「どんなお気持ちですか?」「今、どんな風に感じていますか?」
私は、以前、あまり仲良くない人にそういう聞かれ方をして、「あなたには、言いたくない」と思ったことがある。
一方で、自分のコーチや親しい仲間から聞かれれば、今は、安心して答えることができる。
しかし、今から10年くらい前は、多分、誰に聞かれても、今ここで、自分の気持ちや感情を感じることができなかったでしょう。
30代の半ば。
自分では、辛くてやり場のない気持ちにただフタをして、心に波風を立てないようにして、目の前の仕事をするしかなかったからだと思う。
そんな中で、自分が何を感じているのかが本当にわからなくなり、
自分の深いところの自分は、悲しかったり、怒りにうちふるえていたり、みじめだったり、孤独感に苛まれていたり、様々な感情の渦の中にいたはずなのに、
打ち消しながら、だんだん感じられなくなっていったように思う。
人によって、違うと思うけど、私の場合は、親から受けているメッセージによると思う。交流分析(TA)心理学的に言うなら、禁止令の「感じるな」、拮抗禁止令の「強くあれ」。
確かに、小さい時から、泣かない子だったと思う。
泣いても親は構ってくれなかったし、キレても親は全く動じないし、有頂天で喜んでいると「調子にのらないように」と釘をさされ、
感情表出することは自分にとってあんまり役に立たないことなんだとその時に学習したんだろうと思う。
しかし、子供の頃に比べ、大人社会では様々な人と絡みながら、子供の頃以上に、様々な感情を体験する。
そして、現実に対応するためには、自分の感情を一旦保留して、相手の感情を理解したり、察することの優先順位が高くなる。
いつも自分の感情は後回し。
交流分析では、本物の感情は4つだと整理している。
喜び、怒り、怯え、悲しみ
である。
喜びを感じられる時、私たちは何の問題もない。
怒りは、「今、ここ」の問題
怯えは、「未来」の問題
悲しみは、「過去」の問題
私の忘れられない悲しみのやり場は、心の中の引き出しへしまわれていて、怯えは、未来の準備を促すサインとしていつしか行動へと変わってい行く。
じゃ、怒りはなんだろう・・・
怒るは、多分直前に感じている「悲しみ系」や「怯え系」の2次感情じゃないかと思うことがある。
敗北、失望、羨望、嫉妬、自虐、孤独、恐れ、疑い、不信、自虐、絶望・・・
こうして書き出してみると、その1つ1つが瞬時に絡み合い、切り分け不能。
そりゃそうだ、
そもそも感情とは無秩序なものであるから。
そんな得体の知れない感情に、我々は力づけられたり、力を奪われたり。
そんな中で、
怒りは、適切に伝えることができなければ、また悲しみの仲間入りをしてしまう。
怒りで相手を傷つけてしまえば、相手の悲しみになる。
相手の悲しみに気づけば自分の悲しみになる。
自分も相手も大事にするためには、なるべく丁寧に扱うに越したことがない感情であると思う日々であります。
私は、以前、あまり仲良くない人にそういう聞かれ方をして、「あなたには、言いたくない」と思ったことがある。
一方で、自分のコーチや親しい仲間から聞かれれば、今は、安心して答えることができる。
しかし、今から10年くらい前は、多分、誰に聞かれても、今ここで、自分の気持ちや感情を感じることができなかったでしょう。
30代の半ば。
自分では、辛くてやり場のない気持ちにただフタをして、心に波風を立てないようにして、目の前の仕事をするしかなかったからだと思う。
そんな中で、自分が何を感じているのかが本当にわからなくなり、
自分の深いところの自分は、悲しかったり、怒りにうちふるえていたり、みじめだったり、孤独感に苛まれていたり、様々な感情の渦の中にいたはずなのに、
打ち消しながら、だんだん感じられなくなっていったように思う。
人によって、違うと思うけど、私の場合は、親から受けているメッセージによると思う。交流分析(TA)心理学的に言うなら、禁止令の「感じるな」、拮抗禁止令の「強くあれ」。
確かに、小さい時から、泣かない子だったと思う。
泣いても親は構ってくれなかったし、キレても親は全く動じないし、有頂天で喜んでいると「調子にのらないように」と釘をさされ、
感情表出することは自分にとってあんまり役に立たないことなんだとその時に学習したんだろうと思う。
しかし、子供の頃に比べ、大人社会では様々な人と絡みながら、子供の頃以上に、様々な感情を体験する。
そして、現実に対応するためには、自分の感情を一旦保留して、相手の感情を理解したり、察することの優先順位が高くなる。
いつも自分の感情は後回し。
交流分析では、本物の感情は4つだと整理している。
喜び、怒り、怯え、悲しみ
である。
喜びを感じられる時、私たちは何の問題もない。
怒りは、「今、ここ」の問題
怯えは、「未来」の問題
悲しみは、「過去」の問題
私の忘れられない悲しみのやり場は、心の中の引き出しへしまわれていて、怯えは、未来の準備を促すサインとしていつしか行動へと変わってい行く。
じゃ、怒りはなんだろう・・・
怒るは、多分直前に感じている「悲しみ系」や「怯え系」の2次感情じゃないかと思うことがある。
敗北、失望、羨望、嫉妬、自虐、孤独、恐れ、疑い、不信、自虐、絶望・・・
こうして書き出してみると、その1つ1つが瞬時に絡み合い、切り分け不能。
そりゃそうだ、
そもそも感情とは無秩序なものであるから。
そんな得体の知れない感情に、我々は力づけられたり、力を奪われたり。
そんな中で、
怒りは、適切に伝えることができなければ、また悲しみの仲間入りをしてしまう。
怒りで相手を傷つけてしまえば、相手の悲しみになる。
相手の悲しみに気づけば自分の悲しみになる。
自分も相手も大事にするためには、なるべく丁寧に扱うに越したことがない感情であると思う日々であります。
根底にあるのは、幼少の頃の絶対的なる存在として君臨していた、
親という存在・・・。
とはいっても、けっこう反発したり、反抗してましたが。
仕事をする中での「耐え」の訓練みたいのも
あったのかもしれませんが、
最近ですかねえ・・・。
瞬間湯沸かし器で無くなったのは・・・(苦笑)
こんにちは。そうそう気が短いってお話、以前にも
うかがっていたような。
いやだなぁと思うような親の言動を自分の中に
取り込んでいたり、そんな親に気に入られるような態度を
いつしかとっていたり、いろいろありますよね。
耐え・・・
確かに、周囲とうまくやる方法を学習していきますよね。
自分を振り返ると、幼い頃から、瞬間湯沸かし器だった記憶はあまりないのですが、
いらっとしたり、カチンときたりは顔には出てたでしょうね(笑)
実際のところ何を感じているかわからない人の気持ちが
汲みとられることもなく放置されるくらいならば、
感情をお互いに認め合うことで、
逆にスムーズに進むこともあるだろうなと思ったりもしますね。