マホメットの十数年間の忍耐が実り始めていた頃、イスラム教の成長と共に メッカのクライシュ族の反発が強まっていた。身の危険を感じたマホメットは622年7月16日、メッカの北部320kmにあるメディナに避難する。 (ヒジュラ: 聖遷) その後隊商路の封鎖措置で飢餓の脅威に直面したマホメットは幾度か隊商の略奪を企て、メッカ側の怒りは沸点へ。イスラム暦(ヒジュラ暦)二年、遂に武装したクライシュ族一千人がメディナに向かって進軍を始めた。 *以下緑字は『マホメットの生涯』(ビルジル・ゲオルギウ著 中谷和男訳 河出書房新社)、白抜きは『燃えるイスラム史』から転載 バドルの戦い(624年)
イスラム教最初の武力的勝利 アラブ恒例の一騎討ちにアリー、ハムザが勝利し作戦と士気に勝るイスラム軍が奮闘する。メッカ側はそれぞれ約70名の戦死者と捕虜を出し敗走、ムスリム側の死者は14名に過ぎなかった。ハディースその他の伝承はこの圧勝に天使による加勢を伝えている。 死体を略奪しようと砂丘に身を隠していた二人の戦場荒らしは、天から雲が地に降りるのを目撃した。「砂丘にいたのですが、雲が俺たちに近付いてきたのです。馬のいななきも聞こえました。その上、突撃!という叫び声も耳にしたんだ」 雲から、武装した天使たちが降り立つ。ある者は馬にまたがり、また徒歩の天使もいた。鮮やかな羽飾りの冑をかぶり、天使の軍勢が天から降り立つのを見て、泥棒の一人は感動のあまり悶死する。 目撃者によれば、天上軍の数は五千程とのことだが、正確ではない。敵に見られることなく異教徒を斃すため天使の中には姿を現さない者もいたからだ。 ウフドの戦い(625年) 翌年、約三千人からなるメッカ軍が再来。ウフド山に迎え撃ったムスリム軍は優位に戦闘を進めるも、弓兵隊の命令違反から背後を突かれ壊走。ハムザを含む約70名の戦死者を出し、敗北を喫した。メッカ側の死者は22名。ハンダクの戦い(627年) メッカ側は次いでムスリム根絶を目指しアラビアの諸侯、ユダヤ教徒を加えた一万人の大軍と共に出陣。三千人のイスラム軍はペルシャ人技術者サルマーンの提言を採り入れ塹壕(ハンダク)を築いて対抗した。メッカ軍はアラビアの戦争において前例のない塹壕を攻略できず、6名の敵を倒しただけで撤退。この戦いでメッカの権威は失墜しイスラム教の勢力は日増しに拡大していった。 メッカ征服(630年) クライシュ族との間で締結されたフダイビーヤの休戦協定が破棄された630年、マホメットはメッカに向かって進軍を開始。クライシュ族は抗戦不可能と見て遂に軍門に下りメッカは無血で征服された。マホメットはカーバ神殿の偶像を破壊、群雄割拠の半島にアラビアの部族を熱烈な精神で鼓舞し一致させる新秩序を吹き入れる事となる。
イスラム教の大征服(632年~) 預言者の死後、イスラム教は2代目カリフ・ウマルの時代にシリア、トルコ、イラク、イラン、エジプトにまで侵攻、戦いはいずれも連戦連勝であった。3代目カリフ・ウスマーンの時代には長年ローマ帝国に対して優勢を保ったササン朝ペルシャ(226-651年)が滅亡。短期間のうちに出現したイスラム帝国(サラセン帝国)はキリスト教が欧州全体に根付く8世紀にはイベリア半島(スペイン全土)を覆い、欧州諸国にとって脅威以外の何物でもなかった。 キリスト教への警告 イエス(イーサー)を敬うべき預言者としているイスラム教のキリスト教への仲間意識は強い。しかしコーランはキリスト教の教義の中核は割とはっきり否定している。中でもローマ帝国の都合で忍び込んだ異教との習合要素への批判は厳しい。キリスト教は思い違いをし、失敗しているのである。
さらにイスラム教の信条によればアダムの罪は既に赦されている。 イエスはアッラーが処刑前に別人にすり替え(贖罪はない)、イエスを磔にする姦計は失敗していたのだ。
「災いあれ、自分の手で啓典を書き、僅かな代償を得るために、「これはアッラーから下ったものだ。」と言う者に」(コーラン2:79) 「彼らの中には、自分の舌で啓典をゆがめ、啓典にないことを啓典の一部であるかのように、あなたがたに思わせようとする一派がある。また彼らは、アッラーの御許からではないものを、「それはアッラーから来たものだ。」と言う。彼らは故意にアッラーに就いて虚偽を語る者である」(コーラン3:78)
