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番外編・12~多摩川羽村堰

 多摩川河口から約54キロ遡ったところに“羽村堰”がある。写真の上方が多摩川上流で本流は左側から下流に向かう。中央の取水口から玉川上水が始まり右下に向かって流れていく。この取水口と玉川上水は江戸時代に建設され1653年(承応2年)に完成した。玉川上水は当時爆発的に人口増加した江戸の住民のための上水道で羽村堰から取水して四谷大木戸までの全長約43キロになる。高低差はわずか92.3メートルしかなく、これは100メートル進むと21センチ下るという極めて緩い勾配になる。現在とは比べものにならないほど測量技術が低かった時代にここまで緻密に設計されたのは驚きではある。
 この日は猛暑日予想だったが、午前8時に自転車で自宅を出発。国道16号線を北上し拝島橋を渡ってから多摩川沿いのサイクリング道路を遡る。水鳥公園、福生南公園などを通過して羽村堰に到着。自宅からは約22キロになる。この後狙いのカワラニガナを撮るためにもう800メートルほど進み花を撮ってから帰路についた。午前11時には自宅に戻り往復約45キロのサイクリングだったがしっかり日焼けした。ちなみに八王子市の最高気温は37.2℃だった。

♪♪みどりの風も さわやかに
  にぎるハンドル 心も軽く
  サイクリング サイクリング
  ヤッホー ヤッホー
  青い峠も 花咲く丘も
  ちょいとペダルで 一越えすれば
  旅のつばめも ついてくる ついてくる
  ヤッホー ヤッホヤッホー ヤッホー
  行こうよ君と どこまでも
  はずむ銀輪 リズムに乗って
  サイクリング サイクリング
  ヤッホー ヤッホー
  波もささやく 浜辺の道を
  若い歌声 合わせて走りゃ
  潮のかおりが 夢を呼ぶ 夢を呼ぶ
  ヤッホー ヤッホヤッホー ヤッホー
(『青春サイクリング』 作詞:田中喜久子 作曲:古賀政男 歌:小坂一也
(JASRAC許諾第J210129422号)
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番外編・11~ヤモリ

 我が家の洗面所の窓に張り付いている「ヤモリ(家守)」。ヤモリ科ヤモリ属の爬虫類で秋田県以南や中国東部、朝鮮半島に分布している。「ニホンヤモリ(日本家守)とも呼ばれるが日本固有種ではなく平安時代以降に大陸から渡来したと考えられている。体長は12~13センチで淡褐色の身体に斑がある。
 写真は家の中から窓を撮ったものでこの後外から撮ろうと思ったが残念ながら逃げられてしまった。以前、雨戸を開けた拍子に張り付いていたヤモリが中の畳に落ちたことがあった。トカゲと違って動きは遅いのでそっとつまんで外に出してあげた。ヤモリは昆虫やクモを捕食し人間に対して嚙みつくことはない。“家守”の字の通り家を守るものとして大事にする風習がある。
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番外編・10~ニホンザル2

 都内で今年初の真夏日になった昨日、初夏の花を求めて奥高尾を歩いてきた。標高392mの大垂水峠から標高670mの小仏城山まで登り下りは日影林道をバス停まで歩いた。その日影林道で頭上の電線をスルスルと動く物体に気付き見上げると電柱に「ニホンザル(日本猿)」がしがみついていた。以前、多摩森林科学園で野生のサルを見たことがあったが奥高尾では初めてだった。ニホンザルはオナガザル科マカク属の霊長類で体長は50~70センチ。群れで生活するがここでは1匹しか見えなかった。一瞬のことでやや逆光になってしまったがご容赦頂きたい。クマでなくて良かった。ところで、この日ホトトギスの初鳴きを聞いた。
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番外編・9~チューリップ50周年

