井上先生の就任後、チームの主力となった選手は駒崎康弘氏である。
駒崎氏は日大豊山中学時代から活躍し、第8回全国中学校大会200mバタフライで優勝した。
高校2年生の時には日本選手権200mバタフライで優勝(その後5連覇)、同年のバンコクで開かれた第6回アジア大会では100m・200mバタフライで優勝した。
大学1年生の昭和47(1972)年、ミュンヘンオリンピック代表選手に選ばれ、400mメドレーリレーで第6位に入賞した。
下の記事は昭和46(1971)年の育友会新聞『ぶざん』第3号である。
駒崎氏は在学中、インターハイで3年間優勝しており、3年生の時には100m・200mバタフライで優勝している。
当時、優勝争いをしていたのは広島の尾道高校である。
日大豊山は藤木正隆氏の100m背泳ぎでの優勝などもあったが、最終日、最後のレースである800mリレーで逆転され、総合得点は尾道50点、日大豊山49点で1点差の第2位であった。
その時の育友会新聞の記事はそのときの悔しさが伝わってくる内容である。
駒崎氏のお兄様は仕出し料理『茨城屋』を高田馬場で経営され、長年にわたり合宿所生徒のお弁当や校内合宿の食事を提供していただいたことを記しておきたい。
日大豊山水泳部は、昭和49(1974)年から53(1978)年までインターハイで総合第2位・第3位を続けた。
昭和49(1974)年には大石則夫氏が100mバタフライで優勝、200mバタフライ第3位、岡誠氏が200mバタフライで優勝した。
同種目で日大豊山の選手が1位と3位に入る活躍をした。
昭和50(1975)年、51(1976)年には三科典由氏が100m背泳ぎで2年連続で優勝した。
三科氏は日本が不出場であったが、モスクワオリンピックの代表選手に選考された。
また、昭和51(1976)年には高橋光一氏が100m自由形で優勝、昭和52(1977)年には100m・200m自由形で2冠を達成した。
そして昭和54(1979)年、ついに滋賀県で井上先生の悲願であったインターハイ男子総合優勝を果たした。
学校としては実に16年ぶりとなる優勝であった。
尾道高校に1点差で敗れた悔しさが忘れられないものとして残っているという井上先生と当時コーチとして指導していた駒崎氏の熱い思いが選手の頑張りにつながった総合優勝であった。
第5回終わり
竹村知洋