やっちゃんの叫び

感じたまま、思ったままを話してみませんか。

「中国機領空侵犯 目に余る挑発行為だ」 毎日新聞

2012-12-30 00:00:51 | 尖閣情報・領土問題
今、尖閣諸島をめぐる中国公船の動向が挑発的であり、その行為がそのエスカレートしていることを経日的にみたいために、整理している途中だが・・・

 資料(新聞切り抜きなど)の中から注目したい記事があったので、ご紹介したい。


中国機領空侵犯 目に余る挑発行為だ 毎日新聞 2012年12月15日 02時30分

 沖縄県・尖閣諸島の魚釣島付近で13日、中国国家海洋局所属の小型プロペラ機「Y12」1機が領空侵犯した。中国機による日本の領空侵犯は自衛隊が統計を取り始めた1958年以来初めてである。


 日本政府による9月の尖閣諸島国有化後、中国の公船が周辺海域に出没する事態が続いている。13日は海洋局の海洋監視船4隻が領海に侵入した。「海」に加えて「空」からも圧力を加えようとする意図が読み取れ、日本政府は尖閣をめぐる対立が新たな局面に入ったと見ている。

 日本は、領海侵犯には海上保安庁が基本的に対応するが、外国機の領空侵犯には、軍機でなくても自衛隊が対処すると定めている。今回も航空自衛隊のF15戦闘機などが緊急発進(スクランブル)した。

 中国側が、軍出動の口実づくりを念頭に、自衛隊を誘い出す目的で領空侵犯に踏み切ったとすれば、極めて重大だ。今回の領空侵犯は目に余る挑発行為と言わざるを得ない。

 習近平・中国指導部には、尖閣諸島の領有権をめぐる争いがあることを国際的にアピールし、国内向けには強い姿勢を示す狙いがあるのだろう。13日が旧日本軍による南京占領から75年にあたったことも関係しているのかもしれない。衆院選後の日本の新政権が尖閣諸島の実効支配強化に乗り出すことを警戒し、これをけん制する意図があったとの見方もある。軍や海洋局は対日強硬派が主導権を握っているとも言われる。

 しかし、威圧的な行動で尖閣問題を解決しようというのは国際社会のルールに明らかに反する。さらに、領空侵犯が繰り返されるようになれば、一触即発の事態に発展する可能性も否定できない。尖閣問題を収拾させる手段は外交しかない。習指導部はそのことを強く自覚すべきだ。

 日本政府が、領空侵犯について中国政府に抗議したのは当然である。また、一連の経緯は米政府にも説明したようだ。中国の理不尽な行動と尖閣をめぐる日本の立場を、米国やアジアなどの各国に繰り返し説明し、理解を求めなければならない。国際社会の視線は、中国を抑止する大きな力である。

 一方、今回の領空侵犯では課題も浮き彫りになった。自衛隊のレーダーで中国機を捕捉することができず、海上保安庁からの連絡で緊急発進した戦闘機は間に合わなかった。中国機が低高度で飛行したため、沖縄のレーダー網で捉えられなかったと見られる。

 防衛省は今後、空中警戒管制機(AWACS)や早期警戒機(E2C)を活用して固定レーダーを補完するという。今回のような事態を招かないためにも、南西諸島方面の警戒監視強化はぜひ必要だ。

