日曜は、京都で悲惨な事故のニュースがあったばかりなのに
昨日はまた、幼い子が電車にはねられて亡くなるという、
痛ましい事故のニュースが夕方のテレビニュースから流れてきました。。
持病がある加害者の暴走により起こった事故は
発作が原因で事故を誘発したのか否かが問題になっていますが・・
テレビのニュースで映される暴走シーンから浮かぶ加害者の心理は
私には「必死で逃げたい」という思いしか伝わらなくて
悲しくなってくるばかり。。
撥ねられて亡くなってしまった方々は
綺麗な桜を愛でに京都まで来られて
よもや自分がそこで亡くなるとは思いもよらなかったでしょうし、
家族の方の無念を思うと、いたたまれない気持ちになってきます。。
このような悲惨な事故が二度と起こらないように・・
と、願わずにはいられません。。
亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈りします。。
そして・・、
電車に撥ねられた幼い子供の事故は
先日、花見に訪れた夙川での道中を思い出しました。。
夙川の駅を降りて、お弁当屋さんを探して歩いている時に
線路沿いの小さな踏切の処で
通り過ぎる電車を待っている間のことでした。。
小さな子供を2人連れられたお母さんと祖母らしき方が
その踏切の前にいたのですが
小さな子供2人がチョロチョロと動くのはいいのだけれど
お母さんも祖母らしき人も
子供の手を繋いでいるわけでもなくお喋りをしていました。。
と、その光景を見た大将が急にブツブツと文句を言い出したのです。。
「あんな小さい子ほったらかして・・!電車に撥ねられたらどないするねん
」
娘と私は、いやいや
言いたいことは解るけど・・
と、大将の服の裾を引っ張ったのですが・・
こう言う時というのは、
注意をしてよいのかどうか
と戸惑いながらも
結局、注意できないままなのが他人なのですよね・・
注意することは解っていても、
注意して素直に受け取ってもらえればいいけれど・・
という思いが先立ってしまい
それができなくなってしまうのですよね
第一に、当のお母さんご本人が
自分の子供を信じているのかどうかはわかりませんが、
手を放して歩いているのですから・・・
事故というのは
ほんのちょっとの油断で起こります。。
まさか自分が・・とか、
自分は大丈夫・・などという保証はどこにも無いのに
妙な自信?のようなものが
何故か自分の中に備わってしまっている。。
そんな人が多いのが現状ではないでしょうか。。
私は幼い頃、母から手を離されたことはありませんでした
いつも「手首」を掴まれて歩いていたのです。
しかも、それは小学校に入るまで。。
母が、何故私の「手」ではなく「手首」を掴んでいたのかというと、
手は振り払うと離れてしまうけれど、手首なら離れることが無い
からだと聞かされたのは、
高校生になった時に、幼い子の手を放して歩いている母親を見た時でした。
「小さい子の手は絶対に離したらあかんのや」
それが母の教訓で、
私も娘たちが大きくなるまで
何処に行く時も手を放したことがありませんでした。。
手首を握られて歩くのは窮屈だったけれど、
そのおかげで、
私は今の年まで大した怪我もせずに生きてこられてました。
母と繋いだのは「手」だけではなく「命」だったということを
母が亡くなった今は身に染みて思います。。
若いお母さん、
お友達とのお話は刺激があり、
子育てから解放されるひと時をも味わえますが
子育ての時期は一生続くものではありません。。
小学校に入学する時期にもなれば
否応なしに親から徐々に離れていくものです。。
子供の「手」も
握りしめたり、繫いでいられるのは小さい時だけなのです。。
小さい時にしっかり手を繋ぎ、
深い絆で心を繫ぎとめておかないと
いつか「手」も「心」も遠い処に離れてしまうのではないでしょうか。。
事故に遭ってしまった幼子の手も
お母さんがしっかり繫ぎとめていれば
一人寂しい思いをせずに済んだのではないか・・と悔やまれてなりません。
「自分は大丈夫」「誰かといるから大丈夫」などという安心など
今の世の中の何処にも無いのです
大切な子供の命をお母さんの優しい手で繫ぎとめてやってください