 1972年6月にビートルズに憧れて福岡から上京し『魔法の黄色い靴』でデビューしたフォークグループ『チューリップ』。昨年4月から全国各地で50周年コンサートツアーを開催し先月全日程を終了した。秋から追加公演でもう一踏ん張りされるようだ。残念ながら私はコンサートには行けなかったがチューリップの曲はいつもウォークマンで聴いておりたまにLPでも聴いている。
 私はチューリップと浅からぬ縁があると個人的に思っている。大学生時代に経営学のクラブに所属しており、その年間活動費約100万円を捻出するために毎年コンサートを企画していた。私が2年生の時は『アリス&高木麻早コンサート』を日比谷公会堂で開催し、幹事年次の3年生時、1976年6月19日に神田共立講堂で『チューリップ』コンサートを開催した。2年生時のノルマは1枚1,500円のチケットをせいぜい30~40枚だったのでほとんど友人に買ってもらって捌いたが、幹事年次のノルマは120枚以上で、女子大を訪問したりチラシに自宅の電話番号を書いて電柱に貼り連絡があるとする購入希望者のところまで届けたりした。
 チューリップはデビュー後はなかなかヒット曲がなかったが1973年『心の旅』がジワジワと売れ始め、1974年に『銀の指輪』『青春の影』、1975年『サボテンの花』がヒットし漸く世に認知されるグループになった。当時私達はプロデュース会社とコンサートの出演者を誰にするかという議論を重ね将来性があるという判断で『チューリップ』に決定した。コンサートは2,000席満席の大成功でクラブの運営費を何とか確保できた。コンサートの始めにはステージでクラブの幹事長(彼はその後私と同じ会社に就職し生涯の友になる)が緊張しまくって挨拶をし、開演後にその挨拶を財津和夫さんがいじったのを覚えている。
 音楽好きの私は就職後もチューリップを応援しており、1977年『ブルースカイ』、1979年『虹とスニーカーの頃』などのヒットを喜んだがグループは1989年に解散した。1995年にビートルズの亡きジョン・レノンの未完成曲を、残りの3人のメンバーが手を加えて完成させ1995年に"Free as a Bird”でリリースすると、メンバーの姫野達也さんが元メンバーに声を掛けてチューリップは1997年に再結成した。財津さんは1989年の解散ツアー京都公演時に『1999年9月9日午前9時9分9秒に金閣寺で会おう』と約束し10年後に元メンバーはその通り金閣寺に集結した。
 写真はチューリップの1973年渋谷公会堂コンサートのLPで若い財津さんが一番上にいる。財津さんは2017年の全国ツアー中に大腸がんが判明したがその後復活されてコンサート活動を続けられている。アリスの谷村新司さんは今年3月に急性腸炎で手術を受けられて現在は療養中と聞く。二人とも昭和23年生まれであり是非病気を克服され音楽活動を長く続けて欲しい。

♪♪あーだから今夜だけは 君を抱いていたい
  あー明日の今頃は 僕は汽車の中
  旅立つ僕の心を 知っていたのか
  遠く離れてしまえば 愛は終わると言った
  もしも許されるならば 眠りについた君を
  ポケットに詰め込んでそのまま連れ去りたい
  あーだから今夜だけは君を抱いていたい
  あー明日の今頃は 僕は汽車の中
(『心の旅』
作詞・作曲:財津和夫 歌:チューリップ 昭和48年)
(JASRAC許諾第J210129422号)
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番外編・8~ニホンザル1