知っていますか?満州、奉天駅前事件~ねずさんのひとりごとより

2012-12-28 20:37:16 | 日記
以下は、当時中学三年生だった山崎さんという方(男性)の手記です。

まず、読んでみてください。

~~~~~~~~~~~~~

僕ら日本人の一団は、吉林省の平安屯で、ひとつの団体を作ったのです。

ロシア軍が不意に国境を越えて満洲国に侵入したとき、吉林省内の各地に散らばって開拓の仕事をしていた人たちは、何一つ持つこともなく、着の身着のままで吉林に向かったのです。

でも、吉林もロシア軍が侵入してきて、無茶苦茶なことをしていたので、平安屯に集まった人たちでひとつの団体を作って、新京に逃れることにしたのです。

この新京に到着するまでの出来事を思い出すと、いろいろのことが山のようにあります。

でも、その出来事というのは、ロシア人と満人から日本人である僕らがいじめられたということです。

ロシア人にとって、日本人というのは虫けら以下だったのです。
あの当時、ロシア兵は日本人を殺そうが、焼いて食おうが、自由気ままにできたのです。
だから、平安屯から新京までの間でも、ずいぶん痛めつけられました。


ようやく新京に着いたので、これで安心と思ったのは、日本人のヌカ喜びだったのです。

ロシア兵と満人が、田舎から出てきた僕らに対し、虫けらでも殺すのと同じように殺したり、傷つけたり平気でするのです。
道をひとりで歩けませんから、二、三人で歩いていると、不穏の動きがあると言ってロシア兵から取り締まられるのです。

ロシア兵に見つかって逃げると、すぐパーンと銃で撃たれるのです。
それで日本人が死んでも、それは全く日本人が悪いのだというのです。

何をしても日本人の言うことは通用しないし、いじめることではロシア人ほど上手な奴はいないでしょう。
あれは、人間ではなくて、鬼か蛇のようなケモノ達だったのです。

結局、僕たちは新京にいてはいけないと、ロシア兵が言うのです。
とうとう平安屯から一緒にきた日本人は、ハルピンに追いやられることになったのです。

さんざん苦労してハルピンに着いたのは、満洲では降った雪が来年まで溶けないと言われる11月の中ごろだったのです。

しかし、そのハルピンも、僕たちにとっては永住の地ではなかったのです。
もちろん僕たちも戦争に負けた日本人のひとりだから、そんなに楽な生活をしようとは思ってなかったのです。

しかしロシア軍が、日本の強い兵隊がいたときに満洲に攻めてきて、強い日本軍と戦争して勝って満洲国に入ってきたのだったら仕方がないとあきらめるけれど、ロシア軍というのは卑怯な奴だから、強い日本軍がほとんどいなくなったすきに、コソ泥のように満洲に入ってきて、日本人である僕たちをいじめるのだから、腹が立って仕方なかったのです。

もし僕がもっと大きくて力をもっていたら、僕ひとりでもロシア兵と戦うのになあと思いました。

ロシア兵はそんな無茶苦茶なことをするのです。
僕たちは、みんな、歯を食いしばってロシア兵の乱暴に耐えたのです。

こうした思いをもってハルピンまでたどりついたのです。
ところがハルピンに着くと、ロシア兵がやってきて

「お前らのような汚い日本人をハルピンにおくことはできない。
お前たちはみんな奉天に移動せよ」と申すのです。

やっとハルピンに着いたのに、また奉天に行けとはあんまりしたことであったので、日本人を代表してロシア兵に抗議をしに行った日本のおじさんは、抗議をしたというだけで、その場で撃ち殺されてしまったのです。

僕たちは、もう、抗議をすることも、お願いをすることも許されないということを知らされました。
牛や馬が、人間の言うままに動かなくてはならないのと同じだったのです。

奉天に移動するということになると、もうひとつ大変困ったことがあるのです。

それは、平安屯から新京へ、新京からハルピンへと移動したのですが、実をいうと移動するたびに、僕らの持っている荷物が減ってくるのです。

そんなことはロシアの兵隊にはわからないし、また、わかっても言うことを聞くような奴らではありません。

ロシア兵という奴は、自分たちが少しでも機嫌が悪くなると、すぐ日本人をなぶり殺しにするのです。
日本人が死んで行くのを見ては、ワイワイ騒ぎながら酒を飲んで、自分たちの機嫌を直すのです。

