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鉄道・12~C62型2号機

 函館本線小沢駅を出発する急行『ニセコ』。牽引するのはC62型蒸気機関車の重連で先頭の2号機のデフレクターに輝く“燕マーク”が美しい。これを見たのは今から半世紀以上も前のこと。できればあの頃にもう一度帰りたい。
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鉄道・11~入場券

 鉄道ファンだった学生時代には訪れた国鉄の駅ではできる限り硬券の入場券を買っていた。SL撮影旅行で訪れた北海道の入場券は先日掲載したが、写真左側は昭和46年12月の米坂線SL撮影時のもので中央下の昭和47年8月は中央西線のもの。右上は大学1年時の東海道・山陰道を自転車旅行のもので、東海道本線磐田駅と山陰本線諸寄駅ではその待合室で一夜を過ごした。右下は大学2年時の北海道自転車旅行で銭函駅は“銭が貯まる”という金運の入場券。当時、道央の広尾線では愛国駅から幸福駅行きの切符が大流行していたが、それと同様に広尾線新生駅から大樹駅行きの切符が新生児誕生のお祝い用に流行っていた。これは“新しく生まれて大きく育つ”という願いが込められている。この時に愛国駅→幸福駅の切符も買ったはずだが何故か見当たらない。どこかに別保管しているようだ。
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鉄道・10~中央西線D51

 昭和47年、高校2年生の夏休みに中央西線へ日帰り旅行した。友人と新宿から急行“アルプス”に乗り、塩尻駅で降りて中央西線に乗り換える。長野方面に向かう中央東線は既に電化されていたが、名古屋に向かう中央西線は電化前で貨物列車を引くD51形蒸気機関車が最後の活躍をしていた。私達は各駅停車のディーゼル列車に乗り込み洗馬駅を過ぎると両側から山が迫ってくる。島崎藤村の『夜明け前』の通り“木曽路は全て山の中である”の始まりになる。D51が引く貨物列車の時刻をダイヤグラムで確認してまずは贄川駅で降りて撮影地点を探す。一両撮ったら次は木曽福島駅、南木曽駅と撮影ポイントを探しながら南下していく。写真は木曽川に掛けられた鉄橋を渡るD51。1機だけだと思って待っていたら思い掛けず“重連”で大喜びした記憶がある。しかし50年後に改めて見てみると2機目は噴煙を上げていないのでおそらく回送で連結されていただけだろう。中央西線の蒸気機関車は山岳を走るため煙突に集煙装置が付けられ火が樹に燃え移らないようにしていた。写真で煙が出る部分に四角い装置が見える。
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鉄道・9~駅スタンプ

 北海道SL撮影旅行で入場券購入の他に立ち寄った駅で“スタンプ”も記念で押していた。そのスタンプの日付でも当時の行程がわかるが、8月9日午後4時過ぎに上野駅から“はつかり”で出発し青森駅に翌10日の午前0時過ぎに到着した。当時の記憶は断片的にしか覚えていないが、写真や切符を見ていると思い出す。列車が青森駅に着く前に車掌が青函連絡船旅客名簿を配りそれに住所氏名を記入して乗船時に提出する。青森駅の乗り換え時間は20分ほどで列車を降りホームを真っ直ぐ進むとそのまま青函連絡船に乗船できた。記憶では青函連絡船は午前0時30分に出航し函館には午前4時20分に到着した。到着時間は早朝なので船内にクラシック曲の『ペール・ギュント:朝』(グリーク作曲)が流れたのを覚えている。道内では函館駅、五稜郭駅、大沼駅、大沼公園駅、ニセコ駅、倶知安駅、小沢駅、札幌駅、留萌駅、深川駅、旭川駅、稚内駅でスタンプを押している。帰路の青函連絡船は8月15日午前0時20分発の“津軽丸”のA席(グリーン)だった。高校生の身分なので道内は夜行列車やユースホステルで宿泊代を倹約していたが、普通席が満席で止む無くA席にしたと記憶している。A席のリクライニングはほぼ水平近くまで倒せて青森までは熟睡だった。
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鉄道・8~周遊券・入場券

