Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

ビバ!インドネシア東ジャワ州 (1/10)「初のスラバヤ入り」

2006-04-15 12:17:00 | インドネシアとバリ島の話
 昨年2月、ブログを始めて未だ2週間足らず、真面目に「インドネシア滞在記」を書こうとしていた時期があった。写真をふんだんに取り入れ、紀行文を書き連ねようとしていた時期があった。
しかし、挫折した。
気負いすぎでもなんでもなかったが、続かなかった。続かななかった?すなわち挫折。その理由はいくつかある。

しかし、今になって想えば

1)Blogにて「長文」を書き連ねる事に迷いが生じたこと。

2)自分の手元にある写真画像に限りがあったこと。

3)あまり当時の自分の仕事に触れたくない「気分」があったこと。

などなど挙げられる。

しかし、最大の理由は当時の「雨風呂のキャパシティー」であったと思う。なぜなら、たったの2ヶ月で写真のキャパをオーバーしてしまった。これには閉口した。そう、
最大の理由は写真の取り込みが出来なくなった事。
そのため、敢えて現在のGOOに引越する羽目になった。gooに引越して1年以上になる。
はたして、居心地が良いか?悪いか?
良くも悪くもない。
でも、何か物足りない。
そんな!こんな!を、回想しながらこの記事を引っ越した。
想えばもっと早く引越させておけばよかった。
ま、
今でも遅くはない。と、思いつつ、書きかけの「紀行文」を完成させるためにも本日「東ジャワ紀行」の引越を開始する。

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2005-02-27
スラバヤ滞在から、始めよう
テーマ:エセ男爵・東ジャワ紀行

写真はSurabaya Hilton Hotel の中庭、ガーデンレストラン付近からのプールサイドのショットである。

スラバヤヒルトンホテルは、我輩のスラバヤの定宿である。
なぜ、スラバヤヒルトンなのか?
まず「好き」であり、もちろんそれなりの理由があるから定宿にしたのだが、仔細、その話は次回に譲ろう。

1999年秋口から2001年の春先まで、断続的に東ジャワ州に滞在し出入りした。スラバヤを始め、東ジャワ州のあれこれを、どうしても書き残しておきたいので、キーボードに向かったのであるが、さて、あれこれ書き連ねようと思うと迷いが出た。

「何をどう、書くのだ?」
「いまさら、、、。書きたい事が沢山ありすぎて書けないのか」
「頭がまとまらなくて書けないのか?」
いったい何がなんだかわからなくなってしまってキーボードに向かっている。

思いついたことを書く、思い出した事を書き連ね繰り返すのか。それとも、あっさりと時系列的に書き進めれば、書き始めていくのはたやすい。
「日記風になるか」
しかし日記であれば記録であり、何のために書くか、記録以外のものを求めれば、
「何を求めて書けばいいか」
そうなると逆に書く意義なり目標なり、それなりのゴールが見つからない。

書く前に、整理しておかねばならぬ事がある。
その時期、何のために何を目標にしてスラバヤに出向いたか、滞在したか、である?
物見遊山の観光旅行では決してなく中高年のリッチな海外長期滞在を目指したものでもない。実はそれなりの目標も目的もあって東ジャワに入ったのである。ビジネス目的である。

最初に立ち返ろう。
さて、どう書くか、について、滞在した目的を伏せて書き連ねるのは、はなはだ書きづらい。しかし、ある程度は伏せてかかなければなるまい。
なぜなら当Blog の持つ性質上、あまり自己のプライベートをさらけ出すのも読者に対して失礼であり、場合によりBlog 運営上の問題にも触れかねないからだ。


あれこれ考えながら、執筆方針を決めた。

(1) 観光旅行中に見聞きしたことを書き連ねる方式、つまり、ありきたりの日記風紀行文にしたくない。できない。

(2) 自分の滞在目的にあまり触れたくない。深くは、触れられない。しかし、ある程度は目的を紹介する部分があってもよかろう。

(3) ごく自然に、飾り気なく、自分の体験を書き進めて生きたい。つまり、世の中に一人しかいない自分の体験を人様にお聞かせする、それで良いのではないか。

(4) そうする事により、自分では普通に自然に行動した内容体験は読者にとって、奇妙に滑稽に新鮮に感じられる場面があると信じ、書き進めていくとしよう。

- 続 く -

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連載小説「フォワイエ・ポウ」(20回)「新たな展開」(やはり、若者の集まる場所になるのか?)

2006-04-14 02:45:10 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』

4章

1(新たな展開)

(1)―2

「いったい、誰だろう?男性?それとも女性かな?」
「もちろん、女性ですよ!」
ほとんど酒の飲めない小林美智子は、ひとまずコーラを注文し、カウンターのど真ん中に座った。
数分と経たないうちに、また店の入り口が開いた。
(以上、前回掲載・・)

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「こんばんは、失礼します」
女性客が入ってきた。小林と同じ年頃の女性。本田は、その客が誰なのか?一瞬にして判別できた。大手旅行会社JGBの社員、五反田恵子である。
本田にとっての彼女は優秀な生徒、すなわち旅行取扱い主任者講座の受講生の一人であり、しかも旅行会社の正社員であった。通常大手の旅行会社は、自社内で資格試験の講習会を頻繁に行い、資格を取らせたい若手男性社員には優先的に、その資格を取らせる努力をする。しかし女性である五反田恵子には、その順番がなかなか回って来なかった。一念発起した五反田は、地方都市であらたに開講された本田の講座に自費で申し込んだ。受講して半年目、すなわち昨年の冬、彼女は主任者資格試験に合格した。
五反田恵子と小林美智子は、同じビジネススクールの同じ講座の同期受講生。つまり、本田の教え子仲間であった。ちなみに小林美智子の結果はみごとに不合格であった。
小林美智子は覚悟した。
「自分には10年必要、十分な時間をかけてこの試験に合格する!」
と、自分自身のターゲットを定めた。
先に言っておく。
事実、それから7年かけて小林美智子はこの資格を取っている。

「その節はたいへんお世話になりました。おなつかしいです。そしてお久しぶりです!」
「お久しぶり、五反田さん。何だか懐かしいなあ~」
と言いながら、いささか本田にとっては、五反田に対して、今の自分を見せたくない恥ずかしさがあった。しかし五反田の方から店に現われてしまったのでは、すでに逃げ隠れできない。
逃げ隠れは出来ないものの、本田の脳裏には目くるめくものがあった。そしてまた独り言を言った。
(夜の業界に我が身を落とした自分を、見られたくなかった。特に五反田からは・・・)
(まして彼女が客になって、カウンターの外から自分を観られるのは、かなり恥ずかしいことだ。でも、すでに小林美智子が事の成り行きすべてを語っているだろう。もういいや、自分は自分だ、この際、この場で『五反田君』が如何に立ち居振舞うか?カウンターの中からとくと拝見してやろうではないか・・・)
こうして開き直った本田は、素直になって五反田恵子の来店を喜んだ。五反田は、小林美智子にも声をかけた
「小林さん、こんばんは、この前、コーヒーご馳走さまでした、今夜は私がおごりますからね・・・」
五反田と小林の2人は、なぜか交友関係が発生し、今尚継続中であったが、今日の今日まで、本田は知らなかった。
「酒はあまり強くないので苦手です・・」
店に入るなり、そんなせりふを発していた五反田に対し、本田はアルコール度数の低いカクテルを用意した。
「あの、先生、少しお尋ねしたい事があるのですが、お聞きして宜しいでしょうか?」
カウンター内での本田の作業が一段落したのを伺いながら、五反田恵子が声をかけてきた。
「どうぞ、私が分かる事であればなんでもお答えします。なんでしょう?」
「あの・・・」
「あのさ、五反田さん、ちょっと、その先生呼ばわりはもう止めてくださいよ。私は、今、マスターなんですからね・・・」
と、本田が五反田の発言をさえぎったところで新しい客が入ってきた。若い男性二人、初めて見る顔である。
若い男性達がカウンターに座りたいというので、先客である小林と五反田はカウンターの右、すなわち入り口から奥の方向に移動し、新しい来客に希望する席を譲った。
新客の注文を聞きながらも、本田方からさえぎってしまって中断した五反田の話しが聞きたかった。
「五反田さん、小林さん、お2人だけのお話しもあるでしょう。私はしばらく失礼します。それで、後からお伺いしてお話聞きますからね・・・」
と、声をかけておき、男性2人の対応を始めた。

