たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

人の死に向かう心構え <激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>を読んで

2017-06-28 | 人の生と死、生き方

170628 人の死に向かう心構え <激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>を読んで

 

今朝はようやく梅雨らしい雨が紀ノ川沿いの当地にもやってきました。紀伊半島南端では豪雨で大変な状況が今年にはいってもあったようですが、紀伊山地の山塊は別の気象条件を作るのでしょうか。

 

ところで、梅雨に死を希望するひとはあまり聞きませんね。そんな死の時期の希望といった物騒な話はやめてと言うのかもしれませんが、西行は慕われ続けるのはさまざまな理由がありますが、その一つは桜の下での死を常々抱き続けていたからではないでしょうか。

 

桜の満開の下はいいけど、夏の盛りや凍てつく冬は嫌、まして梅雨のうっとうしい季節なんてもってのほかと内心思っている人もいるかもしれません。いや、やはり死を考えるというのは末期がんや重い心臓疾患など、重篤に至った人は別にして、普通はあまり考えないのでしょうね。

 

でも情報は次々となんらかの対応を迫っているようにも思うのです。日々さまざまの情報が発出されていますが、ときには参考にするのもどうでしょう。

 

東洋経済オンライン 激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>は、<荒川 和久 :ソロ男プロジェクト・リーダー/独身研究家>という方の調査データを基にした見解です。

 

荒川氏によれば、データを示しながら<激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>であり、<既婚者でも「妻が看取ってくれる」は大間違い>というのです。

 

データの解析は一応置いておいて、荒川氏の見解には頷くところがあります。むろん、相当数の人が家族に看取られることが普通かもしれませんが、とりわけ都会では(いや地方でも都会流出が一般化しているので同じ事かも)各家族、親戚関係がそれぞれ遠隔地で別の生活をしていて、家族の寄り合いも減ってくる、それが高齢化すると、と同時に、それぞれが介護家族を抱えたり、障がいのある子を抱えたり、さまざまな問題に時間の余裕がないと、家族の分断とまで行かなくても、孤独での生き方は一般化し、孤独死は自然に増えていくのかもしれません。

 

それを不幸と思うかはまた別でしょう。ただ、従来型の企業社会に生きてきた元戦士は、荒木氏の指摘のように<そんな中、妻だけに依存してきた夫が、その後、万が一妻と死別や離別してしまうと、虚無感に支配され、引きこもってしまうことも多いのです。普通の日常生活を営もうとする意欲や生活能力を喪失し、自己の健康・安全を損なうことを「セルフネグレクト」といいます。内閣府が2011年にまとめた調査では、そんな状態にある高齢者は全国で推計1万人以上いるとされています(内閣府経済社会総合研究所「セルフネグレクト状態にある高齢者に関する調査」)。>となるのもやむを得ないかもしれません。

 

それは企業家族として、家族を、地域を、あるいは社会を無視ないし軽視してきた結果でしょうから、そのままだと、セルフネグレクトは気の毒ですが自業自得かもしれません。他人や、社会、行政に文句をいう話ではないでしょう。

 

荒木氏が最後に指摘する<人は皆死にます。どういうふうに死ぬかはわかりません。重要なのは、「どう死ぬか」ではなく「どう生きるか」のほうです。未婚も既婚も関係ありません。誰もがソロになるという認識と覚悟を抱いて、若いうちから生きるうえでの自分のネットワークをつくり続けていくことが必要です。>という、とっくの昔からいいつくされてきたことは、いまより切実な問題になっているのかもしれません。

 

強いて言えば、ソロとして死を迎えないために結婚するといった考えが正鵠を得たものではないという点は、新しい切り口かもしれません。

 

既婚者でもお互いがよりよいパートナーとして最後を迎えることができるのは、たとえば、それぞれが独自に、あるいは共同して、さまざまなネットワークとつながり、現代的なさまざまな媒体を通して空間的・垂直的な共同体を形成できている人ほど、ソロの不安なんかは雲散霧消するのではないでしょうか。

