ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

1/8日 ノーマルタイアで御坂峠の天下茶屋まで行けてしまった。(上の段):富士山三昧の一日

2016-01-13 07:11:42 | 草花
小生の車はノーマルタイアしかつけていません。
冬の間はスタッドレスタイアで走るような道には入らないことを前提としています。
でも、突然の降雪に走らねばならないことも考慮して、タイヤチェーンは用意していますが、きっと装着には手間取ることでしょう。

先日、ネット上で富士山の北側、河口湖のそばの御坂峠まで、1月3日に走った人が路面凍結がなかったことを記事にしていて、それを読んだ時に、「それならば三つ峠を歩けそうだ・・・」と、にわかに閃いてしまいました。

正月3日から、ずっと雨や雪は降っていないので、路面は乾いたままの筈ですから、「今のうちに行っておこう・・・」という気持ちが強まり、8日の朝に家を出て一路、御坂峠に向かうことにしました。
最初の目的地は旧街道沿い、御坂隧道手前の天下茶屋ですね。
ここは太宰治と井伏鱒二が逗留して執筆活動をしていた場所であり、太宰の著書「富嶽百景」の中で、
「富士には月見草がよく似合う」という言葉を織り込んだ、その眺めの場所でもあります。

「富嶽百景」中で、太宰は下の町に出かけた帰り道に、バスに乗り、隣に座った、老婦人の振る舞いに心惹かれています。
以下引用:
>
老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
 さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と、立派に相対峙あひたいぢし、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ。・・・・・・(引用終了)


せっかくの太宰の言葉ではありますが、これが一つの比喩的表現とは理解していますが、小生的には富士山に月見草は、まったくミスマッチだと思っています。

旧道の御坂道・そこの天下茶屋に行くまでの道中は富士山がずっとよく見えていました。
そして天下茶屋から御坂山・御坂峠まで歩いて日暮れになりましたが、夕景の富士山も一味違った姿に思えました。

その一日を上・下二つの段に分けてレポートします。
蒲原付近から見た富士山 ↓

前山の上に姿を見せています。



富士川左岸道の駅から ↓

道の駅から見えなかったので、店の人に聞いたところ、建物の中央部に屋上に出られる階段があり、それで、屋上に出たところ、この姿がありました。宝永火山が右側に見えています。



富士山の西側 ↓

富士市からは富士山の山裾の遠くを時計回りで周回するようになります。ここからでは宝永火山が見えません。



ビューポイントから ↓

道にわざわざ「ビューポイント」という施設を案内していたので、そこに立ち寄りました。
ここからですと真正面に”大沢崩れ”が見えています。



”大沢崩れ”のアップ ↓

かなり激しく崩れていますね。地表の皮の薄くなったところから、噴火しないものでしょうか。



北西斜面 ↓

だいぶ回り込んで北西側に来ています。雲が邪魔のようでいて、山体を隠していませんので、これも景色として受け入れておきます。



御坂隧道手前の峠の茶屋 ↓

旧道に入りすぐに御坂隧道(すいどう=トンネル)のところに着きました。これから奥は冬期通行止めです。
道の右側に峠の茶屋がありました。この茶屋で太宰治が60日ほど逗留して執筆活動をしていたのです。
彼は先に来ていた井伏鱒二とともに逗留し、井伏が街に帰った後も居続けたのでした。

ここから太宰は井伏鱒二とともに三つ峠山に登っているのですが、小生もそれに倣いたいと思って来ています。

なおこの峠の茶屋のことを「天下茶屋」ともいいます。
そのいわれは、正面に臨むその絶景から富士見茶屋、天下一茶屋などと呼ばれていたものを、徳富蘇峰が新聞に天下茶屋と紹介したことがきっかけで、「天下茶屋」と呼ばれるようになったそうです。
コメント (12)
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