昭和35(1960)年、石井氏がローマオリンピックで活躍した年に日大豊山水泳部は関東大会で初優勝を遂げた。
その原動力となったのは井上敦雄先生と同学年の福島滋雄氏である。
福島氏は背泳ぎと個人メドレーを専門種目とし、井上敦雄先生の話によると180cmという長身を生かした正統派の泳ぎでフォームが美しい理想的な泳法だったということである。
大学進学後から頭角を現し、日本選手権では200m背泳ぎで7連覇した。
昭和37(1962)年にはオーストラリア国際水泳大会で220ヤードの背泳ぎと440ヤードメドレーリレーで世界新記録を樹立した。
また同年には100m・200m背泳ぎ・400m個人メドレーで日本記録を樹立している。
そして昭和39(1964)年、東京オリンピックに出場し、200m背泳ぎで第4位、400mメドレーリレーで第5位に入賞した。
アメリカの水泳コーチは福島氏の泳ぎを水中カメラやその他でフィルムにおさめ、徹底的に研究したという記録がある。
その後も昭和41(1966)年にバンコクで開催されたアジア大会において200m背泳ぎで優勝した。
また、昭和38(1963)年の2月に開催された全豪選手権に派遣された選手が当時3年生であった青木守喬氏と2年生の石川健二氏である。
翌年に開催される東京オリンピックのために生かす試合として男子選手は高校から12名が選抜されている。
当時の日本水泳連盟機関紙『水泳』(第151号)によると、1月6日に山代に集合し約1か月間の合宿、2月にはオーストラリア各地を3か所転戦しながらパースの全豪選手権に出場するという大変な遠征であったようだ。
記事によると、「この困難な日程を乗り切る方法は選手団の和と選手個々の意欲高揚と節制以外にないと判断し特にブリスベン、シドニー、メルボルンの転戦中に団体行動の厳守、外出禁止、食事の統制、観光気分の排除〝自己の最高記録はパースで出すんだ〟と云う意欲の注入に全力を挙げる必要があります」という選手団の気持ちの入れようである。
この遠征に関する記事には、その当時取り入れられたインターバルトレーニングの練習内容が詳しく掲載されているのも興味深い。
その甲斐あってか、青木氏は100m背泳ぎで前年度のベストを大きく更新する目標タイムを出し、石川氏も100m平泳ぎで目標タイムをクリアしている。
石川氏は高校在学時から日本新記録を出し数々の国際大会に出場した。
高校2年時の第4回アジア大会では100m平泳ぎで金メダルを獲得、大学進学後は福島氏と共に出場した東京オリンピックで400mメドレーリレーにおいて第5位に入賞した。
東京オリンピックのメドレーリレーに2名の日大豊山OBが出場したことは誇りとされることである。
そして石川氏が高校3年の昭和38(1963)年には念願であったインターハイ初優勝を果たした。
石川氏は100m・200m平泳ぎで優勝し、その原動力となった。
得点は、第1位日大豊山92点 第2位柳井商工54点 第3位桜宮27点 第4位三潴17点 第5位諫早商14点 第6位磐田農11点で、断トツの総合優勝である。
当時の井上隆コーチの情熱は素晴らしく、自営業(設計事務所)であったが朝練習・午後練習でも絶対に休むことなく熱心に指導にあたり、コーチ就任5年でインターハイ総合優勝を成し遂げた。
井上脩氏と同様に無報酬での毎日に指導に頭が下がる思いでした、という井上敦雄先生の『二十年誌』回顧録がある。
その情熱を私たちも引き継いでいかなければならない。
第3回終わり
竹村知洋