魂・こころを主語にしてみましょう。
魂・こころが飢える。
魂・こころが求める。
魂・こころがながめる。
魂・こころが反応する。
魂・こころが満足する。
魂の迷いやすい時代の物質主義とエビデンス中心主義を見直します。
ほんとうのことは目に見えない、
証明することもできない、
と考えるとき、
むしろ自己の傷つきと他者の傷つきの実質が浮かんでくるような気がします。
魂・こころを主語にしてみましょう。
魂・こころが飢える。
魂・こころが求める。
魂・こころがながめる。
魂・こころが反応する。
魂・こころが満足する。
魂の迷いやすい時代の物質主義とエビデンス中心主義を見直します。
ほんとうのことは目に見えない、
証明することもできない、
と考えるとき、
むしろ自己の傷つきと他者の傷つきの実質が浮かんでくるような気がします。
瞑想とは「空け渡し」であり、わたしたちにはどうすることもできない、ということを知ること、と言われます。
仏国寺の和尚・当時原田湛玄老師は、禅堂に向かうとき「手も足も出ない」ダルマ和尚を思え、と言ったものです。
「一瞬先は闇」とも。
2013年に20年ぶりで小浜の仏国寺訪れたとき、老師様はすでに別室で寝たきりの状態でいらしたのでした。
お寺は閑散として、大勢のお坊さんと海外から修行に来たひとびとの読経のものすごさも消え、数人のお坊さんのみのお寺となっていました。
そのとき、禅堂のお掃除を申しつかって、丸座布を積み上げ、すべの窓を開け放し、仕切り板を除き、30代の始め懸命に「祈った」場所の現実の姿を目の当たりにしました。
ただ座り、ただ呼吸に意識を集めることに集中しようとしましたが、思いや考えを脇に置いておくなんてできません。
身体の動きは「止まれ」と命令すれば止めることができますが、思いや感情の動きは、命令しても止めることはできないのです。
ただ流しておけ、ただ眺めろ、と老師は言ったものです。
指導者によってさまざまだと思いますが、仏国寺の和尚の指導は「止めろ」ではありませんでした。