こんなロシア兵が奉天に移れと言うので、仕方なく奉天に移ることにしました。

奉天に移ることになると、汽車に乗らなければなりません。
三時間汽車に乗ると、五時間歩かなければならなかったし、五時間汽車に乗ると、五万円も七万円も機関手に賄賂を渡さなくてはならなかったし、いやないやな旅でした。

ようやく奉天に着いたものの、もう12月も終わりに近づいていた満洲は、大変な寒さであった。

ハルピンも奉天もこの、寒いということでは、一緒であったし、平安屯から持ってきた着物などもほとんど売りつくしていたので、奉天の集中営に入ったときは、乞食と同じようになっていました。

この集中営に入ってからは、自分の持っている着物は全部身につけてしまったけれど、まだ寒いので毎日震えていました。

そして何もない、本当になにもないお正月が終わって、五、六日過ぎた頃、突然ロシア兵が十五、六名、どやどやと部屋の中に入ってきました。

そしてその中で日本人のような顔をしたロシア兵が、大きな声でわめくように、
「この中に、陸軍の将校の家族の者はいないか。いたらすぐロシア軍の司令部まで来い」と日本語で怒鳴ったのです。

僕たちはどうなることだろうと思っていましたが、誰もそんな人はいないだろうし、またいても、出て、ロシア軍の司令部に行くようなお人好しはいないだろうと思っていました。

すると僕のすぐそばにいた、僕をいつも可愛がってくれていた、山田というおばさんがすーっと立つのです。

僕はびっくりしました。
時がときだけに、僕の心臓は早鐘を打つように高鳴ってきました。

山田のおばさんは、そのまま外へ出て行こうとします。
僕はおばさんの後を追って、部屋を出ました。
そして集中営の出口のところで、山田のおばさんに追いつきました。

「おばさん、どこへいくの」と尋ねたのです。

するとふっと振り返った山田のおばさんは、いつもよりすこし青ざめた顔をしておりました。
しかし、いつものようの微笑みながら
「ロシア軍の司令部へ行くんですよ」と、いつもの変わらぬ口調でおっしゃるのです。

僕はこの山田のおばさんの言葉にびっくりして、
「おばさん、行っちゃだめだよ。
ロシア軍の司令部に行ったら、どんなことをされるかわからないから、行っちゃだめ。
おばさん、誰も知らないことだから、行かなくてもいいよ。
それにおばさんは、軍人さんのおばさんですか」と尋ねると、

「そうです。おばさんのところのおじさんは、立派な軍人さんでした」

「おばさん、行かなくてもよいでしょう。行かないでください」
僕が頼むように言うと、おばさんは笑いながら、

「おばさんは、帝国軍人の妻ですよ。
満男ちゃん、立派な人になって、戦争に負けた日本の国を、早く再建してください」と言い残すと、そのままロシア軍の司令部の方へすたすたといつもと同じような様子で、立ち去って行かれたのでした。

奉天に来てから、あんなに僕を可愛がってくれたあの優しいおばさんのことが胸いっぱいに湧き上がってきて、おもわず僕は泣きたくなりました。

そしてその翌日のことでした。

昼ごろになったので、日本人はみんな食事をしようかなと話し合っているときでした。
ロシア軍の司令部から、命令が出たとのことです。

それは日本人は全員、奉天駅前に集合せよ、とのことです。
みんなは、何だろうと話しながら、奉天の前に急いだのです。

ただ、僕は、奉天の駅前に集まれとの命令が出たときから、何かしきりと胸騒ぎがしていたのです。
それは何の胸騒ぎであるかわかりませんが、きっと何かおおきな不幸が怒るんじゃないかと、胸が痛いほど心配がたかぶってきたのです。

奉天の駅前に着いてみると、もう黒山のように人がいっぱい集まっていました。

日本人だけではありません。
満人も、鮮人も一緒でした。

日本人が一番前の方に出されました。

するとあの日本人のような顔をした日本語をよくしゃべるロシア兵が出てきて、集まっている日本人をにらみつけました。

「今日ここで、みんなに見せつけのために、日本のかつての陸軍の将校の家族のものを処刑する。
正しくない戦争、侵略の戦争をすれば、その最後はこんなものになるのであるということを、みんな肝に銘じておけ」と大声で怒鳴るのです。

(ねずきちです。よく言うよ!です。「正しくない戦争、侵略の戦争?」日本軍の勢力が衰えたところにまるで泥棒猫のように侵略し、暴行非道の限りを尽くすことこそが、正しくない戦争であり、侵略の戦争でしょう!こうしたコミュニストマインドというのは、世界の悪そのものです)