 

他方で、荒木氏の言葉とは違った意味で、人は空海の言うように、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」ではないかと思うので、そこに至る心構え、人生の処し方を、できるだけ早い段階から、生活の有り様を考えていく必要があると思うのが私の考えです。


怒りの処し方と人格 <豊田議員 ・・細田氏「暴言、原因は高速逆走」>を読んで

2017-06-28 | 人間力

170628 怒りの処し方と人格 <豊田議員 ・・細田氏「暴言、原因は高速逆走」>を読んで

 

今朝は目覚めが悪く、雨音を遠くでぼんやりと感じるようになり、目覚めました。

 

降る音や耳もすう成る梅の雨 芭蕉 「続山の井」

 

なぜ「梅の」雨なんでしょうかね。文才のない身にはただ、瓦屋根と白壁土蔵が夜話かな雨に打たれる様子に、ただ感動です。そしていろいろな花や緑がとても鮮やかで、雨の季節というか、雨に打たれる景観美を堪能できる幸せを感じます。

 

ところで、毎日記事・ウェブ情報その他を見ると、なんか釈然としない気分になり、他方で取り上げたくなる記事もあまり多すぎて、さてどれからはじめてどこまで取り上げるか、今日は午後和歌山行きなのと、いろいろ相談事項が溜まりつつあるので、その範囲で、かんけつに、優先順位もなく書けるだけ書いてみようかと思います。

 

これが一番にとりあげる問題といった優先性はないのですが、とりあえず、<豊田真由子衆院議員自民・細田氏「暴言、原因は高速逆走」>での細田氏の見解は、釈然としませんでした。

 

むろん最近の、与党議員や昨日でした稲田防衛省の発言など、次々と噴出するマグマのような言動は問題だと思いますが、すぐに発言をもんだいにして、その辞職や選任責任追及を求めるだけの議論が横行するのもどうかと思っています。

 

とはいえ、豊田議員の発言は衆議院議員の人格、品格にも疑問を呈するような問題ですので、その釈明について派閥の主である細田氏の立場もわかりますが、疑問を感じるので一言。

 

<自民党の細田博之総務会長は27日の記者会見で、政策秘書に対する暴行問題で離党届を提出した豊田真由子衆院議員が「高速道路の逆走が原因」と語っていることを明らかにした。>うえ、<細田氏によると、秘書が豊田氏を乗せて高速道路を運転中に出口を間違え、逆走しようとしたのが発端。

 「人の命をなんだと思っているんだ。高速道路を逆走したら人は死ぬじゃないか」と怒った豊田氏に秘書が「すいません」と謝ったため、「人が死んでもすいませんで済むのか」とさらに詰問したという。>

 

事件の断片的な内容で問題の責任を云々するのはどうかと思いますが、たしかに録音テープが事件の発端から最後まで継ぎ接ぎなく再生されているのかわかりません。秘書が、あるいは発表した人が適当に編集したものかもしれません。そういう点は今後検討すべきとしても、細田氏のように秘書の逆走が発端だというのも、弁解としてはあまり説得力を感じないばかりか、かえって疑問を抱きます。

 

この発言を聞いて、映画「夜霧のマンハッタン」(原題:Legal Eagles)の一場面をおもいだしました。ロバートレッドフォード主演の検事補が、デブラ・ウィンガーが演じる画家の娘で弁護士を助手席に乗せて、高級絵画窃盗事件に関係する人物を車で追尾していたときだったと思いますが、デブラがあれこれ横で車の運転にちゃちゃをいれるんですね。たまりかねたロバートが怒って自分で運転しろというのです。

 

だれでも経験があると思いますが、高層道路の降り口を間違ったり、信号で曲がるべきところを間違って進行したりといったことは時折あることですが、そのとき同乗者から言葉で言われたり、嫌な態度をされれば、気分はいいものではありません。レッドフォードとウィンガーの場合は同等の立場ですから、お互いまだ議論ができます。