 昭和46年8月9日15時40分、高校1年生の私は周遊券を手に上野駅から“はつかり2号”に乗り東北本線経由で青森駅に翌日0時10分に着いた。青函連絡船“松前丸”は0時30分に出航し函館には4時20分に着く。旅行中に降り立った駅では記念に硬券の入場券を買ったが今我が家に残っていた本旅行の最初の入場券は函館本線“小沢駅”。8月11日の刻印がある。小樽駅、札幌駅、留萌駅、深川駅、旭川駅を8月12日に通過し、旭川駅から急行“利尻2号”に乗り翌朝に稚内駅に到着した。その後、引き返して大沼駅などに寄り8月14日に函館に戻っている。その後青函連絡船“津軽丸”で本州に渡り往路とは異なり奥羽本線、羽越本線で新潟駅を経由して戻ってきた。周遊券の裏面で当時の国鉄路線がわかるが、現在の路線図と見比べると道東、道央、道北などでかなりの路線が廃止されている。
 ところで国鉄時代から鉄道は東海道本線、山陽本線など“本線”が付く路線と、上越線、常磐線など“本線”が付かない路線がある。この違いには明確な定義が無いようだが、国鉄時代にそれぞれの地方の主要な路線に“本線”を付けたようだ。その主要路線に繋がる路線はいわゆる“支線”とされた。特急列車が走る常磐線や上越線はどちらも東北本線の支線としての扱いとされ、民営化後もそのままの呼称が使われている。大都市近郊路線では例えば東北本線で上野駅から宇都宮駅は宇都宮線とするなどわかり易くしている。
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鉄道・7~倶知安駅C62

 昭和46年8月11日14時15分、急行“ニセコ3号”はC62形蒸気機関車(愛称:シロクニ)に牽引されて函館駅を出発した。北海道駒ケ岳を間近に見ながら森駅(森の“いかめし”は昭和16年に誕生し今年は82年目になるそうだ)を過ぎると海岸沿いを進み16時20分に長万部駅に到着する。ここからは険しい峠を越えるため6分間の停車中に先頭にもう1機の蒸気機関車を増結した。この後、急勾配、急曲線が連続する峠を噴煙を上げ力を振り絞って登っていくが、その鉄の塊が人間らしく見える瞬間でSLファンを魅了した。列車はニセコ駅を過ぎ18時3分に倶知安駅に到着。
 写真は18時7分、夕暮れの倶知安駅を出発するC62重連の雄姿で、この後、銀山の峠を越え余市駅を経由して小樽駅で増結した蒸気機関車を切り離し札幌駅には20時6分に到着する。当時は函館駅から札幌駅までは“山線”経由で約6時間掛かったが今は“海線”回りの特急で4時間弱で着く。計画中の北海道新幹線は函館北斗駅~札幌駅間は1時間13分になるという。早くなるのは便利だが、昔の車両に座り窓を両手で上げて窓際に素焼きのお茶の急須を置き短い停車時間で買った駅弁を頬張りながら遠くの山や海を眺めて居眠りする。そんな鉄道旅行をまたやってみたいものだ。
 ちなみに鉄道ファンならご存知だが、形式名の頭に付くA、B、C、Dは蒸気機関車の動輪の数を意味している。写真のC62形では小さな前輪の次に大きな動輪が3つ(片側)ある。つまりA=1、B=2、C=3、D=4ということで有名なD51(デゴイチ)は動輪が4つある。このC62形の動輪直径は1,750ミリメートルで私の身長と同じ。D51形の動輪直径は1,400ミリメートルになる。この呼び方は以降のディーゼル機関車や電気機関車にも引き継がれていて、例えばDD51形はディーゼルのDに動輪が4つなのでDD。EF65形は電気(electric)のEに動輪が6つあるのでEFとなる。
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鉄道・6~さよなら蒸気機関車

 昭和45年(1970年)10月の国鉄ダイヤ改正で高島線(東海道線の貨物支線で横浜港~鶴見~新鶴見操車場)を走っていた蒸気機関車が廃止されるのを記念して、東京駅から横浜港駅までD51形蒸気機関車が“さよなら運転”した。当時中学3年生のハマっ子は鶴見区の花月園付近でその雄姿をカメラに収めた。私の中学時代の愛読書は日本交通公社発行の『時刻表』でその数字を眺めながら頭の中で日本中を旅行していたものだ。最近、当時の時刻表の復刻版が発売されておりまた楽しんでいる。
 高島線はJR鶴見駅の構内を通るのでホームからもD51形蒸気機関車(愛称:デゴイチ)をいつも見ることができた。新鶴見操車場(現:横須賀線新川崎駅の南側)の広大な貨物ヤードにはSL用の転車台があり当時は良く見に行った。
 昭和55年(1980年)、東海道線と並行して品川⇔川崎⇔横浜を走っていた横須賀線が品川⇔鶴見間は操車場東側の貨物線(品鶴線)を走行して新設の新川崎駅を経由し川崎駅は通過せずに横浜駅に向かうようになった。新鶴見操車場はその貨物ヤードとしての使命を次第に縮小していきついに新鶴見信号場に降格した。国鉄民営化後には広大な操車場跡地はマンション、大型商業施設、医療施設、小学校や大手企業の研究施設などが建設されて今に至る。
 写真の791号機(愛称:ナクイチ)は長く新鶴見機関区に所属していたが、この後、秋田県の大舘機関区に移って羽越本線を走り翌昭和46年に廃車になった。
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鉄道・5~函館本線D52