日本語が上手といっても、ロシア人です。

ところどころの日本語はわからないようなところもありましたが、何かこのロシア兵がわめいていることを聞いているうちに、ぞーっとしてまいりました。
そして僕の体が、ガタガタと震えだしたのです。

この日本語をしゃべるロシア兵が、しゃべり終わって後ろを向いて合図をしました。
すると、ちょうど奉天駅の前に、僕らが奉天に着いたときからあったロシア軍の大きな戦車の横から、十三名のロシア兵に連れられた日本の女の人が現われてきたのです。

僕はその女の人をパッと見たとき、のけぞるばかりに驚きました。
その女の人は、あの山田のおばさんだったのです。

「あっ・・、山田のおばさん」と僕は叫びだしたいような衝動に駆られました。
僕の膝はガクガクと揺れ出してしまって止まりません。

そしてその山田のおばさんの姿を見ていると、もう立っていることができないようになりました。

鬼より、野獣より、汚い恐いロシア兵が、山田のおばさんに何をするのだろうと不安で胸が破裂しそうです。

ロシア軍戦車の前に引き出された山田のおばさんは、薄紺のズボンに薄紺の上着を着ているのです。

とても綺麗なおばさんに見えるのです。
いままで山田のおばさんが、こんな綺麗な美しい人だとは知らなかったのです。

その山田のおばさんは、いま、僕の眼の前で、さみしそうだけれど、その顔には微笑みさえ見えるのでした。

やがてこの奉天駅前の広場に、五頭の馬が引き出されて来ました。
そしておばさんの右手と左手、右足と左足に、大きな縄がくくりつけられました。

そしてその縄のはしを、引き出された五頭の馬にそれぞれくくりつけられたのです。

しかし山田のおばさんは、顔色を変えずにまだ立っているのです。

そして僕たち日本人の方を静かに振り向きながら、はっきりした口調で、

「さようなら、みなさん。元気で早く日本に帰ってください。そしてまたきっと遇いましょう」と言われたのです。

おばさんがこの言葉を言っているうちに、ひとりのロシア兵が出てきて、いきなりおばさんの顔を針金のようなものでピシリと殴り付けたのです。

おばさんの頬から、真っ赤な血潮がパッと吹きだすように流れました。
見ていた日本の女の人たちは、おもわず横を向いて目をつぶったのです。
見ていられなかったのです。

僕はおもわず、
「おばさーん、おばさーん」と叫びました。

そしておばさんの方へ駆け出そうとしました。
その僕を、誰かがしっかり押さえました。

そのうち、もう一本の縄がおばさんの首にかけられ、馬にくくりつけられました。

やがて、ロシア兵の将校が現われてきました。
髭を生やした偉そうな男です。

この男が合図をすると、二人のロシア兵が来て、おばさんを押し倒し、そのおばさんの体の上に、このロシア兵が馬乗りになっていました。
五頭の馬には、ひとりずつ、ロシア兵が手綱と鞭を持って立っていました。

どうなることかと見守っていると、やがてあの髭を生やしたロシア将校が、さっと手をあげて合図をしました。

すると、ああ、いま思い出してもぞっとするあの惨劇が眼の前で行われたのです。

五人のロシア兵が馬の手綱をひきながら、鞭で馬の尻を叩いたのです。
馬は五方面に走りだしたのです。

そのときどうでしょう。
ギャーッという叫び声とバリバリという音が聞こえました。

そして山田のおばさんの体は無くなってしまっているのです。
ただ、蛇のような腸の切れ端が少し残っているだけだったのです。

満人と鮮人は、ワーッと喚声をあげていました。
ロシア兵はニタリニタリと笑っていました。

僕はとても見ていることができず、その場に座り込んでしまったのです。
動くことができなかったのです。

ロシア兵も満人も鮮人もいなくなりました。
あとに残ったのは日本人だけだったのです。

日本人の眼には、誰の眼にも涙が光っておりました。

僕はしばらくたって、あのおばさんの体の引き裂かれたものを、ひとつひとつ集めました。

ほかの日本人の人たちも、このおばさんの体を集めはじめました。

僕は、いまでも奉天という名を聞くだけで、何かを呪いたいような気持になさしめられるのです。
~~~~~~~~~~~~