「ここは、ショットバーですよね、マスター」
「はい、ショットでもOKです。ご注文をお伺いします」
「でも、やはりボトルキープするお客さんがいるんだ。けっこう多いのでしょうね。こうしてみれば、キープボトルもたくさんある。店に通っていると、やっぱ、キープしたくなるんだよな~」
来店のときに来ていたコートを脱げば、2人ともセーターを着ている。決して高価なものでもなく派手なものでもないが、シックにおしゃれに着こなしている。本田の見たところ、この2人は学生である。
「バレンタインの12年もの、ありますね。それ、ダブルでお願いします」
眼鏡をかけた少し太めの学生の方が先輩らしい。先輩から先に注文が出た。
「おう、君、どうする?」
「先輩と同じもの、頂きます・・・」
色白で細面、背の高い若者が後輩である。
「そう、それでいいの、ほんとうか?」
背の低い丸顔のまるい鼻から少しずり落ちてくる眼鏡を、左手でひょいとつつきながら、後輩の注文を聞き、
「清水よ、本気か?俺と、同じもの飲もうとおもっているのか?先輩達は皆んな言ってるよ。夜になってな、イザ、こういうところに繰り出したらさ、みんな君には困ってるのよ、ほんとうに生意気だよ、君は・・・」
「・・・」
「バレンタインの12年ものがどんなものか、分かっていないくせに。お前はほんとうに生意気だよなあ~」
といいながら、また滑り落ちてしてくる眼鏡を、左手でひょいと釣上げつつ、今度は本田に向かって話し、
「マスター、すみません。初めてお伺いしてたいへん面倒かけますが、こいつにも同じもの飲ませてやってください。お手数掛けます。お願いします」
この先輩、本田に対してもいささか生意気な態度である。
そんな時の本田は、若者のそんな態度を滑稽と思い込むように努力した。
(相手が生意気だと思った瞬間、自分の顔に出る。これでは、まずい! だからこんなとき、滑稽だ、面白い男だ、三枚目だ)
そう思いながら彼らの態度を見物すれば、生意気どころかなぜか可愛く見えるから不思議である。夜の商売を始めて未だ日は浅い。が、こうして毎日カウンターの中で来客を見物している本田の目に、時には三流の漫才を見ているように面白く感じる場面があった。
「ま、いいか、今日は待ちに待ったバイト料が入ったから、おいしい酒飲ませてやろう。この次は俺が君におごってもらうからな!清水よ、覚えておけ・・・」
「はい、わかりました。ご馳走になります」
「あ、マスター、何かお好きなもの召し上がってください。今日は僕、たいへんうれしい日なんです。宜しかったら、マスターも付き合ってください」
眼鏡がかなりずり落ちているが、何故か本田に話しかけている間は、左手で眼鏡を触れようとしない。
「はい、ありがとうございます、では、ビールを頂きます」
カウンター内の冷蔵庫から、ビールを1本取り出し、自分でグラスに注ごうとしたら、小太り眼鏡男が本田からビール瓶を取り上げた。
「マスター、手酌はいけません。このさい、わたくしめが失礼して、1杯目は注がせてください」
初対面で、何故か、やたらでしゃばる若者に出会えたことに本田は喜びを感じた。ますます漫才的になってくる雰囲気に、思わず噴出して大笑いしそうな状態であったが、努めて笑みだけに抑え、我慢した。1杯目のビールを、初対面の若いお客に注いでもらった。
にわかに3人は仲間となり、仲間としてカンパイした。
2人は、自己紹介を始める。
案の定、学生であった。眼鏡の先輩は3年生。宮島省吾という。後輩は2年生の清水裕明である。2人とも、当地唯一の国立大教育学部、高等学校数学教師を目指す学生、すなわち教育数学者のタマゴであった。言葉を交わせば交わすほど、会話の端々から感じるものがあった。
本田に対する彼らの会話の反応は早く、会話の遣り取り受け答えは、実に的を得たものであった。
(ウム、まだ奴らは若い。しかしこちらの会話の速度に着いてくる。いや、私の場合はすでに中年。彼らはそれを承知で、こちらの会話に合わせてくれているのであろうか?)
ふと、本田は思った。
こうなると、お互いに以心伝心か?彼らも同じことを思っていた。
「おもしろいです。マスターはすてきです。これなら僕達も出入りさせてもらえますよね」
なぜか宮島も、すでに自ら納得している。
「もう忘年会は終わりましたが、新年会の二次会は是非このお店でやらせてください。お願いします・・・」
僅かな会話の中から、本田は意外に思った。若者の集まる店、学生は歓迎する本田の根本姿勢がある。この学生の意向は、素直に喜んだ。
「どうぞどうぞ、ご遠慮なく使ってください」
「恐らく11時くらいから、3時くらいまで、カラオケがしたいのですが、カラオケの機械入れてくださいよ、来年の第3週目までで結構ですから、是非お願いしますよ」
(カラオケを用意しろ、カラオケの機械を入れよ!)
と、本田に直接提案する若者2人がいる。
初めて訪れた店にもかかわらず、ことのほか、宮島は本気になってマスター本田に向かって『団体予約』の申し込みを始めていた。
彼らと交わす会話の中、わずか数10分の間の本田の心は、久しぶりに活き活きと躍動していた。感じ、思い、考え、短時間にまとまった感想がめくるめき、それらの事柄はようやく整理できた。整理できた後、ある結論に到達しようとしていた。

 <・・続く(4月19日)掲載予定>


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(19回掲載は、こちらから参照できます)

<添付画像>
撮影場所:スペイン・マドリッド市内のタブラオにて。タブラオとは、スパニッシュ及びフラメンコダンスを専門に見せるスペイン独特の居酒屋。ファーストステージ開演時間は午後9時過ぎ、ラストステージは午前4時あたりまで。やたら遅い持間から始まり明け方までやっている。
撮影年月:1999年7月

パパイヤジュースに寄せて(回想記事)・・

2006-04-13 13:25:15 | インドネシアとバリ島の話
<(添付画像):2003年4月バリ島にて撮影・・>

 昨年の2月中旬の事、ある朝起床したら無性にフレッシュフルーツがほしくなった。続いて思い出したのがインドネシア。そして、バリ島のパパイヤジュースの画像を引っ張り出した。
そうしてこの雨風呂記事になった。
当時、いかにも素朴である。
何も多くを考えていない。
そういう単純さと野暮ったさ、時には良いのかも・・・

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2005-02-23
パパイヤの話・・・
テーマ:エセ男爵・東ジャワ紀行

パパイヤのフレッシュジュースはいかが・・・

スミニャックのとあるホテルのレストランで仕事の打合せ中、パパイヤのフレッシュジュースをいただきました。

実はこの時、撮りたかったものが別にあります。
それは、向かって右側の円筒形にみえるもの、ホテルのマッチボックスなのです。
ちょうどそれは、茶筒のミニチュアのようなもので、直径は2センチ強、高さはマッチの軸が入る高さプラス数ミリなのです。銀行で硬貨を両替したときの硬貨の束?を、イメージしていただきたい。茶筒、いやマッチ箱の周囲にはホテルのロゴを配したかんじのいいラベルが巻き付けられているのです。円筒形のかわいいマッチ箱です。当ホテルに泊った多くの旅行客は、この茶筒型マッチ箱を「宿泊みやげ」に持って帰りたがるそうです。

さて、話戻って「パパイヤジュース」・・・
日本のスーパーなどでみかける握りこぶし大程度の輸入パパイヤは、未熟で酸っぱいものです。
インドネシアのパパイヤは大きくて、めちゃくちゃ甘いのです。

さて、
東ジャワのマラン市にいる頃のことです。
街の市場に出かけていって買いました。イメージ的にはラグビーのボールを小ぶりにした感じ、直径は20センチ以上、長さが30センチ以上はありました。値段は忘れたが安かった。多分日本円で50円もしなかったと記憶しています。紐をつけてぶら下げて持てるようにして貰った。
持てば重量がある。
重い、4~5キロほど、あるか・・・
さっそく下宿に持って帰り、果物ナイフで切ろうと思ったら、これが切れない。思いがけず皮が硬く、果肉もぎっしりと詰まっているのです。いざ、キッチンから文化包丁を持ってきて気合を入れて切り裂く。何と切り開いた切り口から果肉を見ればよく熟れた「柿の実」そっくりの芳醇な橙色ではありませんか!
食べました食べました・・・
あまい、美味しい、あまい、うまい、おいしい、、、
柿のみのようだが、でも少し違う。
冷蔵庫で冷やさなくてもいい、なんとなく果肉の温度は食べている人間の体温を奪うようで、食べるほどに冷たくなる。
食べ始めて十数分、おなか一杯になりました。
パパイヤの実を買って帰ってからの三日三晩、それ以上?朝も昼も、時にはよる就寝前にも、食べ続けました。でも皮付きのまま半分以上残っている。食べても食べてもなくならない。そのうち本格的に熟れてきたので、もう数日しか持たない。
「一人ではとうてい食べきれないぞ」
「そろそろ熟れすぎてしまって、どうにもならなくなるだろう」
「さあ、どうしよう?」
やはり、お手伝いさんに手伝ってもらうことにした。
下宿の若い連中に食べてもらうことにしました。切り分けたパパイヤをお皿に盛付け中庭の集会場のテーブルに置いてもらったら、一晩でなくなった。
みんな美味しいパパイヤは大好きなのだ。

バリ島だと、この手の果物は、高い、高すぎます。
でも、デンパサールの市場に行けば易く手に入るときいていますが、それでも東ジャワよりは高いでしょう。もしかすると、ホテルで提供している高級な果物の多くを東ジャワから輸入?しているのではないでしょうか?