 函館本線は大沼駅の北500メートルの地点で駒ヶ岳の西を通る線と東の海岸沿いを通る砂原(さはら)線に分岐する。写真はその分岐点付近から南の大沼駅方向を撮ったもので振り返ると雄大な北海道駒ケ岳が聳えている。この函館本線の貨物列車を牽引していたのがD52形蒸気機関車(愛称:デゴニ)。昭和18年から戦時中の石炭輸送などを目的にD51形の1,000トンの牽引を上回る1,200トンの牽引を目標に設計され285両が製造された。戦後に余剰になったD52機関車の一部が新しくC62形に改造されている。写真の468号機は現在京都鉄道博物館(旧:梅小路機関区)に保存されていて私はこの何十年後かに再会している。
 このカラー写真は富士フイルムだったが残念ながら色が褪せてしまっている。この約10年後に小西六写真工業(現:コニカミノルタ)が100年経っても色が変わらないという“サクラカラー百年プリント”を発売したが、その時は私は既に社会人で鉄道写真撮影は卒業していた。
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鉄道・4~急行ニセコC62重連

 函館本線は函館駅を出発すると駒ヶ岳付近で勾配が急になるが基本的には長万部までは海沿いのやや緩やかな線路を走る。長万部駅からは室蘭本線・千歳線を経由して札幌駅に至る“海線”と、倶知安駅や小樽駅を経由して札幌駅に至る“山線”に分岐する。現在は“海線”のほうがメインになっているが、“山線”のほうが全通時期が早く(明治30年代)30キロ以上短いため以前はそちらが基幹路線だった(海線開通は昭和3年)。その“山線”は長万部駅を出発すると蕨岱(わらびたい)、上目名(かみめな)、銀山、塩谷など最大20パーミル(1キロで20メートル)の急勾配・急曲線が連続する峠があるため当時は蒸気機関車1両では登ることができず長万部駅でもう1両増結繋していわゆる“重連”で峠を登った。
 写真は目名峠を噴煙を上げて必死に登る急行“ニセコ”。引っ張るのは最強の蒸気機関車C62(愛称:シロクニ)でこの雄姿を見るために当時は多くの鉄道ファンがこの“山線”を訪れた。
 C62形蒸気機関車は戦後余剰していた貨物用D52形を旅客用機関車として改造された。動輪直径は1,750ミリメートルで国内最大となり、昭和25年には東海道本線の特急“つばめ”や“はと”、その後“かもめ”“あさかぜ”“はやぶさ”“みずほ”などを牽引した。C62の2号機のデフレクター(ボイラー前部の左右にある煙除け板)には“つばめ”マークがあり、当時、函館本線を走るC62のうち2号機と3号機が牽引するものを“ゴールデンコンビ”、3号機が前になるほうを“シルバーコンビ”と呼んでいた。残念ながら写真はそのどちらでもない。
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鉄道・3~稚内駅

 昭和46年の夏。高校1年生の私は旭川駅から稚内駅に向かう夜行列車、急行“利尻2号”の普通車ボックス席に座っていた。窓の外は真っ暗で牽引する蒸気機関車の汽笛が時々『ポー』と聞こえてくる。その音を子守唄に旅の疲れからかいつの間にか見知らぬ隣人の肩に寄り掛かり眠ってしまっていた。列車は翌日早朝に稚内駅に到着し、牽引する蒸気機関車が転車台で方向転換して再び先頭に付きすぐに旭川駅に向かって引き返す。宗谷岬観光などの時間は無く道内周遊券を持っている私は一旦改札を出て記念の入場券(硬券)を買ってまたホームに戻り同じ車両に乗り込んだ。写真は稚内駅に停車中のC55形蒸気機関車(愛称:シゴゴ)で昭和10年から全62両が製造された。写真の49号機はSL廃止後は稚内港北防波堤ドームに静態保存されていたが塩害による老朽化で平成8年に解体され今は動輪だけが残されているようだ。
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