このお話は、調寛雅(しらべ かんが)著「天皇さまが泣いてござった」から、そのまま引用させていただきました。

最近、日本なんてなくなったっていいんだよ。俺たちは国際人として、あるいは世界市民としてこれからの新し時代を築くのだ、などと、まことしやかに言う議論を耳にします。

しかし、そういう気楽な発言ができるのも、ここが日本だから、そういう庶民が自由に発言できる日本という国を、立派に守ってくださった多くの先人たちの血の努力があったからなのだということを、忘れてはいけないと思うのです。

日本という国があるから、人々は安心して暮らすことができ、自由に意見も言える。

そういう国という枠組みがなくなったらどうなるのか。何が起こるのか。そのひとつの例が、今日、ご紹介した山崎さんの手記です。

中学生の男の子が、こんな体験をしなければならない。

彼の眼に、鬼畜のように写ったロシア兵も、その多くは銃で脅され、本人の意思とは関係なく軍に挑発され、言うことを聞かなければ殺されるという環境の中で、給料も払われず、そのかわり戦勝地では、ありとあらゆる略奪、暴行が許されるという環境の中にいた兵士達です。

当時のソビエト共産党にとって、ソビエト人も人間ではない。家畜以下です。
そして家畜以下にされた彼らロシア人は、同様に日本人に対して、さらに酷い家畜以下の仕打ちをした。

要するに、「武器を持っていれば、なんでも無理を通すことができる」という、人類史の闇が前面に出てきたとき、こうした自体が起こるということです。

日本人は、武器をもって他人に言うことを聞かせるのではなく、ひとりひとりが武器を持つことよりも働くこと、人のためになることを優先する民です。
そうやって過去、1万年の進化を遂げてきた。

しかし、世界はそうではない、ということです。
武器を持って支配する。
言うことを聞かなければ殺す。
支配する者と支配される者との関係は、人と家畜の関係以下である、ということです。

ですから、日本の左翼が好きかって言えるのも、ここが日本だからです。
しかし彼らが望む、日本崩壊、日本亡国は、結果として、多くの日本人に「悲惨」の二字を与える。

文中に出てくる陸軍将校の奥さんのお話が出てきました。

おそらく、髭のロシア将校が、日本人の将校の妻を今夜のごちそうにしようと、部下に命じて徴発させたのでしょう。

山田のおばさんも、そんなことは百も承知だった。
同時に山田のおばさんは、誇り高い日本陸軍の将校の妻として、絶対に彼らの言うことは聞くまいと、心に誓って彼らのもとに赴いたに違いありません。

何週間も風呂にも入れない生活が続いた避難民です。
おそらく、ロシア将校は、山田のおばさんに、将校の妻だからと、新しい服を与え、体もきれいに拭かせたのでしょう。

そしておかずにしようとした。
しかし、山田のおばさんは、これを凛として拒んだに違いありません。
そしてそのあまりの凛々しさに、さすがのロシア兵すらも、手を出すことができなかった。

そこで見せしめのために、馬に引かせて五体をバラバラにして殺した、というのが真相であろうかと思います。

そしてそういう非道を、子供にさえも平気で見せる異常さ。
そういう残酷な姿を見て喜ぶ満人や鮮人の異常さ。

世界には、そういう異常者がいるのだ、という事実を、やはり私たちは絶対に忘れてはならないと思うのです。

日本を守るのは、日本しかない。

それが歴史の真実です!