 

豊田議員と政策秘書の場合は、普通は反論できない立場でしょう。あのテープに撮られた言動、立て続けに人格攻撃をする態度、旋律を覚えるものです。むろん高速道路を逆行するといった危険きわまりない運転をした秘書に問題はあります。でも普通では、高速道路の降り口を間違えたら、次の降り口で降りればいいのですから、あえて危険な選択をするとは考えにくいのです。その適切な判断すらできないほど日常的に追い込まれていた可能性を感じるのです。

 

電通の優秀な女性の長時間労働というパワハラの結果として自死に陥った例、研修医として月間200時間に近い過重労働を強いられていた人の自死など、まともな判断ができない状況に追い込んでいた疑いを抱かざるを得ないのです。それが晴れないと、細田氏の見解は上っ面だけ見て本派閥議員と秘書との関係を糊塗することに荷担しているとの疑いを払拭できないように思います。

 

上司的立場、監督的立場の人間の発言は、とりわけ注意が必要です。使われる側の政策秘書の捨て身の一撃すら、なかったかのようにする危険があります。それは内部情報通報制度など、民主制やコンプライアンスといった制度を生きた効果的なものにするには、是非ともその充実が必要なのに、安易に他方当事者の意見の代弁という形で説明するのは疑問があります。

 

この件は、まだ続くと思いますので、また取り上げたいと思います。


多様なシェア利用 <ホームシェア 個々尊重、異世代で共に>などを読んで

2017-06-27 | 人の生と死、生き方

170627 多様なシェア利用 <ホームシェア 個々尊重、異世代で共に>などを読んで

 

昨夜BS3だったかで途中から見た映画『奇跡のシンフォニー』は次第にそれぞれの人物の描写の不思議な魅力に見入ってしまい、最後まで見てしまいました。

 

アメリカ映画では両親のいない施設(孤児院との訳もありますが、児童養護施設のようなものがないのでしょうかね)で育った子どもの物語が結構、多いように思うのです。フレデイ・ハイモアが演じる主人公は施設を飛び出て、どこの誰かもわからない両親を探す旅というか、しっかりした信念をもって探すのです。

 

絶対音感を生来的にもつ少年として、誰もが驚くほどの音楽才能を発揮するのです。彼は自らに秘められた音楽の才能が大勢に知られることで両親に会えると確信しているのです。父はギタリストでもあるミュージシャンで、母はチェロ奏者、いずれも子を失った事による影響か、分かれていて、音楽と異なる道を歩いていました(最初の30分あまりを見ていないのでよくわかりません)。

 

それが次第に父も母も再び楽器をとり音楽に引き寄せられ、そして子は初めて音符を見た瞬間にモーツアルトもびっくりするような交響曲を作曲して、指揮まで任されるのです。そしてNYのセンタらルパーク野外演奏会に、3人が引き寄せられるようにして演奏中に再会を果たすのです。なにか興奮してしばらく眠れず、今朝は目覚めは6時でした。ルーティンワークに遅れるほどではないですが、ときに感情の揺れもあっていいかと思ってしまいます。

 

さて、打合せや慣れない法務局対応などで、終わったらもう5時過ぎでした。新聞ではフレデイ少年(現在はもう25歳とか)のような素直そうな少年棋士、藤井四段が29連勝したことで、毎日朝刊は随所にこのニュースを取り上げています。たしかに異例中の異例なことですね。私も子どもの頃へぼ将棋を楽しみましたが、研修中に覚えた囲碁ほど熱中することもなく、とっくに忘れてしまい、また、世の中もあまり将棋を話題にすることがなかったように思いますが、超天才が現れた、しかもその姿勢・態度はお見事というほどの礼を備え、と強烈な闘争心は内に秘めて、まるで昔の武士道を体現するかのようなすごさに魅入られされます。