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日本外交の執るべき第一歩?「北朝鮮拉致問題は、全面解決へ向けて一歩前進可能か?」

2006-04-11 20:58:00 | 教養・文化・歴史
本日、夕刻になって「北朝鮮拉致問題」に関する報道が流れた。この報道は、北朝鮮拉致問題を一歩も二歩も前進させる事を可能にする確たる証拠を掴んだもの。と、いっても過言ではなかろう。ならば、これを引き金に、拉致問題を全面的に解決しなければならない。改めて思う。拉致問題解決は、21世紀における日本外交問題の中、一番最初に解決しなければならない最重要課題であると考える。そう、これで『拉致問題解決』までに至れないような「日本の外務省」であれば、国家としての日本の威信は無い。この機を失するようでは、まさに遺憾である。万一にも、この機会を失うようでは、日本の国際的立場はますます低くみなされる。
加えて、
この報道を聞いている我々は、長年の拉致家族の屈辱を晴らすべく、あらためて日本国政府の外交のずさんさを認識なければならない。もって今ひとつ声を大にし、日本国民は挙って日本政府にお願いしたい。そして、野党も、マスコミも、挙って政府の応援にまわらなければならず、ゆめゆめ拉致問題解決に纏わる「脚引張り」をしてはならない。

「なぜもっと早く、証拠を掴む状況までに至れなかったのか?時間のかかりすぎである」

「もうこれ以上待ってはいけない。待つ必要はない!」

「この機会に、拉致問題の一挙解決を!・・・」

「安倍官房長官殿、日本国民の為に頑張って下さい!」

「どうぞ宜しくお願いします・・」

以上、ご賛同の方!人気blogランキングへ

何故、今、日本外交の最優先最重要課題なのか?
その理由は、歴然としている。すなわち、
国家の国民に対する最大の義務と責任は「国民の生命財産を守る」ことにある。在外邦人はもとより、当時日本国内に居住していた「横田めぐみ」さんを、北朝鮮に強制連行し、(恐らく)本人の意思に反して北朝鮮に於いて結婚させられ、(恐らく本人の意思に違った状態で)かの地に於ける生活を強要し、その後生死の消息の解らぬまま現在に至らしめた「状態」は、許しがたい国際的大問題であること、誰の目にも明白である。
ならば、
1)可能な限り早く残る拉致被害者の「生死不明な状態」を明確にし、
2)若し、生存するならば、一刻も早く拉致されている被害者を、本国(日本)に帰国させ、
3)万が一、死亡されているならば、その死亡に至った迄の経緯を「あらためて明らか」にし、
4)北朝鮮の国際的政治責任を取らせるべく動くのは、日本政府の持つ最大の外交責任であろう。

さて、
今、何故か日本国内で「6ヶ国間協議」の当該国代表者が東京に集まっている。

実にタイミングがよい!

日本国政府は、この際、東京に滞在する6ヶ国代表に対し、凛として、毅然として、あらためて当該国代表に対し「当該問題」を提起し、あらためて拉致被害者問題に関する我国の屈辱を晴らしてほしい!

我国政府は、とにかくこの際はっきりさせるべし!

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<以下、関連ニュース抜粋>

社会ニュース - 4月11日(火)16時57分
「横田さんの夫は金英男さん 日本政府がDNA鑑定」
(本文抜粋)政府は11日、北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさん=失跡当時(13)=の夫は、1978年に韓国・全羅北道で拉致された金英男さん=同(16)=の可能性が高いとするDNA鑑定の結果を発表した。
 政府は同日、めぐみさんの両親と金さんの家族に報告し、韓国、北朝鮮両国側にも伝えた。今後は、北朝鮮が「夫」として日本政府側に面会させた「キム・チョルジュン」氏と金さんが同一人物かどうかについて調査を進める。(記事、続きはこちらから。。)

さらには、
「特務員」→「拉致韓国人」、北朝鮮またも嘘拉致被害者の横田めぐみさんに関する北朝鮮側の嘘(うそ)がまた一つ明らかになった。めぐみさんの娘キム・ヘギョンさん(18)との親子関係が、日本側のDNA鑑定で証明された韓国人拉致被害者の金英男(キム・ヨンナム)さんは、北朝鮮が「自国の特殊機関勤務員」と説明してきた男性だった。(・・続きは、こちらから)

もう一つ、、
めぐみさんの夫、拉致韓国人の金英男さん…DNA鑑定
政府は11日、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさんと韓国人拉致被害者の金英男(キムヨンナム)氏の家族のDNA鑑定で2人が父子関係にある可能性が高いと断定した。同日中にもめぐみさんの両親の横田滋さん、早紀江さん夫妻に伝えたうえで発表する。政府は今年2月、金氏ら韓国人拉致被害者5人の家族から血液や毛根の提供を受け、DNA鑑定を進めていた。(毎日新聞)


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北朝鮮拉致事件(報道一覧)
(添付画像:ヤフーNewsより、安倍官房長官記者会見の模様)

連載小説「フォワイエ・ポウ」(19回)「新しい展開」(開店後、お店の客層は・・)

2006-04-10 11:53:55 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
[添付画像]:「モルトフォンテーヌの思い出 1864 」(コロー作)

* 小編連載小説「フォワイエ・ポウ」18回掲載までのアクセスは、こちらから・・

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4章

1(新たな展開)

(1)

「おはようございます」
開店早々、女性客が来た。
小柄な女性がドアを開けて入ってくる姿を見れば、
(事務所で勤務していた小林美智子君ではないか)