 多摩森林科学園“第3樹木園”で見掛けた「ニホンザル(日本猿)」。オナガザル科マカク属の霊長類で園内にはサル出没の注意看板がある。まさか実際に野生のサルが見られるとは知らず散策路を進んでいると遠くで何か動いたものがあった。野鳥かなと思ったがしばらく進むとサルが遠くに見えた。写真のロープと白札は観察路沿いのものでそこは人が普通に歩く道になる。すぐ近くにも数匹のサルがいる。ここは樹木園の一番奥で私以外には人はいない。サルが集団で襲ってこないかと少し不安になったが山道を進むうちにその姿は皆消えてしまった。
 さて多摩ニュータウンの南大沢(旧由木村)から北野や八王子中心部に向かう丘陵地に標高160メートルの“野猿峠(やえんとうげ)”がありそこを通る都道160号線は“野猿街道”と呼ばれている(野猿街道の八王子市下柚木交差点から東の国立市青果市場東交差点までは国道20号府中相模原線)。“野猿峠”は古くは“猿丸峠”や“猿山通り”と呼ばれ峠で馬や牛を休憩させる水飲み場があった。昔はその辺りにも野生のサルがいたのだろうと思っていたらさにあらず。野猿峠の名の由来には諸説あるようだが、戦国時代の滝山城城主・大石定久が亡くなった後、現在の下柚木辺りに葬られた。大石家に由来するものは由木城跡、殿ヶ谷戸、御嶽神社、大石やかた公園などいくつかある。その墓が武甲山(埼玉県)を遥かに望む峠にあったためそこを武甲山の名を冠して“甲山”と呼ぶようになった。そしていつしか“甲”の字が“申”と読み誤られ“申山”となりその後“猿山”→“猿丸峠”→“野猿峠”となったという。京王線北野駅付近の打越交差点では地元の不動産屋の大きな看板があり『“野猿”を“のざる”と読むべからず』とある。野猿峠にサルはいなかった。 
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番外編・7~皆既月食&惑星食

 昨夜は“皆既月食”と“惑星食”が同時に起こる442年振りの大変珍しい現象ということで“にわか天文ファン”となり夕方から何回も満月を見上げていた。月食が始まったのは18時9分で皆既食は19時16分から20時42分まで。その間の20時41分に天王星が月の裏側に潜り21時22分にまた出現した。月の部分食は21時49分に終わり綺麗な満月に戻った。写真は皆既月食の最中、20時39分のもので月の下に小さく輝く6等星の天王星が見える。天王星はこの2分後に月に隠れしばらくして月も左側から次第に輝き始めた。60数余年生きてきて天王星をそれと認識して見たのは初めて。それにしても天文学者さん達の計算は素晴らしい。典型的な文科系の私にはなぜこんなに正確に計算できるのか全くわからない。

♪♪君がここから出ていく訳は
  幸せ描いた僕の設計ミスさ
  図面通りにゃいかねえもんだな
  こんなに早くすきま風吹くなんて
  夢囲むガレージ セントラルヒーティングの愛
  なんでも揃えたのに
  君が出てゆく ドアがはずれる
  窓は落ちる トイレも壊れてしまう
  君という蝶つがいが ひとつはずれただけで
  想い出の垣根も倒れた
  これほど設計の才能がないなら
  天文学者をめざせばよかったよ
  バミューダの謎やピラミッドパワーに
  未確認飛行物体とのコンタクト等々
  それから新しい彗星に自分の名前を付けてしまおう
  そうさそれが僕に一番お似合いの
  素敵な仕事じゃないか
  星の数数えて 夢の数数えて
  恋人はそうアンドロメダ
  幸せの設計技師になれずに
  傷ついた若者の肩を抱いて
  したり顔でやさしく言ってやるんだよ
  きみーい、それでも地球は廻っている
(『天文学者になればよかった』
作詞・作曲・歌:さだまさし 昭和53年)
(JASRAC許諾第J210129422号)
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番外編・6~献花

 今日、東京永田町の自民党本部を訪れ故安倍晋三元首相に献花させていただいた。先日も記載したが、35年前、私は当時安倍晋太郎代議士の秘書をされていた安倍晋三氏に何度かお会いしてお世話になったことがあった。そのご縁もあり安倍氏のこれまでの功績に感謝し哀悼の意を捧げてきた。改めて心よりご冥福をお祈りしたい。
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番外編・5~『由木の植物目録2022』

