お友達のブログで紹介されていた本です。
どんなのかなーと思って、昨日本屋さんでGETいたしました。
老老介護のお話なんですが、4コマ漫画でとっても穏やかに描かれてて、心がホッコリ致します。
多分実際はもっともっといろんなことがあるのだと思いますが、それもこれも全部包み込んでお母様をほわっと描いているんですよね。
昔と今と彼岸と此岸が、並行し交差し混ざり合って描かれています。
祖母を見送ってからぼんやりと思っていたこと。
「忘れる」ことは最悪なことだろうか。
自分の中で繰り返されるこの問い。
祖母は認知症の認定は受けていませんでしたが、晩年は何度も同じことを聞いたり話したりが多くなりました。
骨折してからは特に酷くなりました。
同じ説明を何度もすることが正直、疎ましい時もありました。
命とは、芽生えたその瞬間から死へと向かって進みだします。
近しい人の死は「死」について考えるきっかけとなるでしょう。
自分の体の衰えを感じた時も「あぁ、時は待ってくれない。」と先にある死を感じるでしょう。
でもそこに自分が死ぬことはまだ少し先だと、今ではないという余裕があると思うんです。
実際に自分の死と向き合うのは、身内や親しい人との別れや老いを感じた時ではなく、自分は死ぬんだって死期を認識したときかなって思います。(実際にすぐ死ぬとかそういうことではなく、先だという認識が無くなるって意味です)
私は死を考えるとき、深い深い真っ暗な闇に自分の魂の消失である無を考えて恐ろしくなります。
でもその怖さは一瞬。。。もしくは考えている間の事だけで、常に感じるわけではありません。日々の生活や興味のあるものが、その考えに留まらせないからです。
でも、あの無に考えが至った時のゾッとした孤独感を思うと。。。
死へと向かっていくその過程で、忘れることは必要なんじゃないかなって思っていました。
この本を読むと、ペコロスさんのお母様の元にいろんな故人が訪れてきて、とってもいいなぁと思ったのです。
私の思っていた怖いことから逃れるための忘却ではなく、懐かしい人たちに会うための。。。そんな印象を受けました。
ま、実際にはそんな穏やかな時ばかりではないのは解っていますが、ペコロスさんはそうやって受け止めていらっしゃるんだと思います。
別のブロガーさんが書いてらっしゃったんですが、「元気だったときに何でも私たちの要望を聞いてくれ、わがままや意地悪を言わなかった義母。病気が言わせるわがままは、きっとわがままの単位が足りなかったので天国に行く前にあわててそろえていたのかも。わがままの単位をそろえることは、恩を返せないまま残される人たちのためになる」と。
このわがままの単位をそろえるためにすることとは、ざっくり言うと介護の事であり見舞いであり触れ合いの事だと思う。
「面倒を見なきゃいけない」ととらえずに、義母の旅立ちのための単位をそろえるお手伝いをしているのだととらえていらっしゃっり、それは残されたものの為でもあると書かれていたのが目から鱗だったのです。
ペコロスさんも、地元に戻られた時に「間に合った」と思ったそうです。
オイラは本当の介護の大変さを知らない。
でもいつか、そう遠くない未来に、こんな気持ちで接することができればいいなぁと思ったのであります。
ペコロスの母に会いに行く・・・は、映画になるそうなので、完成がとっても楽しみです♪
映画の公式サイトはこちら → ■
ペコロスさんのHPはこちら → ■
↑言うこっちは数回目でも、何度も同じことを聞くばーちゃんは初めて聞くことなのだと思いながら説明してました。ポチっとな♪
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どんなのかなーと思って、昨日本屋さんでGETいたしました。
老老介護のお話なんですが、4コマ漫画でとっても穏やかに描かれてて、心がホッコリ致します。
多分実際はもっともっといろんなことがあるのだと思いますが、それもこれも全部包み込んでお母様をほわっと描いているんですよね。
昔と今と彼岸と此岸が、並行し交差し混ざり合って描かれています。
祖母を見送ってからぼんやりと思っていたこと。
「忘れる」ことは最悪なことだろうか。
自分の中で繰り返されるこの問い。
祖母は認知症の認定は受けていませんでしたが、晩年は何度も同じことを聞いたり話したりが多くなりました。
骨折してからは特に酷くなりました。
同じ説明を何度もすることが正直、疎ましい時もありました。
命とは、芽生えたその瞬間から死へと向かって進みだします。
近しい人の死は「死」について考えるきっかけとなるでしょう。
自分の体の衰えを感じた時も「あぁ、時は待ってくれない。」と先にある死を感じるでしょう。
でもそこに自分が死ぬことはまだ少し先だと、今ではないという余裕があると思うんです。
実際に自分の死と向き合うのは、身内や親しい人との別れや老いを感じた時ではなく、自分は死ぬんだって死期を認識したときかなって思います。(実際にすぐ死ぬとかそういうことではなく、先だという認識が無くなるって意味です)
私は死を考えるとき、深い深い真っ暗な闇に自分の魂の消失である無を考えて恐ろしくなります。
でもその怖さは一瞬。。。もしくは考えている間の事だけで、常に感じるわけではありません。日々の生活や興味のあるものが、その考えに留まらせないからです。
でも、あの無に考えが至った時のゾッとした孤独感を思うと。。。
死へと向かっていくその過程で、忘れることは必要なんじゃないかなって思っていました。
この本を読むと、ペコロスさんのお母様の元にいろんな故人が訪れてきて、とってもいいなぁと思ったのです。
私の思っていた怖いことから逃れるための忘却ではなく、懐かしい人たちに会うための。。。そんな印象を受けました。
ま、実際にはそんな穏やかな時ばかりではないのは解っていますが、ペコロスさんはそうやって受け止めていらっしゃるんだと思います。
別のブロガーさんが書いてらっしゃったんですが、「元気だったときに何でも私たちの要望を聞いてくれ、わがままや意地悪を言わなかった義母。病気が言わせるわがままは、きっとわがままの単位が足りなかったので天国に行く前にあわててそろえていたのかも。わがままの単位をそろえることは、恩を返せないまま残される人たちのためになる」と。
このわがままの単位をそろえるためにすることとは、ざっくり言うと介護の事であり見舞いであり触れ合いの事だと思う。
「面倒を見なきゃいけない」ととらえずに、義母の旅立ちのための単位をそろえるお手伝いをしているのだととらえていらっしゃっり、それは残されたものの為でもあると書かれていたのが目から鱗だったのです。
ペコロスさんも、地元に戻られた時に「間に合った」と思ったそうです。
オイラは本当の介護の大変さを知らない。
でもいつか、そう遠くない未来に、こんな気持ちで接することができればいいなぁと思ったのであります。
ペコロスの母に会いに行く・・・は、映画になるそうなので、完成がとっても楽しみです♪
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