先に触れたように、本田の昼間の業務縮小と飲み屋開業の流れの中で人員整理となり、彼女は失業中である。11月の末に退職した。しかし、以前の勤務先オーナー本田に対しての恨み辛みは一切持たず、こうして本田の店に出入りする。何の遠慮も屈託もなく、むしろ失業して自由になった自分自身の時間を持て余すでもなく退屈するでもなく、大いに無職状態をエンジョイしている。三十路に手が届きかけた小林美智子は、すでに、それなりの生活基盤を構築していた。本田の事務所に勤務する以前に、短大卒業と同時に証券会社に就職し、6年間勤務した。就職するなり自から投資を始め、6年間で2千万円以上の資産を蓄えた。若くしてそれなりにリッチな『セレブ』であった。勤務先でありきたりの社内不倫を経験し、筋書き通り、その先に待ち構えていた失恋を経験する事になる。失恋が引き金となって証券会社を退職した。
本田との遭遇はビジネススクールであった。
すでに独立していた本田は、2年前から毎週一回九十分のカリキュラムでビジネススクールの講師を請け負っていたし、現在も続行している。受け持ちの講座は『旅行取扱主任者資格試験』。8科目全ての科目のレッスンの講師をこなした。現役の旅行屋を退いてすでに3年目であるが、さりとてわずか3年。この若さで大手旅行会社を退職する人物は珍しく、ビジネススクールは大喜し、本田をこの資格試験の講師に招いた。
旧国鉄のJR旅客部門はこの時期、全社を上げて旅行産業に正式に参入を開始。網の目を網羅した如く大中小全国各都市にまたがるJR各駅の切符売り場の窓口の職員に、国内海外を問わず、総合的に旅行が取り扱えるよう「一大事業改革」に取り組み始めた時期である。加えてこの時期、日本に乗り入れている一部外国航空会社による割引航空運賃が引き金となり、国際線航空運賃割引戦争の時代に突入した。航空運賃の激減は、旅行代金の激減を呼び、高嶺の花であった海外旅行は、こうして一般庶民が手の届く価格までに一般化し、海外旅行者人口は増加の一途を辿っていた。
当然ながら、旅行業界に新規参入して来た中小零細の旅行会社が乱立した。乱立すれば悪徳業者も出てくるし、取引にからむ事故が発生する。ルールのない旅行業界は、新たにルールが必要となる。
ルールは規制である。
規制という法律制定は、運輸省の範疇である。
旅行関連法の制定は昭和50年代半ばになってからできた。当時すでに拡大予測された旅行産業に対し、ようやく運輸省の指導により旅行業法が制定された。
消費者保護を目的する旅行業法の中核には、当然ながら旅行を取り扱う業者に対する、一定の品質が求められ、『旅行取扱い主任者制度』が定められる。
すなわち「国家試験に順ずる資格を有した者」が、旅行会社の各店舗に最低一名以上配置されていなければ、旅行業を営めない。という制度を定めた。当時現役であった本田は、その旅行取扱い主任者資格を取得していた。現役時代の結果が功を奏し、ビジネススクールの当資格試験対策講座の講師となった。繰り返して話すが、この時期、JRの若手従業員の多くは『旅行取扱い主任者資格試験』を受験し、合格しなければならない重責があった。それには、理由があった。すでに述べた旅行業法に則り、JR各駅の案内店舗に最低一名、この主任者資格を有したものが配置された上でなければ、各JR駅窓口での営業ができなかった。
今にして当時を想えば、訳のわからない大雑把な時代であった。
一流大学卒業生憧れの業界トップランクに、旅行会社が位置する時代であった。しかし今となれば「しがない旅行会社」が、当時はまさに、最大にして最高にもてはやされた「古きよき時代」なのであった。
そんな時代の証券会社は、もっと華やかであった。
すでに証券会社を退職していた小林美智子は、退職と同時に、25日間ヨーロッパ周遊旅行に参加した。旅行中、小林美智子は旅行業に興味を持った。海外旅行の添乗員業務に憧れ、単純に旅行会社に就職したくなった。聞けば、転職にはそれなりの資格が必要であると分った。
帰国と同時に、旅行取扱い主任者の資格が取りたくなり、さっそくビジネススクールに申し込んだ。結果、本田の講義を受けた。
たまたま事務所の従業員を募集していた本田は、小林美智子が無職である事を耳に挟み、ならば自分の事務所にアルバイトとして手伝って欲しいと声をかけたところ、小林美智子にとっては願ってもない幸運と判断し、本田の誘いを引き受けた。パートとして本田の事務所に所属するようになった。こうして約1年、本田の事務所に勤務したが、このたび解雇になった。

そんな小林美智子は、必ず1人2人の友人を伴い、すでに何度か本田の店に顔を出していた。
「いらっしゃい?みちこさん」
いつもの笑顔で歓迎の挨拶をしながらも、本田はあえて言葉を付け加えた。
「まずいよな、『おはようございます』の挨拶は、かんべんしてくれないかな。そんな挨拶をする君は、まるで夜の業界の人間に見えるじゃないか。それてとも、ホステスになりたいのかな?」
「はいはい、社長が一声かけてくだされば、いつでもお手伝いにまいりますから、おっしゃってください」
「勘弁してよ、自分は絶対に、この店には女を雇わない! このセリフ、もうすでに何度も言っているでしょうが・・・」
「なんどもお聞きしています!でもでも、そのうち店の方針は変わるでしょう。社長の気が変わってからでいいですから」
「イカンイカン、あ、もう一つ君に頼みがある。もう今からは『シャチョウ・シャチョウ』と呼ぶの、やめてくれよ」
「は~い、努力します。でも癖になってますからね」
「あれ?ところで今夜はどうなってんの。1人でお酒飲みに店に出て来たのかい?」
「いいえマスター、今夜はですね、たいへん珍しい人と待ち合わせしています。マスターをびっくりさせて上げますよ。その人が来たら、マスター喜ぶだろうな・・・」
「いったい、誰だろう?男性?それとも女性かな?」
「もちろん、女性ですよ!」
ほとんど酒の飲めない小林美智子は、ひとまずコーラを注文し、カウンターのど真ん中に座った。
数分と経たないうちに、また店の入り口が開いた。

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続・東ジャワ州 Kota Malang (2/2) 「マラン滞在記」

2006-04-09 12:21:38 | インドネシアとバリ島の話
 
 東ジャワ州マラン市の思い出・・・

(オリジナル投稿アメブロより)

2005-02-21
Kota Malang (2)
テーマ:エセ男爵・東ジャワ紀行
「マラン滞在」-(2)

 半年後に移動したゲストハウスは大学の敷地内です。
 ゲストハウスは、大学の正門入り口から一番遠い場所にあります。建物は管理人の居住区と、ゲストの居住区に分かれております。ゲストルームは中庭をはさんで5室、約3~50畳くらいの広いロビースペースなどあり、ホテル並みの設備が整っておりました。朝夕の食事は、これ、たいへん困りました。食事は管理人が用意してくれるようですが、断りました。朝は抜いてもかまわないし、昼時間は外出しているし、さらに夕食のローテーションが予測できなかったのです。祝祭日はいささか困ります。祝祭日はコンチネンタルスタイルの朝食を必ずとり、昼食はなし、しかし夕食は不定期。しかしゲストハウス内のロビーの一角にはゲスト専用の冷蔵庫がありましたので、問題は解決。つまり、時々スーパーで食材を買出しする。それを冷蔵庫に詰め込む!ほぼ私一人のための専用冷蔵庫のような状態で、助かりました。インスタントコーヒーに始まり、新鮮な果物、適当な量のパンとハム、チーズにミルクなど、これで毎日の朝食はOK! でした。
さて、こうなると足が問題です。大学のクルマと運転手が、ある程度自由に使えるので昼間は問題ありませんが、これまた夜になるとタクシーで正門に入り広大なキャンパス内を約2~3分走り、ようやくゲストハウスに到着といった始末です。ほとんどのタクシー運転手が「大学名はわかるがゲストハウスの場所がわからない」と言いました。通常このような場合、すでにアルコールが入り、時には居眠りしながらタクシーに乗りますからいささか問題あり。一度はタクシードライバーが間違って、隣の市立大学のキャンバスに入ってしまい、後はドライバーの方が訳がわからなくなり、こちらはあきれ果ててしまいました。そこで降ろされ、いや近くにいることはわかっていましたからこちらからタクシーを降り、後は徒歩で4~50分くらいかけて帰ったことがあります。人気のない広葉樹林の大木が生い茂った大学のキャンパス内を歩く、途中いささか不安な気持ちになりましたが結果良し、でした。
 当時、マラン市内の治安はさほど問題なく、タンポマス通りの南入り口を出た通りに、大きな昔ながらの地元マーケットがあり、昼となく夜となく、よくショッピングに出かけていました。焼き鳥屋の母と娘、角の露天バイク修理屋のおじさん、固定屋台で雑貨屋をやっているダンディーなおじさんとも顔見知りになり、加えていつの間にか、こちらが認識できないおばちゃんやおじさん、兄ちゃん達まで、朝となく昼となく晩までも挨拶を交わしあえる人情豊かな人たちでした。大学の裏門(通常は門は閉鎖されていますが、通用門は利用でき、そこから出れば川沿いの道路に学生向けの中小レストランがあるので、気楽に食事できますが、一度も入りませんでした。まず、言葉に問題があり、その次に食事内容つまり衛生面に問題がありました。
 しかし、あくまでも危機管理は必要です。平素、日本円で500円以上の現金類は一切身に付けておらず、必要に応じてクレジットカードを使用、あるいは近くの銀行のATMで現金を小出しにしていました。
 インドネシアのみならず、外国で治安の良し悪しを問題にするとキリがありません。
 現金目的で強盗を働く輩に対して、危機を未然に防ぐには如何すればよいか?その方法は、只ひとつ。それは平素の活動暮らし方行動パターンから、可能な限り現金を所持しない行動をする。ふたつ目に、危険と思われる地域には立ち寄らない、という以外に言葉がありません。
 さて、
 東ジャワ州の治安はどうか?比較するとバリ島が良いか?と言われれば、そうです、と答えます。しかし同じ地域によっても住む場所により微細に、東ジャワもバリ島も、それぞれの安全確保の限度があります。一概に東ジャワか?バリ島か?括って論じ、血液型判定のような画一的な結論は出てくるわけがありません。
 バリ島と東ジャワと、どちらが住みいいか?
 等と、訪ねられたらば、どちらとも云えない。
 私の場合、自分の「その時の目的」により、たえず「住む場所」を替え移動し動きまわる人種ですから、、、 。

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東ジャワ州 Kota Malang (1/2) 「東ジャワ州マラン市滞在記」

