日大豊山水泳部 活動日誌

インターハイでの総合優勝を目指して、日々練習に励んでいます。

日大豊山水泳部の歴史 10

2017-10-21 16:25:12 | トピックス

合宿所の歴史についてもふれてみたい。

板橋区中台総合グラウンドに運動部合宿所がつくられたのは昭和43(1968)年のことである。

それまでは日本大学の合宿所に大学生と一緒に生活していた。

石川健二氏の『日大豊山の三十年』記念誌に書かれている記事によると、その当時の合宿所生活はあまりにもひどかったらしい。

その後、昭和43(1968)年に中台に合宿所がつくられたが、古材で建てられたトタン屋根の建物はお世辞にも素晴らしいものとは言えないようである。

福岡から上京した本田和励氏によると、合宿所はうす暗く、すでに冷えたおかずで食事をする毎日であったということである。

さらに「冬はものすごく寒く、夏は極端に暑い」。

あまりの暑さに疲れていてもなかなか寝れず、そのために疲労も取れず、「夏が来るのが恐ろしく、ノイローゼになる」ほどだったという。

三十周年の記念に新しい合宿所ができるという話がダメになったときは、自分も家族もがっかりしたとのことである。

「地獄のような合宿所を、せめて冬も夏も、まともに眠れるような、また、試験勉強ぐらいできるような合宿所にしてくれたら、もっともっと学校生活も楽しくなるのに」という切実な思いが育友会新聞第41号に掲載されている。

そのような地獄の合宿で暮らしながらインターハイで優勝した本田氏はじめ、歴代のOBの方々は本当に身心共に強い生徒達であった。

当時は、事務職員であった三輪御夫妻の管理の下、上野広治先生が一緒に生活をしていたが、指導者側も大変なご苦労であったと思う。

平成3(1991)年、念願であった新しい合宿所である体育実習棟が誕生した。

日本大学創立100周年記念、日大豊山創立35周年事業として行われ、鉄筋コンクリート造り地上2階建て、1階は教室、トレーニングルーム、部室、2階に寮室、食堂、教室があり、当時の最新の設備を備えた合宿所であった。

当時の校長は第10代夏井校長であり、校長自身が学生時代に過ごしたという部屋のつくりになっている。

寮室は4人部屋であるが、各ベッドがカーテンで仕切られ、なかには机もあるため各自で勉強をすることができる。

冷暖房も完備され、以前の合宿所とは比較にならない大変住み心地のよい設備となった。

平成29(2017)年現在、体育実習棟の管理は事務職員の町井さんが担当され、水泳部顧問安村亜洲が生活指導を含めて共に生活している。

グラウンド側から見た様子。

空中写真。左下の体育館横にある。右側の施設は日大豊山女子高校。

廊下と風呂、食堂、洗濯機。

  

 

焼肉パーティー。

   

合宿所の食事会。

 

合宿所生活は体験した者でなければ分からない仲間同士のつながりや教員との関係を結ぶことができる場所である。

高校生で親元を離れ、洗濯や掃除など身の回りのことを自ら行い、上級生や下級生と共に生活をするという毎日は学生時代のかけがえのない経験であり、大人になってからもよい思い出となるものである。

同じ学校やクラブ活動に所属していても、苦労を分かち合っている意識があるため、合宿所生活をしている者同士の連帯感は強い。

私自身も高校時代、大学時代と合宿所生活を送り、教員として指導する立場になってからも18年間にわたって合宿所で過ごした。

教員として長年にわたり生徒と寝食を共にした日々を送った経験は、これからもかけがえのないものである。

水泳部の強さを支えているのは、合宿所の存在が大きく、これからも欠かせないものであることはうたがいようのない事実である。

第10回終わり

竹村知洋

 

 

 

 

 

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日大豊山水泳部の歴史 9

2017-10-21 13:44:53 | トピックス

昭和60(1985)年、中学時代からオリンピック選手として活躍した渡辺健司氏が入学し、高校1年生からインターハイで活躍した。

100m・200m平泳ぎで優勝、リレーでも活躍し、男子総合第2位に貢献した。

高校2年生のときには日本選手権で優勝、世界選手権・アジア大会の代表選手として選出された。

昭和61(1986)年のソウルで開かれたアジア大会では200m平泳ぎで優勝している。

その当時、男子チームコーチとして井上先生が帯同し、男子は15種目中、11種目で優勝、日本記録も多数樹立された。

その後渡辺氏はオリンピック選手として、昭和59(1984)年のロサンゼルス大会、昭和63(1988)年ソウル大会に出場し、平成4(1992)年バルセロナ大会では200m平泳ぎで第7位に入賞した。

競泳の日大豊山水泳部関係者でオリンピックに3度出場した選手は、渡辺氏だけである。

 昭和61(1986)年は、2人のインターハイ優勝者を輩出した年である。

400m・1500m自由形で優勝した遠藤昭一氏と100mバタフライで優勝した磯英仁氏である。

磯氏のご子息である桜一朗君が平成29(2017)年現在、日大豊山高校1年に在籍している。

桜一朗君は中学校3年生の時に全国中学校大会に400mリレー選手として出場し、日大豊山中学の総合第2位に貢献した。

左から2番目が桜一朗君。

 

昭和50年代からスイミングクラブの活動が活発となり、昭和58(1983)年から平成7(1995)年まで近畿大学付属高校がインターハイ13連覇を続けた。

その間、日大豊山は学校水泳を継続し、総合第2位・第3位を守り続けていた。

平成元(1989)年には100mバタフライで渡辺諭氏が優勝、野村英司氏が第2位、翌年には野村氏が100m・200mバタフライで優勝した。

平成8(1996)年には総合第5位となったが、その悔しさは翌年からの三連覇につながることになる。

第9回終わり

竹村知洋

 

 

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