新約の四福音書は1世紀には『マタイによる』 『ルカによる』等の標題がまだない匿名の書で、厚顔無恥な偽証を企図したパウロ名書簡とは異なる“偽りの著者名を与えられた偽名書”である。 記者は恐らく使徒ではなくイエスを直接知らない、教育程度の高い都市部にいたキリスト教徒。それを裏付けるように作中田舎地方ガリラヤの地理が大きく乱れている。内容の類似性は主に先行する福音書を模写したため。 肝心のイエスの物語はご覧の通りエジプトの太陽信仰に属する物語を中心的素材に、ユダヤ的肉付けをした神話の二番煎じ。イエスの有名な説教の多くも旧約聖書の焼き直しである。 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛せよ」 (申命記6:5) 「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口より出づるすべての言葉による」 (申命記8:3) 「自分自身を愛するごとく、汝の隣人を愛せよ」 (レビ記19:18) 4世紀にローマ帝国の支配のためキリスト教が国家権力の座に着いた時、信徒は異教との結合を示すあらゆる記録の抹殺に忙しかった。悪名高いエジプトのセラピス神殿とアレクサンドリア図書館の破壊、人気女性哲学者ヒュパティアの殺害は映画の題材にもなっている。 『アレクサンドリア』 感想サイト 信者の病的な憤怒は自身が古代の世界の最終的な混合物(パクリ)である事への自覚に由来していた面もあったのだろう。暗黒の数世紀の幕開けを暗示するかのような恐喝を前に、人々は次々にキリスト教へ改宗していった。 福音書からイエス本来の人格や生活を救い出すことはもはや難しいが、殆どない新約のオリジナル部に焦点を当てることでイエスが本当は何者であったのか、人類の病は何故生まれてしまったのかを浮かび上がらせる事ができるだろう。勘の良い人は薄々気付いているように、パウロを取り除けばイエス教が世界宗教として存続できる気配は微塵もないのである。 救世主か? 新大陸を発見したコロンブスは翌年、嬉々としてカナリア諸島(北アフリカ)からサトウキビを植え付けに行ったという。 ユダヤ教で言う原罪とは間違いなく人間が私利のために盗み、貪り、怒る意地汚い性質を指すので、キリスト教史のどこを見ても「癒されている」とは判定しない。罪なる性質からの解放者として既に天の賜り物があるのに神が救世主を派遣する必要がどこにあろうか。 キリスト教に過去の横暴を問えば、それは人間の性質のみが罪深かったと言う。だが私達は人間を信じる。キリスト教の教理そのものに何か非人間的な物が紛れ込んでおりそれが生への公正さ、真剣さ、精神力を完全に消し去ってしまう。キリスト教は人間の善性への恥辱であり、人類の歴史で最悪の災害である。 画像出典: jesusneverexisted.com |