ヨガの最後はリラクセーションと瞑想の時間です。
額のまんなかの目から、どんな世界が広がってくるのか。
集中して見ようとしていたら、見えてくると思います。
三十代の前半、私は福井県小浜市にある仏国寺という山寺に通って座禅の修行をしていた時期があります。
二月接心までやりました。
東京から小浜までは大変遠く、近所に座れることろはないのか、あちこちを探しました。
駒沢、品川、日暮里、三鷹のお寺へ禅を組みに出かけました。
禅を組むのはどこでもできる、自分は自分なのだからどこでも組めなくてはいけない、と考えていたのです。
一昨年の春、二十数年ぶりで仏国寺に出かけました。
原田老師は高齢でもうお部屋から出られません、と電話口に出たお坊さんに言われていたので、ご存命中に尋ねよう、というのがひとつの理由でした。
長い年月を経て、お堂に座りながら、私には仏国寺でなくてはダメだったんだ、ということがわかりました。
私はここで、禅を学び、無言の行によってどれだけ多くのことを学んだのかと思い知りました。
老師と場の持つエネルギーは絶対で、他のひとと場所に取り替えられない唯一無二のものだったのです。
禅のひとつの目的は「明らめる」こと。
明らめるとは、明らかにすること、明らかにした上で手放すこと。
無かったことにして、放置することではありません。
心によぎるさまざま、頭を悩ませる雑音に目をつぶって消そうとすることではなく、
「私の心にはこんな雑念があるのだな」
「このうるさい雑音をいっぺん丁寧に聞いてみよう」
という全面的に受容するプロセスがないと、その先へは進めません。
ノイズにかき乱され、雑念に悶々としつつ静寂にうちに潜り込むのです。
いわば、この部分が大切なのだと私は思います。