 

でも最近、スポーツの世界でも13歳とか14歳とかにすごい選手が続々現れていますね。年齢ではないかもしれません。過ごし方、その集中の仕方の違いもあるでしょう。むろん生来の能力もあるでしょうけど。モーツアルトのような人材、それに近い存在をあこがれるのも人の常かもしれません。

 

さて、この辺で今日の本題に入ります。毎日記事は<住・LIVING ホームシェア 個々尊重、異世代で共に>として、独居老人の問題と若者の劣悪な住環境の問題を「ホームハウス」という新しい方法で、いまはマイナーな世界で復活しそうな?アウフヘーベンしようとしている取り組みを紹介しています。

 

<高齢者の自宅にある空き部屋を、学生が間借りする「異世代ホームシェア」が広がっている。お年寄りは体調悪化のような独居の不安を解消し、学生は学校の近くに住み、家賃を安く済ませることができる。51歳の年齢差ペアのお宅を訪ねた。>

 

51歳離れた二人の会話は穏やかに成立しています。<「音読はうるさくないですか」。6月14日午後、東京都練馬区の一軒家。石山資(たすく)さん(24)がリビングのテーブルで向かい合った宮本幸一さん(75)に問いかけた。血縁のない宮本さん宅で暮らして2カ月。週に数回、一緒に食事をしたりお茶を飲んだりする機会に、学習のスタイルが迷惑をかけていないか聞いてみた。>

 

<同居までの流れはこうだ。シニアや学生が参加を希望すると、リブ&リブが面談や書類審査を開始。シニアの自宅を訪問して共用スペースや学生用の個室を確認し、性格や習慣などを参考にペアを組み合わせていく。細かい同居のルールはシニアと学生が話し合って決め、始めて1カ月間はパートナーを変更できる。

 シニア、学生とも入会金が2万円、会費は月3000円かかる。また学生は生活費の一部として、シニアに月2万円を支払う。リブ&リブのフォローは手厚く、毎月1回は双方に個別で面談。同居の悩みや不満を聞き出し、すぐに解決に動く。発足から4年間で12組が同居した。>

 

たしかに東京の家賃は高くて、親の負担を考えると学生としては個室のあるゆったりしたスペースを借りることは厳しいでしょう。他方で、何部屋もある家に高齢者が一人暮らしをしていて、話す相手もいなければ、外出も遠のき体力が落ち、いつ認知症なり転倒して重症を負うかもしれませんが、そのとき症状が悪化しても放置される危険があるかもしれません。

 

このホームシェアが一挙両得の一面があることは確かでしょう。見ず知らずの世代の違う二人が一つ屋根の下で暮らすのは、簡単ではないでしょうが、段階を踏んだり、事前の調査なりをしっかりすれば、なんとかなるように思うのです。

 

私はカナダで暮らしたとき、一軒目は高齢の女性宅、二軒目は中年の夫婦宅でしたが、お互いのプライバシーに配慮しつつ、一緒に旅行に出かけたりして、結構楽しい時間を過ごすことができました。これはいわゆるホームステイ的なものでしたが、二軒目は知り合いになった大学教授が紹介してくれたことも多少影響があったかもしれません。

 

わが国でも、建物の利用の仕方として、さまざまなシェアのあり方が考えられてもよいと思いますし、ホームシェアリングなんて、とてもすばらしいことだと思うのです。とくにわが国の男性陣は家事が苦手というか、奥さんに任せ放しでいる人が少なくない結果、奥さんがいなくなると、てんてこ舞い、あるいはゴミ屋敷なりの危険が迫っているかもしれません。

 

そこに他人が入ると、いくらなんでも家の中の整理をしないといけないと思うでしょうし、それは男性に限らず、女性でも、他人が一つ屋根の下にいれば、やはりいい加減な家事はできないでしょう。元気の源にもなりそうです。

 

