170624 大畑才蔵考その6 <木下晴一著『古代日本の河川灌漑』>の視点から見直してみる
今日は土曜日、やはり少し気分にゆとりがあります。目覚めはいつものように夜明け前。早暁の明るさで読書して、FMクラシックを聴きながら朝食を済まして、花に水やりまではいつもと同じです。
それからわずかな時間ですが、ベランダから高野の山々を望みながら、デミタスで飲む味わいのある香りを楽しむのが私の優雅なひとときです。ウグイスのさえずりが麗しい音色に聞こえてしまうと言うのは少し大げさですが。
今日も花の苗を仕入れて、事務所の花をほぼ総入れ替えしました。少々疲れてきた花たちはわが家の庭で自然の雨風に打たれつつも、自分にあった土壌だと、再び元気を取り戻します。
さて、本日のテーマは最近、話題にしていなかった才蔵考の続きを少しやってみようかと思います。早朝一時間くらい読むのは平行して読んでいる20冊くらいのどれかで、あまり継続性がありません。<木下晴一著『古代日本の河川灌漑』>はなかなか手強い内容ですので、毎朝の寝床リーディングで相手できません。デミタスのコーヒーを啜りながら、リクライニングの椅子にすわって読んでいます。
本書は歴史学、地理学、考古学のこれまでの成果に加えて最近の研究結果を取り入れながら、大胆に河川灌漑を古代、といっても古墳時代初期くらいにまで遡れることを論証しようとしているかと思います。私自身、なかなか読み切れていないのでが、断片的な理解でとりあえず本書を基に今日の話題を展開していこうかと思っています。
それ自体も興味深いですが、私にとっては大河川灌漑がいつから始まったのか、その取り入れ口を含む取水堰の構造・形態などはどうだったのかに関心があります。とりわけ紀ノ川です。
というのは、大畑才蔵が天才的な農業土木の先駆者であることは私も異論がないのですが、その評価の中には疑問を差し挟みたくなるものもあります。たとえば治水の神様とか、紀州流の祖であるとか、あるいは利水について優れた才能を発揮したことは確かですが、それは灌漑技術において歴史的に見てどのように評価が公正なのかをもう少し明確にしてみたいと思っていました。
治水については、たとえばウィキペディアでは<才蔵は、後に紀州流[注釈 1]を開発し、既にすぐれた測量技術や土木工法を習得していた。>と評しつつ、利水工事については具体的に言及しながら、治水工事については一切具体的な言及がありません。
それは研究者の論文でもあったかと思います。いますぐに引用できないので、別の機会にしたいと思います。とりあえずウィキペディアの見解に近いものはほかのウェブ情報でもあります。紀州流という治水技法として関東流と対比して論じられることが一般です。で、<上方流れを源流としたもので、堤防の強化と直線的に海に洪水流を早く流し、曲流部の旧河床や氾濫原を新田開発する一石二鳥の工法であった。とくに強固な二段に固めた連続堤防の構築が重要な技術として用いられた河川技術(才蔵日記より)>と注釈がされています。
ウィキペディアでは、才蔵日記に「強固な二段に固めた連続堤防の構築」に触れた部分があったとされているような書き方となっていますが、私がこれまで読んだ中では見当たりませんでした。というか、才蔵の残した古文書の中には堤防視察などを記載した部分もありますが、河川の治水対策として連続堤防といった構造物を築造するといったことに言及するものは見当たらないのではないかと思っています。才蔵は、ため池の堤防については相当繰り返し詳細に言及していますが、河川堤防については疑問です。
上司であり、技術的には弟子ではないかとも言われる井澤弥惣兵衛為永が、吉宗が徳川将軍に就任するにあたり、江戸に呼び寄せられ、見沼用水など多くの灌漑事業だけでなく治水事業をも行ったことから、それを紀州流というのかもしれませんが、そこで指摘されている航法を使った施工例を私はまだ知りません。
では利水についてですが、紀ノ川という大河川での灌漑事業を行ったことから、私はそれまでの小河川灌漑や、ため池灌漑の歴史を塗り替えたのではないかと、一時はかんがえていましたが、それも戦国期や江戸時代初期の段階で、相当な規模の河川での灌漑事業があったようですので(これがまだ確認できていません)、18世紀初頭に行った才蔵の灌漑事業が革新的なもので白眉だとまでいえないように思うようになっていました。
そんなとき、見出しの文献が紀ノ川における古代の灌漑実例を示してくれただけでなく、その後の河川灌漑における取水堰・取水構造を明らかにしてくれたのです。
現在、紀ノ川には多くの取水堰が作られています。そのうち才蔵が開発に関与したのが上流から小田井堰、藤崎井堰、六箇井堰ですが、現在六箇井堰はいくつかの井堰と統合して岩出統合井堰となっています。でその岩出統合井堰のある船戸という紀ノ川南岸には、宮井用水というのが南岸の平坦な平野部分を流れて、和歌山市内まで通っています。
その宮井用水が、木下氏によれば、古墳時代に遡ることができるというのです。この宮井用水の起源が条里地割施工時に遡ることは間違いないとされています。そしてこの用水が潤す水田地帯の南にある山麓には和歌山県最大の古墳群、岩橋千塚古墳群があり、それぞれは小規模な集合ですが類例を見ないほどです。木下氏はその古墳群の造営基盤となったと見ているのです。
たしかに流路延長が28km、灌漑面積は千町歩を超える一大用水です。それだけの大灌漑用水路であり、そのような大規模工事を成し遂げるだけの権力統合があった可能性は頷けます。そして紀伊国の一宮であり、国家的崇敬の対象であった日前宮および国懸社は、宮井用水の音浦樋がその東600mにあり、両社が灌漑用水を地域農耕神として存在していたとも指摘されています。
要するに、紀ノ川という大河川灌漑用水としては、すでに古墳時代に開発されていた可能性が十分にうかがえるのです。
では才蔵の大河川灌漑事業はさほどのものではなかったのでしょうか。そうではありません。木下氏も指摘していますが、宮井用水が作られた地域は、平坦で紀ノ川に流入する河川もなく、灌漑工事自体は割合単純なものだったのではないでしょうか。取水堰がどうであったかは明らかではありませんが、上流部に比べ下流の場合、その流速もさほど障害にならなかったのではないでしょうか。
他方で、才蔵が行った灌漑事業、とくに小田井は当時の技術水準からすると、とても困難な河岸段丘が幾層にも重なり、紀ノ川に流入する多くの河川を横切ることや、小田井から実際に灌漑を必要とする粉川周辺まできわめて長い用水路の開設を必要とするなど、問題山積でしたでしょう。そのため才蔵がさまざまな工夫をしてそれを克服したのです。それは以前に簡単に触れたところです。
もう少し木下氏の見解を紹介したい気持ちがありますが、今日はこの辺で終わりとします。