2006-04-08 10:22:28 | インドネシアとバリ島の話
 前日に引き続き、本日、東ジャワ州の事を記事に致します。

2005-02-20
Kota Manan (1)
テーマ:エセ男爵・東ジャワ紀行
(あめぶろより、転載)

「東ジャワ州・マラン市滞在小記」-(1)
1999年のクリスマス前から2001年の初夏までの足掛け3年、東ジャワ州での活動中、スラバヤに3ヶ月、その後はマラン市を活動拠点に定めていました。
 マラン市内では、ホテル住まいを半年間、一般民家と大学のゲストハウスに住んでいました。ゲストハウス滞在以前の民家での生活に、今でも懐かしさが鮮明に浮かびます。マラン市内はジャラン・タンポマス (Jl. Tampomas) の民家に滞在していました。よくご存知かと思いますが、「グラハ・チャクラ・ホテル」まで徒歩で約5分。いつも徒歩で公園を抜け、このホテルにはたびたび食事に行きました。毎朝決まったように、5時から6時の明け方は、温度計が20度以下をしめす涼しいマラン。早朝、といっても7時過ぎですが、熱帯地域とは思えない適度に乾燥した新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込みながら、野鳥のさえずりに耳をすませ公園を横切って向かうグラハ・チャクラ・ホテルまでのウオーキングは快適でした。さらには市役所の隣、かの有名な「ツグ・パーク・ホテル (Tugu-Park Hotel)」まで、タクシーで10分掛かるかどうか、のロケーションですから、とても便利の良いところです。
 長さにして約100メーター程度の南北に通じた一本道がタンポマス通りで、通りの両側におおよそ100~150坪程度の敷地、緑に囲まれた庭の手入れが十分に行届いた家々があり、その数合計で約30~35軒の民家がありました。我が下宿先は、すでに築50年以上にもなるオランダ人が建てた独特の雰囲気のある住みよい家屋でした。南北のタンポマス通りの入り口には、まるで電車の踏み切りの遮断機と同じものが付されており、午後9時過ぎると翌朝まで遮断機は閉鎖されます。私が夜遅くタクシーで帰ったりすると、顔見知りのガードマンがタクシーの中を覗き込み、私の顔を確認し、黒褐色の顔にあくまでも白い歯を出し、いつもにっこり笑って遮断機を開いてくれていたこと、思い出します。こうしてタンポマスの一角は四六時中、つまり24時間態勢でガードマンが配備されており、常識的且つ最低限度?の安全は確保されていました。
 この家は、有名な私立大学の経済学部長の母上の持ち物(父上はすでに他界されていた)で、敷地の空間つまり中庭を取り巻くように、「ク(く)の字型」の長屋?が敷設してありました。それぞれ4報半くらいの部屋には、当時、6~7人の下宿生活者がいました。下宿人は全員が男、学生や独身のサラリーマン達です。
 平屋の建物である母屋の間取りを紹介します。まず玄関入り口を入ると、吹き抜けと思わんばかりの天井の高い広々とした30畳ばかりのリビングルームがあります。その奥に入ると約10畳ばかりのダイニング、さらにその奥がキッチンとなっています。リビングルームの左右に2部屋と3部屋の合計5室のベッドルームがあります。私は向かって左側の日当たりの良い部屋と裏庭に通じている部屋と合わせ、合計2部屋を借りて住んでいました。正面の庭からタンポマス通りに面した部屋は日当たりが良く、事務用書斎として快適でした。また裏庭に通じるつなぎの部屋は、一日中裏庭から微風(そよかぜ)が入る風通しの良いいささか薄暗い部屋でして、主として寝室に使用。とくに昼寝には最高の部屋でした。
どちらかといえば私は夜が遅く、他の若い下宿人は朝が早い。若者は日の出前に起床し、皆にぎやかに、中には鼻歌交じりで景気よくそれぞれが朝の準備を始める。なんだか皆さん8時出勤が多く、ほとんどの人物が6時前に起床し、7時にはけたたましいバイクのエンジン音を撒き散らしながら出勤していきます。裏庭につながる通路のすぐそばが私の寝室でして、防音消音の施されていない部屋の壁とガラスの付いていない、西部劇に出てくるサロンの入り口のドアの木製板よろい戸程度の窓からは、容赦なく連中の叫ぶ声やバイクの排気音が聞こえてくるのです。しかも、5時ごろからですから、おのずと目が覚めます。参りました。加えて早朝の4時半前後には、どこからともなくあらゆる方向4~5箇所のモスクから、朝一番のお祈りのコーランが拡声器で流され、このコーランの放送でもって眠りから覚めてしまいます。コーランが終わるのが5時前、今からもう一個眠ろうと思ったころに、下宿人が騒ぎ出す。こちら朝から騒がしいのは大の苦手でして、これが唯一、当下宿の難点でした。朝は必ず20度以下、感覚的に冷え込むくらい温度が下がり、昼間は30度をわずかに超えますが、夕方4時になると30分間隔で見る見るうちに温度が下がる。午後9時近くになると、もう25度以下になり、地元の人間はセーターやコートを着ている者まで現れる。我々はせいぜい長袖のスポーツシャツで十分に凌げるのですが、、、。とにかく蒸暑さを感じない(標高約500~800メーター)マランの高地(高原盆地というのが適切か)では、すこぶる環境良く快適な下宿生活を体験できました。

(続く No.-2)

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連載小説「フォワイエ・ポウ」(18回)「開店」そして、結果は。。。

2006-04-07 03:40:35 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
       !?!?!・・・
 連載小説フォワイエ・ポウも、いよいよ3章・・・

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「・・・」
ここまで、
寺元マスターと木村がカウンター越しで話していた。そんな時、サンチョパンザに2組目の来客があった。来客は、なじみの客である。そして今夜は7人、、、。
(上記、17回の終りから・・・)


客の人数を見て、さらに客の内容を判断した瞬間に、
(しめた!今日はこれで出来上がった!もう今夜はこれで、大丈夫・・・)
寺元は、頭の中でつぶやいていた。
寺元の予定していた今夜の損益分岐点を越えた安堵感と達成感が、瞬時に寺元の頭をよぎった。
サンチョパンザは、規模的にはB級店ではあるが、寺元の夜の商売のフィールドは、ナイトクラブ・ビジネスである。一人当たり客単価の高いナイトクラブのビジネスは、勝負が早い。サンチョパンザの規模であれば、一晩で10名の客が入れば、文句なし、一日あたり12万円の利益ラインに完全に乗ってしまう。とにかくテーブルに座っただけで、最低1万円以上は支払わなくてはならないのが、ナイトクラブに出向いてくる客の支払いの目安である。逆に、店側としては少なくとも一人当たり平均1万5千円を請求ラインの目安としている。中を取っても、12,500円。これがナイトクラブの客単価である。
寺元は、一瞬にして気合が入った。
寺元と木村栄は、同時に声を発した。
「いらっしゃいませ!」
カウンター越しに喋り続けていた寺元と木村栄の休憩モードは、突然仕事モードに切り替わった。お客を迎え入れる挨拶をした瞬間、2人の顔は夜の営業の顔に変化していた。
とりもなおさず、2人の会話はここで中断した。

フォワイエ・ポウには、3組目の客が入っていた。
9時過ぎなってようやく、本田の弟・譲治が、仲間と一緒に顔を出していた。
同じ会社の部下を3人引き連れて来店し、奥のボックス席を占領した。すでに、会社の近くの居酒屋でアルコールの下地ができていた。五時半から課内会議があったらしく、事務所近所のいつもの居酒屋で、会議に参加した主だった連中で、食事しながら反省会をしたらしい。今尚、その仕事の延長線上の会話が飛び交っていたが、この場で一番先輩の譲治一人が喋っている。同行した部下は、いかにも静かでおとなしい。
にわかに本田は忙しくなった。
ボックス客のサービスでカウンターを離れる回数の多くなった本田と、ゆっくり会話を楽しむ時間が取れなくなった浜田と大塚は、あらためて本田に挨拶し、浜田が会計を済ませた。
「マスター、たいへんご馳走さまでした。もっともっとマスターのお話お聞きしたいのですが、今日は引き上げます。またお伺いしますので、どうぞ宜しくお願いします」
「ありがとうございます。またいらしてください、おやすみなさい」
ドアーに向かう2人の足取りは、いかにも軽やかだった。
「おやすみなさい、マスター」
店のドアーの手前で立止まった浜田は、振り返りながら、
「今夜は仕事のこと忘れて2人ともぐっすり眠れます・・・」
・・・
本田は微笑みながら会釈し、2人を送り出した。