ただ、お互い知らない関係ですから、節度をわきまえたり、ローカルルールをしっかり打ち立てておかないと、気まずくなり、平和が簡単に崩れるおそれもあるでしょう。

 

とはいえ、元々都会の長屋が庶民の生活空間だった時代が長かったのですから、日本人のDNAとしては、十分やっていけるのではと期待しています。

 

もう一つのシェアの話も簡単に取り上げます。<くらしナビ・ライフスタイル母子家庭にシェアハウス>は、かなり深刻な母子のための臨時的なシステムというか、利用形態でしょうか。

 

DVなどで離婚したいと思いながら、幼い子を連れて家を出るには資金もなく、また家庭に入っていたりすると、仕事もない収入もないということで、逃げていく場がないという問題を抱えている人は少なくないでしょう。江戸時代の鎌倉・東慶寺的な救済措置はいろいろはかられていますが、間に合っていない状況ですね。

 

その意味では、多様な形でシェアハウスの提供が、そういった母子のひとときの安息の場所になるといいなとは思います。ただ、そういった不幸な生活をしのいできた母子といってもいろいろで、そのような母子ばかりがうまく共同生活をするには、ハウス運営者による相当きめ細かい配慮が必要ではないでしょうか。経済的にも運営していくのは大変でしょうから、公的支援や民間支援も、こういう情報を通じて集められるといいのですが。

 

今日はこの辺で終わりとします。


医師と倫理 <医療事故 頻発医師27人、日医が指導・勧告 13~16年度>を読んで

2017-06-26 | 医療・介護・後見

170626 医師と倫理 <医療事故 頻発医師27人、日医が指導・勧告 13~16年度>を読んで

 

最近は早朝の読書(といっても一時間くらいですが)が楽しみになってきました。私の関心事、紀ノ川の歴史的な変遷、流域の土地利用、そこに生きる百姓(農民を含めた多様な職業者)の生き様など、わずかながら文献を読み解くにつれ、おぼろげながら見えてきたりするものがあります。近世では有吉佐和子著助左衛門四代記 』はさすがという内容です。渡辺尚志著『百姓たちの水資源戦争』は河内南部(石川と大和川の合流地点付近)の近世水利戦争を扱っていますが、現代アメリカの水戦争には劣りますが、18世紀の百姓にみる合理的な主張立証の戦略を訴訟等を通じて明らかにしています。

 

で、いろいろ乱読していると面白いのは先日援用した木下晴一著『古代日本の河川灌漑』が取り扱っている中で、ほぼ似通った地域の古代版を取り上げていて、比較するのに面白いのです。前者は水利権論的なアプローチですが、後者は河川工学や技術論的なアプローチが中心で、多面的な理解が可能になります。

 

そういえば、皇太子殿下(一応敬称を付しておきます)がコペンハーゲン訪問中、地元の人と一緒に「自撮り」をしたということで、話題になっていますが、皇太子もまもなく天皇になるわけで、自らの象徴天皇像を体現しようとしているのかな、なんて勝手な推測までしてしまいます。

 

しかし、皇太子は、戦後の人間宣言した象徴天皇制を、今上天皇・皇后の日々の姿を見てきたわけで、元々自分の考えをできるだけ体現してきたのかもしれません。といって皇太子の行動に関心があるわけではないので、とくに知っているわけではありませんが、紀ノ川との関係で言えば、皇太子が国連などで水をめぐる研究成果を発表していますが、平成2711月には「人と水とのより良い関わりを求めて」というタイトルで、紀伊国(現在の和歌山県北部)に成立した桛田荘(かせだのしょう)の絵図などを示しながら、ため池灌漑だけに頼っていた時代から紀ノ川支流の静川からの灌漑用水を利用していく展開を示して、水路ネットワークの話をされています。そして皇太子は実際、その灌漑用水を見聞するため、以前私が紹介した宝来山神社まで訪れています。皇太子の長年にわたる国連でのスピーチは一貫しており、その確固たる姿勢は、将来の象徴天皇像に新たな一ページを飾るにふさわしいものになることを期待しています。