15世紀以降この非人間的な質疑応答の下、貿易といえるものではない凄まじい略奪がイエス・キリストにちなんだ名前の宗教によって行われた。選民意識に力付けられた西洋人の頭に残念ながら異教徒・非白人は隣人・同等の人間として映っていなかったのだ。 そんな陰惨を極める人類史の中でも僅かにきらりと光った希望は、7世紀に既に迷信も程ほどにしろという啓示を受け取った怒れるキリスト教の兄弟が派生し無統制な西洋の倫理と戦いながら、地上に新しい信仰を広め人間行為の全般に渡って一つの革命をもたらした点である。 国際商業都市でそこそこ成功していたマホメットは、突如茨の道へ引きずり出され、安楽・財産・友人関係の犠牲の上に神の道具としての役割を強いられた。そして最後の預言者として使命を全うした。イスラム教ではそう考えている。 「私は私の任務を果たしたのでしょうか? おお神よ、その証をお示し下さい」 マホメット"別離の説教"から 画像借用元: The Islamic World to 1600 Islamic History 世界の国旗一覧 燃えるイスラム史 関連記事: 神々のブレンド |
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もっとも、うちよりあっちのほうが正しいんだよ、なんていうはずはないんですけどね(笑。
アラビアの詩人でも書けない最高の文体をマホメット(無学)が著したので疑り深いアラビア人にも「天啓ではないか」と考える者が増えて行ったとのこと。今も断食月の苦痛など知らず三段あごになるまで食べている強欲教には恐ろしい警告も出ようものではないかと。(笑
『もしあなたがたが、わがしもべ(マホメット)に下した啓示(コーラン)を疑うならば、それに匹敵するものを1章創ってみなさい』(コーラン2:23)
以下もイエス教の体現者はムスリムだろうとダメ出ししています。
http://www.islamreligion.com/jp/articles/489/
> こうして見てみると、イエスに追従した第一世代と現代キリスト教徒の間の実践法には、一体何があったのかという疑問が禁じ得ません。同時に我々は、むしろムスリムの方がキリスト教徒よりもイエスの教えに従っているという事実に対し、敬意を示さなければならないでしょう。
ここの主の方は唯一神教(イスラム教)が正しいとお考えなのでしょうか?(多神教とキリスト教は×?)
イスラムの戒律は遵守すべきというお立場ですか?
19世紀半ば以降、欧米諸国では奴隷制度が廃止されますが、人道主義に目覚めたのではなく単にコスト面で割に合わなくなったからに過ぎません。そして奴隷制が続いているイスラム世界を野蛮と謗るようになる。全くどの面下げて…と言いたくなりますが、自分のことを棚に上げ、異教徒を罵るのが宗教信者でしょう。
荒し行為はお詫びします。宗教に正しいのは無いと思いますよ。イスラム教が一神教なのは軍事的統率性に優れる等の理由も考えられる(イスラム=文字通りには"服従")
一神教なら以下がお勧めです。最近イスラム教とも連携できる事が判明
http://www.venganza.org/2012/06/melbourne-counter-gathering/
>(そして肩を並べて、天地創造も理解せず神も恐れない無知な無神論者に反対して、彼らはデモをしました。)
イスラム圏の奴隷貿易はまだ不勉強ですが家畜並みの扱いにしたキリスト圏よりはまずましでしょう。
病気の奴隷は「海洋へ投棄」というのも凄いが「〇年で使い物にならなくなる」も非常に気になる記述です。(栄養不良?) 奴隷制を停止させたのは主に機械化、西洋人の動機である money に過ぎませんでしたね。
http://sound.jp/sodaigomi/dorei/dorei-1.htm
> 生きたまま新大陸にたどりついた奴隷たちの労働期間はふつう六~七年で、あとは使いものにならなくなり、
イスラム教は自衛の為の3つの戦いの後で明らかに性格を変えました。
貧しい313人のバドルの戦いから6年後、フナインの戦い(630年)には12,000人を動員するまでになり、そのまま世界征服へ乗り出す始末。
マホメットもまさか自分が中世最強の軍隊を擁する国家に影響する宗教を打ちたてたとは思わなかったでしょう。しかし私には野蛮なオスマン帝国がスペイン海軍を擂り潰した、ウィーンを包囲した、ローマ帝国を滅ぼしたと聞いても「よくやった」としか思えません。
マホメット最後の説教にはもう少しまともな信念が生きていたのですけどね…
「全人類はアダムとイブの末裔です。アラブ人が非アラブ人に、非アラブ人がアラブ人に優るなどということはなく、白い者が黒い者に、また黒い者が白い者に優る、などということもありません。敬虔さと善行を除けば、誰かが誰かに優る、などということはないのです。」