国民・領土・主権・・「寸土を取られて怒らない国は、本土をも取られる」

2012-12-26 20:45:02 | 尖閣情報・領土問題
一昨年の チラシより・・・



    第11回 憲法シンポジウム

         日本が危ない!
   ~危機を迎える沖縄から日米安保を問い直す~

 政府は日米安保50年の節目の年に普天間飛行場の移設先をどうするのか決定できず、
混迷を極めている。1991年フィリッピンは「米軍基地継続使用のための協定改定法案」
を僅差で否決し、弁軍基地は返還されました。米軍のプレゼンスを失ったフィリッピン
は中国によってミスチーフ環礁をはじめ、領土を蹂躙されました。

沖縄が第二のフィリッピンにならないよう、沖縄から日米安保を問い直してみたいと
思います。

   日 時 平成22年5月3日(憲法記念日)
      
   会 場 熊本県民会館パレアホール(鶴屋東館10階)


   講師  恵 隆之介先生

  昭和29年 沖縄生まれ。中学時代はマリスト学園に通う。防衛大学校、
  海自幹部候補生(江田島)卒、歓待勤務の後、退官。現在作家ジャーナリスト。
   主な著書、「海の武士道」「昭和天皇の艦長」など。


歴史に学ぶ 「カルタゴの滅亡」安倍政権に<政府ODA関連記事より>

2012-12-24 23:57:26 | 日記

今から2000年以上の昔、北アフリカ沿岸都市国家の一つで、地中海世界で有数な国家として栄えていたカルタゴは、紀元前200年頃、軍事大国ローマと第2次ポエニ戦争を戦い敗れて無条件降伏した。その時の講和条約の内容は次のとおりであった。


(1)独立は認めるが、本国以外の海外領土は全て放棄すること、
(2)専守防衛に限り自衛軍の存続を認めるが海外派兵は認めない、
(3)カルタゴ駐留のローマ軍の経費は全てカルタゴが負担すること、
(4)賠償金を支払うこと、等である。
 

戦後、カルタゴは経済活動のみに専念し、奇跡の経済復興を成し遂げた。
 勝ったローマの方は表面的には華やいでいたものの、勝者としての国際的責任と義務をかかえこみ、逆に財政赤字に苦しむ国家となっていった。
 発展をつづけるカルタゴを苦々しい思いでみていたのはローマの元老院(議会)ばかりでなく、他の地中海諸国も同様であった。このままの状態がつづけば、世界の富は全てカルタゴに支配されてしまうと恐れをいだいた軍事大国ローマは、いろいろな無理難題をカルタゴにおしつけ、それを拒否したカルタゴに一方的に宣戦を布告し大軍を送った。

カルタゴは、仲介をたのむ国もなく、孤立無援の戦いをつづけ、紀元前145年、ついに全国民玉砕し、カルタゴは地球上から完全に抹殺されてしまったのである

カルタゴは、ローマとの関係を重視し、約束を守り、友好関係をつづけてきたつもりでいたにもかかわらず、ローマ国内にカルタゴに対する嫉妬、憎しみ、いらだちが充ちあふれていたことに気づかなかった。


 既にローマの属国となっていたギリシアは、そのヘレニズム文明がローマ人に敬意をもって受け入れられていたために、国家としても安泰であった。
 カルタゴには、ローマが敬意を払うような文化もなく、十分な軍事力もなく、また、外交の稚拙さゆえに友好国家を作ることもなく、ただただその自国の経済力のみを頼りにしてきたのであるが、その経済力があだとなり、ローマの憎しみの前には何の力も持つことなく、地球上から消えていった。


 強力な軍事力をもたないカルタゴは、その巨大な経済力で近隣諸国との友好関係を築いておくべきだった。


 我々も“歴史を学ぶ”のではなく、“歴史に学ぶ”べきであろう。                               (政府ODA関連記事より)


