昭和55(1980)年、56(1981)年に活躍した選手は、坂大平氏である。
2年間連続で200m個人メドレー・400m個人メドレーで優勝し、高校新記録を樹立した。
育友会新聞『ぶざん』第35号に坂氏の高校3年生の時のインタビュー記事がある。
『三十年記念誌』にも坂氏のインタビュー記事がある。
坂氏はインターハイは個人メドレーで優勝したが、高校3年生の日本選手権は100m自由形で優勝、昭和59(1984)年のロサンゼルスオリンピックは200mバタフライの代表選手として出場した、まさにオールラウンドな選手である。
下はオリンピック代表選手になった時のインタビュー記事である。
この記事で印象的なのは、当時の校長である第7代金子義夫先生との関係である。
坂氏は高校1年生までそれほど練習を頑張っていなかったということだが、校長先生が優勝を喜ぶ姿を見て、そのように強く選手を思う気持ちに答えようと頑張りはじめたということである。
同級生が停学処分を受けた際の金子校長の話を聞いて、胸にジーンときたという話もある。
自分が日本記録を出したり、オリンピック選手になれたのは心から生徒のことを思ってくださる金子校長と会えたからではないか、という坂氏の言葉は教員として大変重みのあるものだと感じた。
坂氏は昭和57(1982)年のアジア大会では、100m・200mバタフライ、400mリレー・800mリレー・400mメドレーリレーすべてで優勝するという快挙を成し遂げている。
本人のインタビュー記事にもあるが、井上先生の話によると坂氏は特にキックが強いとかプルが強いとかはなく、全体的なバランスの取れた選手ということであった。
ご子息である登暉氏も日大豊山水泳部に入り、100m~1500mまで泳げる選手としてインターハイの個人種目とリレー種目で活躍した。
力泳する登暉氏。
登暉氏は卒業式で日本大学学長賞(かつての総長賞)を受賞したが、親子そろっての受賞というのは珍しいのではないか。
一番左が登暉氏。
この頃の日大豊山のインターハイでの総合成績は総合第2位・第3位であり、昭和57(1982)年には劇的な3回目の総合優勝を果たすことになる。
第7回終わり
竹村知洋