詞節に繋がる従位接続詞(例えば「~ということ」や「~の時に」)の頻度 『ガラテヤ』は20回、『フィリピ』は19回、『テサロニケ1』は11回、『コロサイ』はたった3回 (引用:同上) 『テモテ一・二』『テトス』 (2世紀) - 牧会書簡 エフェソの牧者テモテ、クレタ島の牧者テトスに宛てる形で書かれた指導書。司祭・助祭の任命法などパウロの時代になかった教会制度(階級制)を論じている。作者は同一(?)。全848語中306語がパウロの文書にないもの、加えて2世紀の関係者に常用された語句が多いという。2世紀前半のパウロ信奉者・マルキオンの正典にもこの3書が含まれておらず発生が新しい可能性がある。
『マタイ』のイエスはパリサイ派にも勝って律法を遵守しなければ神に認められないと厳しく戒めている(マタイ5:17~20)。律法を無効としたパウロの救済論がパウロの死後に現れた福音書の救済論と噛み合っていない点からも、パウロ思想が1世紀から教団の中心部に結び付いていたとは判断し難い。その上で偽名パウロ書簡などにどの程度の権威があるのか考察の余地はあろう。 画像出典: jesusneverexisted.com |