今年の立春は雨。
関東地方はこれから雪になる予報。
立春を自然界の(正月)ととらえていた野口整体の整体師さんは雪を予想することができた。
予報通り、どかっと雪がふった。
新しく始まる年の1日。
「魂のコード」の翻訳者でもある鏡リュウジ氏の星占いによると、いま世界はフランス革命の起こった時代とおなじ星回であるという。
ものごとが、ものすごい勢いで変貌していて、これまでの価値観でははみ出したり、へんな余白がうまれたり、どうやらこちらの足場を、都度踏み変えないと…
今年の立春は雨。
関東地方はこれから雪になる予報。
立春を自然界の(正月)ととらえていた野口整体の整体師さんは雪を予想することができた。
予報通り、どかっと雪がふった。
新しく始まる年の1日。
「魂のコード」の翻訳者でもある鏡リュウジ氏の星占いによると、いま世界はフランス革命の起こった時代とおなじ星回であるという。
ものごとが、ものすごい勢いで変貌していて、これまでの価値観でははみ出したり、へんな余白がうまれたり、どうやらこちらの足場を、都度踏み変えないと…
「こころなんておれてなんぼ」という名ゼリフは、日本女子バレーの監督さんが放ったことばです。
実際、折れた傷が痛むのか、「こころ折れた自分」への自他からのジャッジやバッシングがより痛むのか、どちらでしょう。
折れたっていい、という考え方は救いにも聞こえます。
折れたって大丈夫、私がなんとかしてあげるから、と太鼓判を押してくれた整体師が私の人生にいたことがありました。
(それは、整体師のうそでもあり、自分のうそでもあったのですが・・)
大切なのは、自分の限界と欠陥を「これでいいんや、折れてなんぼや」
とわらえる太さ。
自分を肯定し、結果他人を肯定する太さです。
中途半端や不完全さのなかに、健康さがみえてきます。
骨継ぎでぎざぎざになった自分の姿を見て「よっしゃ!」とわらってあげたい。
よくやった!!と。
へびは、脱皮と再生をくり返して生きていきます。
東京の下町にもかつてはへびが生息していましたし、
多摩川付近には、いまでもたまに見かけます。
多摩川支流の丸子川を大きな白いへびが踊るように泳いでいるのを見たことがあります。
通行人がおもわずおぅ、と声をあげて自転車を止め、眺めていました。
へびは、丸子川を下流へと泳いでいきました。
再生はめでたい。
ならば死はどうでしょう?
今年年女72になる自分は、この世の生を六周したことになります。
この世とあの世を半分こで生きる、というこの四年間のモットーは、この世が魅惑的すぎてか、あっちへ行く時間が短くなりがちです。
むこうへ行く頻度をもう少し増やそう、と思う正月であります。
魂・こころを主語にしてみましょう。
魂・こころが飢える。
魂・こころが求める。
魂・こころがながめる。
魂・こころが反応する。
魂・こころが満足する。
魂の迷いやすい時代の物質主義とエビデンス中心主義を見直します。
ほんとうのことは目に見えない、
証明することもできない、
と考えるとき、
むしろ自己の傷つきと他者の傷つきの実質が浮かんでくるような気がします。
瞑想とは「空け渡し」であり、わたしたちにはどうすることもできない、ということを知ること、と言われます。
仏国寺の和尚・当時原田湛玄老師は、禅堂に向かうとき「手も足も出ない」ダルマ和尚を思え、と言ったものです。
「一瞬先は闇」とも。
2013年に20年ぶりで小浜の仏国寺訪れたとき、老師様はすでに別室で寝たきりの状態でいらしたのでした。
お寺は閑散として、大勢のお坊さんと海外から修行に来たひとびとの読経のものすごさも消え、数人のお坊さんのみのお寺となっていました。
そのとき、禅堂のお掃除を申しつかって、丸座布を積み上げ、すべの窓を開け放し、仕切り板を除き、30代の始め懸命に「祈った」場所の現実の姿を目の当たりにしました。
ただ座り、ただ呼吸に意識を集めることに集中しようとしましたが、思いや考えを脇に置いておくなんてできません。
身体の動きは「止まれ」と命令すれば止めることができますが、思いや感情の動きは、命令しても止めることはできないのです。
ただ流しておけ、ただ眺めろ、と老師は言ったものです。
指導者によってさまざまだと思いますが、仏国寺の和尚の指導は「止めろ」ではありませんでした。