 

と長々と前座が続いてしまいました。本論は軽くしたいと思います。

 

毎日朝刊大阪版は一面トップに<医療事故頻発医師27人、日医が指導・勧告 13~16年度>を掲載しています。それほど重大なことかといぶかしむ人もいるかもしれません。

 

しかし、事はやはり重大です。<日本医師会(日医)が、医療ミスや不適切な医療行為を繰り返していたとして、2013~16年度の4年間で医師27人に再発防止を指導・勧告していたことが、25日分かった。日医会員が医療事故に備えて加入する保険の支払い請求が多いケースについて、治療経過などを調べて判定した。>というのです。

 

この記事を見て驚いたのは、<医療ミスや不適切な医療行為を繰り返していた>ことが放置されていたということ、それに対する措置が<4年間で医師27人に再発防止を指導・勧告>で終わっているということです。

 

医療ミスは一回でもやれば大変な事です。それを繰り返すことを放置してきたことになります。それでは監督主体として日医は適切な体制がとれていないことにならないのでしょうか。

 

このリピーターについて、<ミスを繰り返す医師は「リピーター」と呼ばれ、重大な医療事故が相次いだ1999年ごろからたびたび問題視されてきた。昨年12月には、愛媛県内の産婦人科医院で05年以降に死亡3件を含む6件の重大事故が起きていたことが発覚し、県が立ち入り検査した。>ということですから、行政もお粗末な状況ですね。

 

そもそも<リピーター医師を見つけ出す国の仕組みはなく、15年10月に始まった「予期せぬ死亡」を第三者機関に届け出る医療事故調査制度でも、把握できない。>ということで、医師は信頼できるという前提に制度ができあがっていますが、現実離れしているといえないでしょうか。

 

<対象となった医師は、地元の医師会から、重い順に▽指導▽改善勧告▽厳重注意--のいずれかを受ける。東京都医師会はこれまでに3件の指導をし、幹部が事故の経緯を聞き取った上で、危険性の高い手術を今後行わないと誓約する書面を提出させるなどしたという。>

 

これでほんとに大丈夫といいたくなりますが、医療事故訴訟を手がけてきた立場からの一面的な見方でしょうか。

 

一緒にしては申し訳ないですが、弁護士も昔は自由と正義を担う信頼される存在と言った建前?からか、弁護士法に基づき懲戒制度があり、依頼者などからの申立により懲戒処分を行ってきましたが、手ぬるい、迅速な対応ができていないなど批判があがり、最近はかなりスピードアップして、懲戒処分を受ける弁護士も相当数になってきています。毎月送られてくる日弁連の「自由と正義」でよく見るのはその欄です。名前の知っている人も時に出ていて、その懲戒事案の概要もわかるので、他山の石にしています。

 

弁護士の場合、問題があれば、懲戒申し出制度があるので、依頼者などの主観的な思いからでも申立を受け付けるので、申し立てられた弁護士は大変です。そして最近は驚くほど、弁護士倫理の基準が厳しくなってきました。いずれも弁護士にとっては結構な負担となりますが、襟を正すためにはやむをえないでしょう。弁護士が増えてきて、信じられないような不祥事というか、ミスというか、適切さを欠いたというか、さまざまな問題を起こしているのですから。

 

では医師の場合は、そういう制度がなくてよいのでしょうか。医師の倫理観にゆだねることでよいのでしょうか。

 

かなり昔のウェブ情報<日医「医の倫理シンポジウム」報告>があり、西欧諸国では医師に対する倫理基準あるいは懲戒的な制度が確立しているようです。15年も前の議論ですが、事態は進展していないようです。そういう意味で毎日記事は十分意味のあるものと思います。

 