初対面の客を送り出した本田は、なぜか清々しい気分になっていた。

時計はすでに午後11時を回っていた。
約1時間、仕事の話ばかりが続いた譲治の仲間も、ようやく腰を上げようとしていた。11時45分終発の、山陽本線JRの電車に間に合わせなくては自宅に帰宅できない部下が参加していたようであり、フォワイエ・ポウに付き合った譲治の仲間全員が、その時間に合わせて店を出た。

客を送り出した本田は、奥のボックス席とカウンター席のグラス類その他、さっそく、かたずけに取り掛かった。
わずか10名足らずの客の後始末に、そんなに時間はかからない。最期に残ったグラスを拭き終わったら、思わず、時計に目が向いた。
12時半が少し回っていた。
すでに空っぽになった店の中で、本日の売り上げの計算を始めた。
2度、計算した。
客数は、女性2名に男性2名、譲治たち5名。合計9名の来客数である。今夜の総売上金額は2万9千5百円であった。もちろんこの合計金額には、木村栄が差し出した1万円が含まれている。
結果、客単価は3千2百77円77銭・・・
と、なっていた。
本田は、もう一度確かめた。
(総売上はどうか?)
(1日あたりの最低目標である3万円には、わずかに届いていない・・・)
(あと1人、今からでも、もう1人の客が来れば、目標に届く・・・)
と、呟いたが、その実、
(もう終わりだ。今日は、これでよしとしよう!)
すでに、本田の神経は磨り減っていた。オープンした初日の売上げとして、良かったのか悪かったのか、それを判断する基準は、残念ながら本田には全く無かった。
午前1時の閉店を、決めていた。時計はすでに、12時55分を回っていた。
「この時間になって、そう、今から客が来てくれても、困る。もうホトホト疲れ果てた・・・」
久しぶりに独り言を言った本田は、手元の冷蔵庫からビールを1本取り出し、おもむろに栓を空けた。
(本田君、ごくろうさま!おつかれさま!)
もう一人の自分自身に、本田はねぎらいの言葉をかけた。
「カンパイ・・・」
まるで一人芝居だった。
ビールグラスに口を付けながら、ようやく表の看板のスイッチを切ったのは、午前1時6分だった。

           (3章・完)

*掲載済み「小説フォワイエ・ポウ」をご覧になりたい方、4月12日記事から、お入り下さい、、、。

<・・次回4章に続く(4月12日水曜日・掲載予定)・・>

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<画像説明>
撮影場所:バリ島・レギャン通り、バリ風「レストラン&バー」
撮影日:2004年7月
備考:キッチンバー代わりに、朝・昼・夜・深夜を問わず2日に一回、必ず顔を出す「行きつけ」の店。
(ゆめゆめ接待には使えないですぞ)

ちなみに、
・American Breakfast= about300.-
・Lunch= abt.350.-/ 500.-・・・
・Dinner= abt.450.- / 700.-・・・
・Bintan Beer= ? maybe 160.-
・Traditional Bali-Style Dishies, Australian Foods, Sea Foods, etc.
* 表示価格は、いずれも日本円換算(正直、正確には覚えていない!全部アバウトですが、決して外れてはいない? まあ、まるで学生食堂並み?あるいは、それ以下のPRICEですから、うれしい、、、)

オーナーは豪州人女性。スタッフ全員、バリ人。
朝は9時半から開店、深夜1時までノンストップで営業。我輩の「隠れ家」から徒歩で3分。レギャン通りに面した便利の良い場所にある。

長編小説「フォワイエ・ポウ」(17回)「開店」(クラブ・サンチョパンザ、寺元マスターは?)

2006-04-05 18:33:35 | 連載長編小説『フォワイエ・ポウ』
    
      長編小説「フォワイエ・ポウ」3章

                   著:ジョージ青木


「ご案内」=第1回~16回までの掲載分は、こちらからこちらからご覧いただけます。

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 3章「開店」(第4節)

この情報を木村栄にもたらしたのは、サンチョパンザの寺元オーナーであった。なぜか? 寺元は知っていたのだ。

夜の繁華街を10数分歩いた木村と山本は、ようやく自分の店に到着した。
「おはようございます!」
オーナー・マスターの寺元に、声をかけた。
「オウ、 おはよう!」
「お2人さんとも、 意外と、早かったな」
学生時代に柔道をやっていたので、体格はがっちりと、そして大きい。大きな身体の上に、顔がある。顔には大きな縁取りの黒眼鏡がくっ付き、はちきれんばかりの大顔が特徴の寺元オーナーである。そんな顔で笑えば、大きな顔はさらに横に広がる。
いつしか店の女性の連中により、寺元のあだ名がつけられた。本人は知らない。なぜか、寺元のあだ名は、『タコ』である。なぜタコなのか、理由は定かでない。
木村栄は、久しぶりに寺元の満面の笑顔を見た。笑顔の理由は単純、予定より、いや、寺元の予測よりも若干速めの2人の出勤を歓迎する笑顔であった。
タコの笑顔を斜に見ながら、木村は答えた。
「はい、何とか、時間厳守です。約束どおり間に合いましたよ、マスター」
「ご苦労さんご苦労さん・・・」
「で、どうだった? 本田さんの様子は?」
突如として笑顔を停め、真剣な顔つきになった寺元は、木村栄と山本美智子を交互に見つめながら、単純な質問をする。
「・・・」
笑みを浮かべながらも、答えを用意できない山本美智子には、何も答えられない。
「はい、行ってきました」
「それで、開店時はお客なしで私達だけです、でも、直ぐに2~3人の男性客が来ましたから、わたしたちは引き上げました」
木村栄が口を切る。
「そうか、そんなもんか・・・」
少しがっかりしながら、寺元はつぶやく。
「そうですよ、ゼロじゃないんだから、私達が本田さんの店を出る前に客が来たのを見届けたから、それでいいんですよ」
平然と、木村栄は答えた。
「そう、そうか」
「さかえちゃんは、そう思うか・・・」
いささか手持ち無沙汰な寺元は、グラスを整理しながら答えるが、その実もっと木村栄から報告の言葉が聞き出したかった。
期待していたよりも、あまりにも言葉少ない木村栄の返事に対し、寺元は逆に、独り言のように喋り始めた。
「ふう~ん、そうか」
「本田さんも、遂に、この業界に入ってしまったか、こんなたいへんな時になあ~・・・」
自分に言い聞かせるようである。
「でも彼なら、本田さんなら、うむ~」
この時間、すでにサンチョパンザには客が入っていた。ホステス4人に取り囲まれた2人一組の常連客は、ホステス相手に賑やかに話し込んでいる。それ以上のスタッフが加わって対応する必要もなく、カウンター席で待機している木村栄を相手に、さらに寺元の話しが続いていた。
「そうだ、本田さんの店、今から、クラブのホステスの溜まり場になるかもしれんなあ~・・・」
「・・・」
寺元の会話に興味の沸かない木村栄は、ミネラルウオーターの入ったグラスに口を傾けながら、しかたなく寺元の会話に付き合っていた。
「この秋口から、とにかく昭和天皇ご重態で、いつお亡くなりになるか分かりゃしない。日本全国津々浦々、おれたちの業界に関わる事の全て、万事が自粛ムードじゃないか。この1ヶ月で、この界隈の、かなりの数の店が潰れるよ。もうすでに、毎日20軒近くの飲み屋専門の店は、店仕舞いしているご時世だ。飯屋はいろいろ別の事情があるからさ、まだ大丈夫だ。でも飲屋専門は、もう、いかん。崖っぷちだ、後が無い。冬場にかけて、夜逃げする店もそうとうあるだろう。こんなときに新しく飲み屋を開店するなんて、、。しかも今まで、あまり流行っていない店を引き継ぐなんて、もう、こうなったら尋常じゃない。ぼくたちの常識では考えられないハプニングだよ・・・」
「フフ・・」
木村の返事は、寺元の会話の内容に対する返事になっておらず、むしろ寺元を無視し、さらに彼をあざ笑っているようであった。
「でもね、さかえちゃん、ぼくは、別の観方もしてるのさ。そう、あれこれ考えているのだ。だから、今からのぼくの話、聞いてくれよ。それで、その後に君の意見も聞かせてくれよ・・・」
木村栄の予測に反し、寺元の話の内容がここで切り替わった。
「あのさ、本田さんっていう人、僕もずっと見てきたんだが、あの男は男から見ていると、そうとう面白い男だよ・・・」
わずか数回、しかし客としてサンチョパンザに顔を出した本田の有態を、夜の世界で叩き上げた鋭い観察力により、彼独自の本田像が組み立てられていた。
「まずさ、彼ね、今までず~と、海外旅行の業界を歩いてきただろう。だから、外国のいろんな事、いろんなところ見ているし、いろんなところで飲み歩いているし、いろんな料理をいろんなレストランで食べてるし、それにもましてさ、いろいろ違った場面で、いろんな客の対応をしてきた経験があるし、そんな男が飲み屋やったら、どうなるか?すごい事になるよ。少なくともぼくは、そう思っている」
グラスを見つめながら、木村栄は本気になって寺元の話を聞き始めた。
「いちばん大きなポイントは、何だろうなあ~」
「そう、本田さんのスマートさだ。何故か、ただ立っているだけでも気になる存在、おとなしく静かに座っていても様になる男、こちらから話しかけてみたくなる、人を惹きつける彼独特の雰囲気だ、家庭の匂いがしない、生活の疲れと焦りを感じさせない、汗臭さや脂臭さは一切ない、ウム、ありゃ、たいしたもんだよ」
ここまで続けて喋った寺元は、自ら話した内容に納得した。
「ええ、そういえばそう、そのとおりだわ・・・」
グラスの底にわずかに残っているコーラを飲み干しながら、木村栄は頷いた。
「さかえちゃん、どう思う?」
「はい?」
「本田さんが、マスターとして、いったいぜんたい、何年続けるつもりだろうか?」
「・・・」
「今から何年飲み屋を続けられるか、何年持ちこたえられるか?これ、意外と大きな問題だよ。続けたほうがいいのかどうか?」
「・・・」
木村栄は返答できなかった。
しかし、内心、
(でもさ、そこがねえ、本田さんの弱みかもよ・・・)
と、木村は無言で、一人で呟いていた。
なぜか寺元は、一人で盛り上がり、さらに喋った。
「そう、彼、歳はいくつなんだろう?特に本田さんの場合、よく年齢が分からないんだよな。さかえちゃん、知ってない?」
「ん~・・・ 確か、たぶん、40歳になったばかりじゃないのかな?以前、このお店にお見えになった時、お連れの方との話の流れの中で、そう、そう聞いた記憶があるわ。間違いないと思うけれど」
「そうか、まだ30の後半かな?と、思っていた。何だか年がわからない男だよ、本田さんは、、。ま、それはともかく、そうすると、ぼくより5歳、年上なんだ」
「・・・」
ここまで話していたら、サンチョパンザに2組目の客が来た。客は、なじみ客の7人組である。話し込んでいた寺元マスターと木村栄は、ここで話を中断した。2人ともプロである。2人はそれぞれ、咄嗟(とっさ)にビジネスモードに切り替わり、臨戦態勢に移った。

