170628 人の死に向かう心構え <激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>を読んで
今朝はようやく梅雨らしい雨が紀ノ川沿いの当地にもやってきました。紀伊半島南端では豪雨で大変な状況が今年にはいってもあったようですが、紀伊山地の山塊は別の気象条件を作るのでしょうか。
ところで、梅雨に死を希望するひとはあまり聞きませんね。そんな死の時期の希望といった物騒な話はやめてと言うのかもしれませんが、西行は慕われ続けるのはさまざまな理由がありますが、その一つは桜の下での死を常々抱き続けていたからではないでしょうか。
桜の満開の下はいいけど、夏の盛りや凍てつく冬は嫌、まして梅雨のうっとうしい季節なんてもってのほかと内心思っている人もいるかもしれません。いや、やはり死を考えるというのは末期がんや重い心臓疾患など、重篤に至った人は別にして、普通はあまり考えないのでしょうね。
でも情報は次々となんらかの対応を迫っているようにも思うのです。日々さまざまの情報が発出されていますが、ときには参考にするのもどうでしょう。
<東洋経済オンライン 激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>は、<荒川 和久 :ソロ男プロジェクト・リーダー/独身研究家>という方の調査データを基にした見解です。
荒川氏によれば、データを示しながら<激増の高齢者孤独死は「7割が男」という現実>であり、<既婚者でも「妻が看取ってくれる」は大間違い>というのです。
データの解析は一応置いておいて、荒川氏の見解には頷くところがあります。むろん、相当数の人が家族に看取られることが普通かもしれませんが、とりわけ都会では(いや地方でも都会流出が一般化しているので同じ事かも)各家族、親戚関係がそれぞれ遠隔地で別の生活をしていて、家族の寄り合いも減ってくる、それが高齢化すると、と同時に、それぞれが介護家族を抱えたり、障がいのある子を抱えたり、さまざまな問題に時間の余裕がないと、家族の分断とまで行かなくても、孤独での生き方は一般化し、孤独死は自然に増えていくのかもしれません。
それを不幸と思うかはまた別でしょう。ただ、従来型の企業社会に生きてきた元戦士は、荒木氏の指摘のように<そんな中、妻だけに依存してきた夫が、その後、万が一妻と死別や離別してしまうと、虚無感に支配され、引きこもってしまうことも多いのです。普通の日常生活を営もうとする意欲や生活能力を喪失し、自己の健康・安全を損なうことを「セルフネグレクト」といいます。内閣府が2011年にまとめた調査では、そんな状態にある高齢者は全国で推計1万人以上いるとされています(内閣府経済社会総合研究所「セルフネグレクト状態にある高齢者に関する調査」)。>となるのもやむを得ないかもしれません。
それは企業家族として、家族を、地域を、あるいは社会を無視ないし軽視してきた結果でしょうから、そのままだと、セルフネグレクトは気の毒ですが自業自得かもしれません。他人や、社会、行政に文句をいう話ではないでしょう。
荒木氏が最後に指摘する<人は皆死にます。どういうふうに死ぬかはわかりません。重要なのは、「どう死ぬか」ではなく「どう生きるか」のほうです。未婚も既婚も関係ありません。誰もがソロになるという認識と覚悟を抱いて、若いうちから生きるうえでの自分のネットワークをつくり続けていくことが必要です。>という、とっくの昔からいいつくされてきたことは、いまより切実な問題になっているのかもしれません。
強いて言えば、ソロとして死を迎えないために結婚するといった考えが正鵠を得たものではないという点は、新しい切り口かもしれません。
既婚者でもお互いがよりよいパートナーとして最後を迎えることができるのは、たとえば、それぞれが独自に、あるいは共同して、さまざまなネットワークとつながり、現代的なさまざまな媒体を通して空間的・垂直的な共同体を形成できている人ほど、ソロの不安なんかは雲散霧消するのではないでしょうか。
他方で、荒木氏の言葉とは違った意味で、人は空海の言うように、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」ではないかと思うので、そこに至る心構え、人生の処し方を、できるだけ早い段階から、生活の有り様を考えていく必要があると思うのが私の考えです。