いろいろ話題があったのですが、少々疲れてきましたので、今日はこの辺で終わりにします。


出産の痛みをなくす是非 <無痛分娩 リスクも考慮を>などを読んで

2017-06-25 | 医療・介護・後見

170625 出産の痛みをなくす是非 <無痛分娩 リスクも考慮を>などを読んで

 

今朝は中景にある丘の向こうに薄もやがかかり、高野の連峰は隠れていました。日が昇ったと思われる頃から次第に靄が薄れ、最初は紀ノ川南岸に迫る国城山など低層の山が薄もやの先に鮮やかに現れてきました。次第に高野の峰々もうっすらとですが遠望できるようになりました。このくらいのおぼろげな姿もまたいいです。

 

そして昨日買った花の苗と取り替えして持ち帰った事務所の花を、今朝は植えました。土壌がほとんど形成されていないので、堆肥を含んだものをだいぶ投入して、元気になってくれないかなと思いつつ花植をしました。農薬や化学肥料は禁忌?です。できるだけ自然に近い状態で育てようと思っています。ほんとは野草を育てたいのですが、まだその能力がないので、ま、腕試しみたいなものでしょうか。農薬などの副作用というか環境への影響は、レイチェル・カーソンが指摘して以来、わが国でも次第に意識が高まっていますが、消費者としての意識はあっても、自分が作物に関わるようになると、よく育ってもらいたいという気持ちが勝ってしまう人もいるでしょう。

 

さて、今日の話題ですが、見出しの無痛分娩について、出産の痛みとどう向き合うかという観点で、少し考えてみたいと思います。

 

私自身は、仕事上、四半世紀前くらいに、陣痛促進剤を投与された事例で赤ん坊が脳性マヒとなった事案を2件くらい担当したことがあります。当時、(その後もでしょうか)かなり同種事件が起こっていて、証拠保全して、ある産婦人科教授から意見をいただき、早期に医師の責任を認める和解が成立しました。その後カナダに留学したこともあって、医療事件もその後は一件を除きやらなかったこともあって、あまり事件そのものの記憶がありません。

 

その事件で感じたのは、陣痛促進剤(子宮収縮剤と類似しているようですが同じではないようです)を利用する目的として、医師はいつ何時、出産が始まるかわからない、それもどのくらいかかるかわからない、そのため24時間いつでも待機している必要があり、それはかなりきつい、自由が制約された状態への対応といった要請があったのではないかと記憶しています。医師は医療行為だけでなく、学会や医師会など多様な業務をこなしていかないといけませんが、出産期の妊婦が大勢入院していると身動きがとれないかもしれません。他方で、妊婦側も予定日どおりでないと不安なったり、出産がスムーズにいかないと心配にあるといった、双方のニーズもあったのでしょうか。

 

ところが実際はさまざまな理由で使われていたようです。そして分娩監視装置でしっかり妊婦の状態を監視していないといけないのに、血圧の異常な低下があっても、看護師が見過ごしたり、あるいは医師がどこかへでかけていなかったりで、その状態の悪化に適切に対応しないケースが、訴訟提起されていたように思います。

 

で、毎日朝刊の<ぷらすアルファ無痛分娩 リスクも考慮を>では、出産の痛みを緩和するために、局所麻酔をする、無痛分娩を取り上げています。

 

出産の方法については、自分の子どもの出産に際して、少し勉強しましたが、ほとんど忘れてしまいました。やはり男は無責任と言われても仕方がないかもしれません(いや、これは私のような男という限定付きですが)。私自身は、出産は自然がいいと思っていますし、痛みは仕方がないものと思っていましたが、やはり付き添っているとその大変さが肌で感じます。生まれてくるまで、不安ですし、痛みを訴える様子はこちらも耐えがたいほどです。

 