<・・続く・(4月7日掲載予定)>

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<添付画像>
場所:スペイン・バルセロナ市内
撮影日:2002年7月
*定宿のメインダイニングレストランにて、レストラン内のオブジェを撮影する。朝食時、このオブジェの間にビュフェスタイルの食材が並ぶ。

拝啓櫻井よしこ様「4月1日付(ysBlog記事):政経不可分が崩れた日露関係・・」に寄せて(1/2)

2006-04-04 23:32:10 | 教養・文化・歴史
 なぜか、頭の片隅に霧のかかった如く、昔の記憶が蘇ってきた。しかし、もう一つ何かが判然としない。気になって仕方のない記憶は、昨夜になって突然、過去のファイルから飛び出してきた。
先の”YS Blog”4月1日付記事、「政経不可分が崩れた日露関係 北方領土返還要求に対しては今は揺らがず機会を待つべき」、いつもにまして深く感銘を覚えた記事であり、当記事が引き金となって、その追憶は始まった。


「第1話」

 時、さかのぼる事30数年も昔の出来事、確か昭和46年3月下旬の出来事を思い出したのである。当事(私議)旅行会社に就職してまだ2年目。ようやく一通りの渡航手続き業務なるもの、解りかけていた頃。いまだ、海外団体旅行なるものが珍しい時代であった。
 週末の午前中、化粧化なく地味で風采の上がらない小連れの女性顧客が現われた。先輩からの指示により、その女性の海外渡航案内の担当を仰せつかった。
 聞けば、何と、たどたどしい日本語で、
「4月中旬出発の日程で、横浜港出発の船に乗って、樺太(サハリン)に行きたい。いや、帰りたいので、旅券を作る手続きをしてほしい・・・」
・・・驚いた。まだ乳離れするかしないかの子供をつれて、女性一人、ソ連のサハリンに向け船旅をする事そのもの、当事としては異例であった。そしてこの女性、我社を訪れる前に、広島県庁外事係(当事の旅券申請発給窓口)に、直接出頭されたとの事。
県庁担当官曰く、
「個人での手続きが面倒だからN社を訪ねたほうがよい。N社でもって、渡航手続き国際汽船の切符発行など、一連の手続きを委ねたらよい」
との説明を受けた。
お役人の面倒お断り的「門前払い」か?いや、それも無きにしも非ず。で、あろう。が、当時の常識として、個人で旅券申請から始まる渡航手続き一式は、あまりにも難解、いかにも難題であった。
そしてその脚で、一目散に我社を訪ねてきた。と、お話された。

 問題点が多々あった。
まず、
1)国際線航空券ならば、直ぐにでも発行できる。が、船舶の国際航路となると、当店ではじかに取り扱えないから問題がある。その場合、横浜支店に照会し、3月中旬出発の船便を確認しなければならなかった。2等船室は予約可能であった。
2)さらに当時のソ連を旅行する場合は手順がより複雑であり、通常申し込みから出発まで1ヶ月以上を必要とした。すなわち手順及びタイムスケジュールとして、外貨申請、旅券の取得から先はソ連の(観光)査証が必要。査証の申請に先立ち、インツーリスト(ソ連国営旅行会社)経由で現地スケジュールを全てを予約し、予約完了の後ヴァウチャー料金相当の滞在費を外国送金にて前払いし、ようやくヴァウチャー(旅行クーポン券)を購入。さらに往復航空券を購入してのち、ようやくソ連観光査証が取得できた時代である。加えて、当時の電信確認方法では、あまりにも時間がかかる。日程的には、出発までに都合1ヶ月、それ以上を必要とした時代である。したがってまず最初の段階、旅券の取得に要する日数は、旅券申請の後、約2週間経過して旅券は発給されていた。
3)ご承知の通り、旅券申請には添付書類(戸籍賞本・住民票・写真等々)が必要である。
下手をすると旅券申請以前の段階にて、これら必要書類の集約に要する日数だけでも、ざっと3~4日はかかる。

上記の手順状況などなど、可能な限り解りやすく、幼児連れの女性客に説明した。
A)写真、戸籍謄本など、旅券申請に必要な書類一式は、翌日にお持ちになった。
B)旅券の発給は2日間で済んだ。すでに申請者母子の状況が分かっていた県庁側の配慮があった。当方にて「旅券早期発給申請」理由書を作成添付。難なく早期発給は受理され、2日間で旅券の受領は可能となった。
C)当方で一番の問題点は、ソ連査証発給についてである。短期滞在の観光査証をとる訳には行かない。ご本人のソ連国籍は、まだ有効であったはず。ともあれ、当時ソ連側の身分証明書を所持しておられた顧客ご自身にて、査証手続きは対応された。もちろん、すでに事前にソ連大使館とのネゴシエーションは進んでいた。全く問題なかった。
 雑多な手続きは粛々と進み、無事予定通りその女性は年端も行かないわが子を連れ30数年前の早春、横浜港より再びサハリンに向け旅立たれた。
母子のサハリン渡航を担当した旅行会社社員は、淡々と、感情を押し潰し、無味乾燥なる感情抜きにて、渡航手続きに専念した。


