やっちゃんの叫び

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シベリアのポーランド孤児と阪神・淡路大震災で親を亡くした子供たちのお話し

2015-12-16 21:23:42 | 涙の出る話
1996年、ポーランドは、1995年1月17日の阪神・淡路大震災で親を亡くした子供たち30名を招き、3週間、各地で歓待した。

 世話をした一人のポーランド夫人が語ったところでは、一人の男の子が片時もリュックを背から離さないでいた。理由を聞くと、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになってしまったのだといいます。少年は、焼け跡から見つかった家族の遺品をリュックにつめ、片時も手放さないでいた。夫人は、不憫で涙が止まらなかったそうです。

 歓待の最終日、震災孤児が帰国するお別れパーティに、4名のシベリア孤児が出席した。孤児といっても、すでに歩行もままならないご高齢者です。しかし彼女たちは、「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもたちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救済の話を聞かせたい」とおっしゃって、無理をおしてやってこられたのだった。 そして、その4名のシベリア孤児たちは、涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人一人に手渡した。 会場は万雷の拍手に包まれた。

 なぜ、ポーランドは震災で親を亡くした子供たちを招いたのか・・・

 実は、75年前の次のような事件があったからであった。

 その事件とは・・・当時、シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド愛国者の流刑の地でした。 

 1919年、ポーランドがロシアからようやく独立したとき、ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にありました。 極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーランド人がいたといわれています。 その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。とくに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によって、「ポーランド救済委員会」が組織されました。
 
 ところが、翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可能となった。 救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことごとく拒否された。

 窮余の一策として、日本政府に援助を要請した。 実は、救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は・・・ 子供に 花の名前をつけて、花のように子供を愛しみ育てている 日本 を思い出したのであった。わらをもすがる思いで、1920年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請した。
 
 独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない。普通ならありえない。 しかし女史の嘆願は、外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わずか17日後には、シベリア孤児救済が決定されたのです。 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、翌21年孤児375名が来日。さらに1922年には390名の児童が来日しました。合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、祖国ポーランドに送り返されたのでした。 

 日本に到着したポーランド孤児たちの回想・・・・・
ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒された。そのあと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入れて貰って感激した。到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めました。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たちもいた。学生音楽会は慰問に訪れた。仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待した。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々、人々の好意はあとをたたなかった。

 さて、日赤の看護婦に日赤の精神に共鳴した若き乙女が居た。
彼女は、腸チフスにかかって一番弱っていた4歳の女の子供の担当になることを申し出た。夜通しの看病。添い寝してまで必死に看病したのだった。その甲斐あって、その子は回復した。

 ところが、その若き看護婦は、看病の疲れから自分が腸チフスに罹ってしまい、ついに帰らぬ人となってしまったのである。看護婦は二十歳そこそこであった。
( 4歳の女児は80年の歳月を経て、再びドラマを演じることになる)

 こうして、日本の手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がったといいます。

 埠頭の孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、泣きながら「君が代」を斉唱し、幼い感謝の気持ちを表した。

 神戸港からの出発では、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送人たちは、子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振ったのであった。

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 1995年10月、ポーランド大使を務めていた兵藤長雄氏は、8名の孤児を公邸に招待した。

皆80歳以上のご高齢です。一人のご婦人は体の衰弱が激しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりついた。そのご婦人は、こう語った。「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。しかしもうそれは叶えられません。だけど大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、這ってでも、這ってでも伺いたいと思いました。 なぜって、ここは小さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残すことはありません。」

 孤児たちは70年前以上の日本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがきを貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、いまでも肌身離さずに持っていると大使に見せた。 同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれたお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せあった。

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  シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。

 そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題した礼状の中で次のように述べています。

 「日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。

・・・ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られています。ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい。」
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 1999年8月、ポーランドから「ジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団」が来日した。合唱団は、ヘンリク・サドスキさん(88)からの次のようなメッセージを携えてきた。

「20世紀の初め、孤児が日本政府によって救われました。シベリアにいたポーランドの子供は、さまざまな劣悪な条件にありました。その恐ろしいところから日本に連れて行き、その後、祖国に送り届けてくれました。親切にしてくれたことを忘れません。(合唱団は)私たちの感謝に満ちた思いを運んでくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう。」

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さんざん日本に世話になっていながら、日本人が復員を始めた終戦時、日本人から略奪・殺人・強姦をほしいままにしておいて、それを抗日戦線だったなどとうそぶく特ア人の心。日本の恩を忘れず、いまも互いの良心を大切にするポーランドの人々の心。私たち日本人は、これから先、どちらの心を持った人になろうとしているのでしょうか。
        
 

 国際派日本人養成講座「地球史探訪: 大和心とポーランド魂」より、抜粋改変させていただきました。

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