『日中関係は如何にあるべきか 』石 平氏講演より

2012-12-22 23:01:33 | 日記

石 平(せき へい)氏略歴  
プロフィール 1962年、中華人民共和国、四川省に生まれる。祖父漢方医に論語を学ぶ。民主化運動に情熱を注ぎ、天安門事件を経験。北京大学卒業後、日本に留学。主に日中の政治・経済・外交を論じる。

<講演内容>
1970年代 中国では、栗原小巻、や高倉健 が人気で、好日的雰囲気があった。

1980年代 中国に、反日感情は無かった。中国政府は、経済について、日本から学ぶ 姿勢が見られたほどである。

1986年 天安門事件。中国政府は、多くの学生を殺した。是に対し、政府批判が起こった。政府は、これを回避しようと、ねたを探した。
そこで、中曽根首相の靖国参拝を批判したところ、中曽根首相は、従ってしまった。
即座に、中国政府は、靖国をカードとして、強く言えば、日本は、大人しく引き下がってしまう、と覚ったのであった。

 1990年代、政府は反日教育をスタートさせた。それによって、若者に反日感情が育ってしまったのである。「参拝自体が、問題」では ない、のである。


日本人の不思議・・・
 1 中国が強い態度で、要求すれば、ハイハイと金をだす。     
 2 ごめんなさいと、いつまでも、あやまり続ける。

   自己主張することなく、従い続けている態度は、理解しがたい。
   日本人の優しさなのかもしれないが・・・

 中国と仲良くしたいなら・・・
 1、自分はこうだと、毅然とした、言動を貫くことだ。 
 2、一歩下がって言う(思いやりで)ても、それを理解する中国人ではない。
   中国人は、さらに押してくる。日本人の奥ゆかしさは、中国人には通じない。

 外交は、国益と国益のぶつかり合い。話し合いで、妥協点を見つければよい。

 小泉首相は、在任中、靖国参拝を貫いた。中国政府は、手ごわい政治家がいたものだ、と思った。
 が、この間、日中関係が悪化することはなかった。

子供は神様です!!

2012-12-18 23:18:26 | 子供教育・うそ、いじめ、ならぬ


今や、親の子供虐待事件が、毎日のように報道されている。 
    
 先日、宗像の母 と呼ばれている賀久はつ先生の講話を聴いた。
この講演は、熊本県や市の後援を受けていた。
 

先生の話をご紹介しましょう。

趣旨は、「子供は神様です。子は、作るのではなく、授かるのです。
作るという意識が、野菜のように、切り刻んだり、子供への虐待や子殺しに繋がっている。宿った命は、家族全体で心から歓迎しましょう。」ということでした。


 先生の話の中で、望まない子供の出産の例として、私が一番ショックを受けた話をご紹介します。

「米国の医学会で報告された事実ですが・・・

 社長と不倫の仲になった若い女子社員がいた。

 妊娠した。

 アメリカは容易には堕胎出来ない国。

 お腹は次第に大きくなり、次第に、胎児を疎ましく 思うようになった。

 やがて、出産が近づいた。

 ところが、胎児の心音が、突然止まった。

 急いで、切開して胎児を取り出してみると・・・スタッフは、息を呑んだ。

 ・・・その胎児は、へその緒を何重にも首に巻き、へその緒を手でしっかりつかんで、
死んでいた。

 へその緒の血流がとだえたていたのである。」

 今では胎教の大切さが、科学的にも証明されている時代。

この事実を どのように解釈するか。
皆さん、どう、思われますか?


先生は、仰いました。
「赤ちゃんは、胎児の時から、親の言葉(意)をちゃんと聞いています。

       その児は、『生まれては、いけないんだ!』と思ったのでしょう。」
 
「産む権利、SEXの権利というように、なにやら分らない権利を主張する人たちがいますが、これは対立の観念で、和=融合はうまれない。思い遣りや労りや愛しみの世界には権利や義務の主張はない。」

「子供は、宜しくお願いします。と、出てきます。

 母親も、宜しくお願いします、と迎えましょう。」