「第2話」

そして昨夜、思い出した。

何故あの時期、小連れでサハリンに船旅をされたのか、その理由を・・
彼女の持参した戸籍謄本を見て、驚いた。
若くして、その女性が戸籍の筆頭者となっている。
一番に、生年月日に問題があった。昭和15年云々、、、。
要するに生年度しか明記されていない。月日は、無し。
両親の名前が明記の件、父親の姓名は朝鮮人、母親は日本人。と、なっていた。しかし当事すでにご両親は死亡と認定。認定年度月日はあるものの、死亡年月日時間と死亡場所の明記は、全くない。
(現行の戸籍謄本には、死亡場所と時間は必ず明記される)
そして、本籍地は、我が県我が市内何某町何番何号・・
まるで、木の股から生まれてきたか、桃に乗って川から流れ出でたか、竹の筒から生まれたか?判明しない内容である。
つまり、日本に帰ってから、新たに戸籍を作った証拠である。つまり、日本に帰国し、日本国籍を得たという証拠にもなる。
加えて、
渡航手続き上、下記内容の事柄を直接ご本人にお聞きした。と、記憶している。
戦時中にサハリンで生まれた。両親と生死は判明しないが、すでに生き別れた。それからの生活はどうであったか?聞いていない。が、やがて年頃になり、朝鮮人の青年と結婚。一児をもうけた。
理由は定かでないけれど、本人は子供を連れ日本に帰国することを選んだ。日本の国籍を取るにあたって、当時かなり苦労されたものと思われる。いずれにしても、日本人の母親は(我が町)の出身である事が判り、本籍地に戻ってきた。
 当時、幼児を抱えた女性が日本に帰国するには、かなりの苦労があったもの、と、考えられる。ソ連・日本の両国に跨る(たぶん複雑な)手続きを経た後、ようやく日本に帰国。我が町に(共生する)母方の親族に身を寄せ、日本で暮らし向きを模索したものの、約半年、日本人として日本で生計を立てること難しすぎると判断した。
「自分はどうしても日本人にはなれない」(私的想像による表現なり)
と、実感した。と、考えられる。
だから再度、生を受けた地サハリンに帰るのである。と、聞いた。
小生、あの時点で、ソ連による北方四島の占領、樺太(サハリン)に取り残された日本人や日系人などの事、心配に及ばなかった。いや、好き好んで生まれたわけでもなかろうが、そういう人々が存在することを知った。
それ以降になって、「中国残留日本人孤児」の問題がテレビで大々的に取り上げられお祭り騒ぎになった事、思い出す。こうしてys-Blog当該記事から枝葉が伸び、再度、我が脳裏には対ソ国境を跨って居残っておられる日本人乃至日系人の多くは、今も尚、ソ連領に住み続け子孫はさらにその地に生活されている有体、まざまざと想像するのである。。。

女性一人、幼子を連れ母方の祖国日本に帰った。
しかし、僅か半年滞在ののち、母の祖国に別れを告げる決心をした。そして彼女の生を受けた地・サハリンに、戻っていってしまった。渡航手続きを粛々と進める以外に、我輩には何も出来なかった。そんな彼女の後ろ姿を見送った心情。伝えようの無い表現しようの無い、我が情感の揺れ動くものの、余りにも非力無力にして無様な有り体、、。
当時が今ならば、この年齢に達した今ならば、彼女に「何かを、さしのべ得たかも」知れない・・・
当時の我輩には、何も出来なかった、、、。
あれこれ想えば、
不外にも目頭が熱くなり、涙がほとばしり出でそうになる昨夜であった。

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「第3話」

 当該記事、櫻井先生の締め括りとして、以下の表現を示されている。
>日本の領土返還要求を減じて、ロシアに譲る特段の理由もない。敵対する必要はないが、今は冷静に待つしかないと心して一定の距離を保ちつつ、揺らがずにいることだ。過去の歴史を見れば、機会は必ずまたくると私は考えている。(櫻井よしこブログ記事より引用・・)

 北方四島をロシアに奪われたことは不本意である。しかし今世紀にいたり、そして今「日露経済」を優先しなければならない現状と政治外交の基本路線を柔軟に考慮し対応することは、いかにも良識的得策と考える。我国では、(一部の専門家を除いて)なかなか理解の行き届かないロシアの現状、歴史、我国との外交の歴史、知っておきたい事は多々ある。
まして、この150年の間、ロシアと日本の間で国境線の変わった「北方四島ならびにサハリン」には、上述のケースの如く、今も尚、現地に居留する日系人の数は計り知れないと思われる。既に子供から孫の時代になり、混血も進んでいるはずだ。
櫻井ブログ記事に触発され、引き金となり、ある母子のサハリン渡航の記憶が蘇った。これもなにかの縁であろう。
ならば、これを機会に、
自分自身のロシアに関する認識を、この際整理しておきたい。そしてロシア外交の歴史を振り返ってみたい・・・
 
 <・・続く・・>(・・当記事、2回掲載予定します・・)

*30数年前、再びサハリンに戻っていかれた母子の「その後」について、それなりに気になる方、是非こちらをクリックしてください!(人気ブログランキング)

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<添付資料>:CIAファクトブックより(1/2)

(CIA Fact Book, RUSSIA)

Background:

Founded in the 12th century, the Principality of Muscovy, was able to emerge from over 200 years of Mongol domination (13th-15th centuries) and to gradually conquer and absorb surrounding principalities. In the early 17th century, a new Romanov Dynasty continued this policy of expansion across Siberia to the Pacific. Under PETER I (ruled 1682-1725), hegemony was extended to the Baltic Sea and the country was renamed the Russian Empire. During the 19th century, more territorial acquisitions were made in Europe and Asia. Repeated devastating defeats of the Russian army in World War I led to widespread rioting in the major cities of the Russian Empire and to the overthrow in 1917 of the imperial household. The Communists under Vladimir LENIN seized power soon after and formed the USSR. The brutal rule of and threatens to destabilize the North Caucasus region. Iosif STALIN (1928-53) strengthened Russian dominance of the Soviet Union at a cost of tens of millions of lives. The Soviet economy and society stagnated in the following decades until General Secretary Mikhail GORBACHEV (1985-91) introduced glasnost (openness) and perestroika (restructuring) in an attempt to modernize Communism, but his initiatives inadvertently released forces that by December 1991 splintered the USSR into 15 independent republics. Since then, Russia has struggled in its efforts to build a democratic political system and market economy to replace the strict social, political, and economic controls of the Communist period. While some progress has been made on the economic front, recent years have seen a recentralization of power under Vladimir PUTIN and an erosion in nascent democratic institutions. A determined guerrilla conflict still plagues Russia in Chechnya and threatens to destabilize the North Caucasus region.
Geography Russia Top of Page
Location:
Northern Asia (that part west of the Urals is included with Europe), bordering the Arctic Ocean, between Europe and the North Pacific Ocean
Geographic coordinates:
60 00 N, 100 00 E

Climate:
ranges from steppes in the south through humid continental in much of European Russia; subarctic in Siberia to tundra climate in the polar north; winters vary from cool along Black Sea coast to frigid in Siberia; summers vary from warm in the steppes to cool along Arctic coast
Terrain:
broad plain with low hills west of Urals; vast coniferous forest and tundra in Siberia; uplands and mountains along southern border regions
Elevation extremes:
lowest point: Caspian Sea -28 m
highest point: Gora El'brus 5,633 m
Natural resources:
wide natural resource base including major deposits of oil, natural gas, coal, and many strategic minerals, timber
note: formidable obstacles of climate, terrain, and distance hinder exploitation of natural resources
Land use:
arable land: 7.33%
permanent crops: 0.11%
other: 92.56% (2001)
Irrigated land:
46,630 sq km (1998 est.)
Natural hazards:
permafrost over much of Siberia is a major impediment to development; volcanic activity in the Kuril Islands; volcanoes and earthquakes on the Kamchatka Peninsula; spring floods and summer/autumn forest fires throughout Siberia and parts of European Russia
Environment - current issues:
air pollution from heavy industry, emissions of coal-fired electric plants, and transportation in major cities; industrial, municipal, and agricultural pollution of inland waterways and seacoasts; deforestation; soil erosion; soil contamination from improper application of agricultural chemicals; scattered areas of sometimes intense radioactive contamination; groundwater contamination from toxic waste; urban solid waste management; abandoned stocks of obsolete pesticides

* Population:
143,420,309 (July 2005 est.)
*Age structure:
0-14 years: 14.6% (male 10,704,617/female 10,173,313)
15-64 years: 71.3% (male 49,429,716/female 52,799,740)
65 years and over: 14.2% (male 6,405,027/female 13,907,896) (2005 est.)
female: 41.03 years (2005 est.)
Population growth rate:
-0.37% (2005 est.)

Birth rate:
9.8 births/1,000 population (2005 est.)
Death rate:
14.52 deaths/1,000 population (2005 est.)
Net migration rate:
1.03 migrant(s)/1,000 population (2005 est.)
Life expectancy at birth:
total population: 67.1 years
male: 60.55 years
female: 74.04 years (2005 est.)
Total fertility rate:
1.27 children born/woman (2005 est.)
HIV/AIDS - adult prevalence rate:
1.1% (2001 est.)
HIV/AIDS - people living with HIV/AIDS:
860,000 (2001 est.)
HIV/AIDS - deaths:
9,000 (2001 est.)

Country name:
conventional long form: Russian Federation
conventional short form: Russia
local long form: Rossiyskaya Federatsiya
local short form: Rossiya
former: Russian Empire, Russian Soviet Federative Socialist Republic
Government type:
federation
Capital:
Moscow
(continue,,,)

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