高山を訪ねた際に、お会いした真蓮寺の三島多聞住職とのお話から。
近年、心を病む人が増えていて、それ以外にも多くの人が思い、悩み、迷う昨今です。
人は一体どこに向かっているのか?
あっちで認められずと勝手に思い込み、こっちで満たされず、そっちで癒されず、行く先々で何かを求めながらも右往左往している。
じゃ、自分に帰ればいいじゃないか・・・・
なのに、最後に迎えてくれるはずの自分がいない。
なるほど、そうかぁ、そういうことが起きてるんや・・・。
私がどん底の時、あのエニアグラムのワークショップの時、自分の動機を知り、それを愛おしく思えた時、それを大事にしていこうと思った時、
自分が自分に言った言葉は「おかえり」やったもんなぁ・・・・
戻るも自分、受け容れるも自分やなぁ。
しかも自分をあるがままに。
以下は、歎異抄的な例えなのかもしれない。
織物は縦糸と横糸でできている訳なんだけど、私たちの日常もこの織物に似ていて、
横糸は自分のおきまりのコミュニティの中で通す糸、縦糸はそれに組み込むべき信念や信仰のような関係かと思います。
縦糸は信念・信仰だけでなく、自分を支えるものであり、そして自分に何かを気づかせるもの。
横糸だけでは、決して織れない。
当然、縦糸だけでも、布を織り上げることはできなくて、横糸と縦糸が織り成す自分・・・・
自分にとっての縦糸がこれから気になるところであります。
そんなことを、住職との話の中で思い出し、考えました。
たまたま、我が家も浄土真宗大谷派であり、何となく自分の腹に落ちる話でした。
たまにクリックよろしく。
↓
近年、心を病む人が増えていて、それ以外にも多くの人が思い、悩み、迷う昨今です。
人は一体どこに向かっているのか?
あっちで認められずと勝手に思い込み、こっちで満たされず、そっちで癒されず、行く先々で何かを求めながらも右往左往している。
じゃ、自分に帰ればいいじゃないか・・・・
なのに、最後に迎えてくれるはずの自分がいない。
なるほど、そうかぁ、そういうことが起きてるんや・・・。
私がどん底の時、あのエニアグラムのワークショップの時、自分の動機を知り、それを愛おしく思えた時、それを大事にしていこうと思った時、
自分が自分に言った言葉は「おかえり」やったもんなぁ・・・・
戻るも自分、受け容れるも自分やなぁ。
しかも自分をあるがままに。
以下は、歎異抄的な例えなのかもしれない。
織物は縦糸と横糸でできている訳なんだけど、私たちの日常もこの織物に似ていて、
横糸は自分のおきまりのコミュニティの中で通す糸、縦糸はそれに組み込むべき信念や信仰のような関係かと思います。
縦糸は信念・信仰だけでなく、自分を支えるものであり、そして自分に何かを気づかせるもの。
横糸だけでは、決して織れない。
当然、縦糸だけでも、布を織り上げることはできなくて、横糸と縦糸が織り成す自分・・・・
自分にとっての縦糸がこれから気になるところであります。
そんなことを、住職との話の中で思い出し、考えました。
たまたま、我が家も浄土真宗大谷派であり、何となく自分の腹に落ちる話でした。
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とってもためになるお話でした。
人生は織物
全ての人によって生きされていると思いました。
いつの日か微力ながらも誰かの縦糸になりたいものです。
病める人間関係も縦糸と横糸を場面場面で理解し合えば病む人も減少していく事でしょう!
縦糸に気が付き、自分の出番を見出せば
救われる人がいて、自分自身も充実感で満たされる事でしょう!
私自身は細く弱い縦糸ですが、誰かの横糸が通る事で丈夫な布に変わって行くと信じたいです。
>私自身は細く弱い縦糸ですが、誰かの横糸が通る事で丈夫な布に変わって行くと信じたいです。
ステキですね。
自分は、逆にどんな縦糸を自分のものにするか、そんなことばかりを感じていました。誰かの縦糸になろうだなんて考えが及びませんでした。
自分のことで精一杯になっていて、こんな私は誰かの縦糸になれるか?せめて研修講師としてはそうありたいと思っていますが。
自分の出番。
この言葉は最近自分の中でも暖めています。
皆、それぞれの持ち味が生きるように自分の出番を察知しながら周囲と協調しているような日々です。
上手く自分の布を織り、腹帯をぐっと締めたい気分です(熱)