その点では、出産の痛みを緩和する無痛分娩という方法は、魅力的です。しかし、局所麻酔と言っても、<無痛分娩の方法として国内で主流となっている「硬膜外鎮痛法(硬膜外無痛分娩)」では、麻酔薬を用いてこの痛みが脳に伝わるのをブロックする。>というのですから、場所が場所だけにとてもリスクが大きいと感じてしまいます。

 

<「陣痛」と呼ばれる出産の際の痛みには、赤ちゃんを体外に出そうと子宮が収縮して起こる痛みと膣(ちつ)周辺が広がることで起こる痛みがある。>と2つの痛みがあるようですが、このブロックで2つに効くということでしょうか。脳への伝達を遮断すれば両者に効くんでしょうかね。

 

しかし、<硬膜外無痛分娩は、麻酔薬注入の際に誤って脊髄(せきずい)液の入っている袋の中や血管の中に麻酔薬注入用の細い管が入ってしまうことがある。それに気づかず、そのまま一度に大量の麻酔薬を注入してしまうと、麻酔薬が強く効き過ぎたり全身麻酔のような効果が出たりして、母親が意識を失う危険がある。>というのですから、やはり不安になりますね。

 

医師側にとっても、麻酔薬の注入による変化をしっかり見ながらその量を加減して続ける必要があるわけですから、普通の出産以上に、高度の注意義務が課せられるでしょう。それを流行だからと言って、きちんとした専門的知見や訓練をせずに施行してもらっては困りますね。困るではなくあってはならないことですね。

 

<実際の硬膜外無痛分娩では、陣痛が始まって子宮口が数センチ開いた頃、分娩台の上で横たわるか座った状態になった妊婦の腰付近から、脊髄を包む「硬膜」の外側に細い管を入れ、その後麻酔薬の注入を始める。薬の注入は、お産が終わるまで続けられる。>というのですから、大変な緊張の中で実施するのですね。

 

<作業は麻酔科医が担うこともあれば、麻酔科医が常駐していない施設では産科医が実施する場合もある。>というのですが、麻酔科医は通常、膨大な数の麻酔経験をもち、硬膜外鎮痛の効果もよく理解している人が一般でしょうけど、産科医でもできるということでよいのでしょうか。この無痛分娩についてガイドラインすらまだないということですので、安心して利用できるように対応すべきではないでしょうか。

 

他方で、里大病院周産母子成育医療センター産科麻酔部門の<奥富医師によると、無痛分娩のメリットは、痛みを和らげることで母親がパニックに陥らず、落ち着いて出産を経験できること▽痛みによる体の緊張が少なく、産後の体力回復が早いと考えられること--だ。母体の呼吸が安定して、出産時に赤ちゃんへの酸素供給量が増えるという研究結果もある。>

 

そして驚くのは、<厚生労働省研究班の調査によると、無痛分娩の実施率は、日本国内で推計2・6%なのに対し、フランスでは約80%、アメリカでも約60%と高い。>とわが国では昔ながらの我慢強い母親像や、産みの苦しみという刷り込まれた意識が影響しているのかもしれません。

 

むろんは私は、薬に頼らず、痛みに耐えて子を産む母親の姿に自然の美を感じますが、痛みを怖がって子を産まないとか、痛みでパニックになって赤子の健康に悪い影響を与える不安があれば、このような対応も選択肢となってもいいように思うのです。

 

ただ、きちんとした知見・技術・経験を持つ専門医が一定のガイドラインに従って行うことがリスク回避のために必要でしょう。

 

そうでないと、不幸な結果が発生し、場合によっては<無痛分娩訴訟また1件 京田辺の医院相手取り 地裁 /京都>といった事件になりかねません。

 

過去繰り返した過ちともいうべき<連載薬害事件ファイル⑥陣痛促進剤(子宮収縮薬)>は、避けてほしいものです。

 

生命の誕生はまさに神秘の世界でしょう。人為による介入で奇跡的な生命誕生を不幸な結果にならないよう、最大の注意を払ってもらいたいものです。

 

今日はこの辺で終わりとします。