 長池公園副園長のK氏が約20年に亘るライフワークとして由木地区(東京都八王子市東部)に生育する野生植物についてひとつひとつ名前を調べ上げその成果として『由木の植物目録2022』を完成させた。目録には由木で確認された全1,731種(品種を除く=例えばタチツボスミレ、オトメスミレ、シロバナタチツボスミレ、ミドリタチツボスミレは1種に纏められている)で、国内有数の植物相の豊かな高尾山周辺では約1,600種が確認されていることを思うと、由木地区も極めて豊かな植物相であることがわかる(但し目録には帰化植物や栽培品の逸出などの外来種が569種含まれている)。目録には、和名、学名、生育地域、産量(ごく稀、普通など)などが詳しく掲載されており、写真は珍しい植物が93枚のみ掲載されているが、当然1,731種の写真など膨大なバックデータが存在していておりすべての種に写真を載せたら大図鑑になる。氏は1987年生まれなので今年35歳。私の息子より若いが、私の植物観察の師匠でありその探求心の強さや知識の奥深さはただただ感服するばかりである。余談ながら目録のうち2~3種類は私からの情報提供で掲載されているものでわずかでも協力できたことは嬉しい限り。今後の励みにもなる。18年前に私がこのブログを始めたのは自分の住む南大沢の植物名を知るためであり、氏の研究活動と偶然にも重なっている。地域は由木地区を中心としているがそれ以外に高尾山や多摩川など自分の脚で移動できる範囲の植物も掲載しており更にタチツボスミレとオトメスミレは別にカウントしているのでこのブログの現時点の植物数は2,066種となっている。
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番外編・4~パラリンピックチケット

 9月5日に東京2020パラリンピックが閉幕した。橋本聖子組織委員会会長が閉会式で『オリンピックとパラリンピックがあって良かった。私はその価値を信じる。』と挨拶された。また記者会見では『困難な状況下で五輪・パラリンピックを開催し、しっかりとバトンをパリにつなげたことを誇りに思いたい。完全な形でやり遂げることができなかったことは100%成功だったとは言えない。成否は歴史が証明してくれる。やって良かったと言ってもらえるようどのようにレガシーを移行させていくのかが次の大きな課題だ。』と述べられた。コロナ禍という異常な状況での開催で賛否両論だったが、『日本だからこそできた。』『日本でなければできなかった。』という海外からの称賛を日本人として誇りに思いたい。
 残念ながら無観客開催となりせっかく当選した“プラチナチケット”は“幻”になってしまったが、記念としてダウンロードで入手した。写真右から『8/24開会式:国立競技場A席(90,000円)』『8/29陸上競技:国立競技場B席(4,000円)』『9/2車いすバスケットボール:有明アリーナA席(5,000円)』『9/5閉会式:国立競技場A席:(90,000円)』となる。
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番外編・3~高尾山パラリンピックモニュメント

 今日からパラリンピアン達による熱戦が始まった。日本選手団は金メダル20個を目標にしているが、メダルの色に拘らず自分の持てる力を出し切って欲しい。
 せっかくなのでパラリンピックの歴史について触れておこう。その起源は第2次世界大戦で負傷した兵士のリハビリとして1948年ロンドン五輪に合わせて病院で行われたスポーツ大会に遡る。その時の種目は車いすアーチェリーで参加者は16名だったという。1952年に国際大会となり、その後五輪の年に同じ地で開催したいという希望が叶えられ1960年のローマ五輪後に第1回パラリンピックが開催された。1964年東京五輪では下半身麻痺を意味するパラプレジア(paraplegia)とオリンピック(olympic)を組み合わせた“パラリンピック(paralympic)”の造語が生まれ、その翌年には日本障がい者スポーツ協会が発足している。1988年ソウル大会からパラリンピックが正式名になり、もうひとつの(パラレル=parallel)五輪という意味も持つことになった。
 高尾山頂では4月14日にオリンピックシンボルのモニュメントが設置されていたが、今はパラリンピックシンボルの『スリーアギトス(three agitos※)』モニュメントが設置されている。この日は幸いにも遠くに夏の富士山が見えた。
 ※:agitoはラテン語で『私は動く』の意味で赤・青・緑の三日月形を組み合わせパラリンピックのシンボルマークとなっている。
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