ここ数年、中秋はお薬師さんにて観月会に参加させていただいております。
一緒に行く母に3時からの受付を頼み、オイラは半休をいただいて急いで西の京へ駆けつける。萩の花が咲く西の京にちょうど3時頃に到着でした。
御法話の会場に入る前に名月に縁のある話をまとめたレジュメをいただくのですが、何故かレジュメの最後の部分からお話される山田管主。いつも通り管主の楽しいご法話に、笑い満載デス。
「人はなぜ月を見るのか。」
電気のまだなかった時代、夜の闇を照らすのは月明かりだけであった。それは当時の人たちにとっては、非常にありがたいものであったはずだと。
月明かりには特別な想いがあるのだと。
奈良時代、日本は中国から高度な文化や技術を学ぶ為に、遣唐使を派遣します。
国家事業だったので、入唐船に乗船出来ることは誉れ高いことだったことでしょう。
しかしそれは、今日の船旅のような簡単なものではなく、常に難破と隣り合わせの命懸けの旅でした。
遣唐使といえば、真っ先に思い浮かべるのが阿倍仲麻呂であろう。
そして彼の詠んだ月の歌もあまりにも有名である。
また仲麻呂と並んで有名なのが、日本に戒壇を授けるために密航した鑑真和上。
753年、鑑真和上と仲麻呂は同じ船団で日本を目指します。
中国でも優秀な成果を収めた仲麻呂は、大使の藤原清川の乗る第一船へ。
第一船は一番頑丈に作られている船です。キャリア出身者や大切なお宝乗せる船だったのですね。
入唐僧である業行(ぎょうこう)は、二十余年の間、彼の地で写経を続け、それを日本へ持ち帰ります。その数7000巻と言われています。本人はノンキャリだったため第一船には乗れないのですが、彼の書き溜めた写経は非常に貴重で大切な経典です。この7000巻は第一船に乗せられました。
かたや密航を企ての鑑真は、こっそり隠れての乗船のため、副大使大伴古麻呂達が乗る第三・四船に乗船。
ご存知のように、これが二人の運命を分けるのであります。
第一船は難破。
業行の書き溜めた尊い経典も海の藻屑と消え、仲麻呂は一命を取り留めはしたものの唐へと戻ることを余儀なくされます。
この難破騒動の時に李白が詠んだ歌は「オペラ遣唐使」の時に紹介しましたね。
結果、仲麻呂は御蓋山(三笠山)に昇る月を想いながらも、唐の地で没します。
さて、一方。
九死に一生を得て日本に渡った鑑真さん。
この度重なる密航が元で、失明されたことは周知の事実。
なぜそんな思いをしてまで日本に行こうと思ってくださったのか。
2010年の観月会の記事にも少し触れていますが、長屋王が国政をしていたとき、ご自分の読まれた歌を刺繍したお袈裟を千着、お土産として入唐僧に持たせます。
これぞと思う僧に会った時に寄進して欲しいと想いです。
若い頃の鑑真がこのお袈裟を頂いていたんですね。
長屋王の歌
「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」
人は山川で境をことにするが、風も月も同じ天を巡る。
仏弟子よ寄り、共に縁を結ぼう。
鑑真和上はこの歌の「風月同天」を実行され、遥か彼方の諸仏子と縁を結ぶため、地を異にせず渡ってこられた訳です。
お月様の結ぶ縁。
国を超えて、時間を超えて、今にも繋がるお話ですよね。
この辺りから管主のお話が脱線し始めます。
いや、法話的には面白いし、目からウロコが多かったんですが、お月様からは脱線(笑)
高田和上の逸話。
・アームストロング船長の月面着陸は、拝む対象としてのお月様に足跡を付けるなんてもっての外だ!
・ソ連からのお土産がトイレットペーパー(しかも激硬)。こんな硬い紙で毎日拭いてる人たちに、柔らかい紙を使う日本人が勝てるわけがない云々。ホテルでは、ずっとペーパーを揉んでいたそうな。。。
などなど、いろんなお話を聞かせていただきました。
個人的に興味があったのは、乙巳の変のお話。
645年 飛鳥板蓋宮にて当時の大臣、蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足の企みによって誅殺される乙巳の変が勃発。後の大化の改新へと繋がる事変である。
息子入鹿の死を知った蘇我蝦夷は、自分の死期を悟り甘樫の丘の邸宅に火を放ち自害。蘇我宗家が滅亡する。
これは誰もが知っている歴史。
でもこの時に失われたものは、蘇我宗家だけではなかったこと。
問:国の中心で権力を振るった蘇我家の屋敷に何があったのか。
答:蘇我家が保管していたであろう日本の国の成り立ちを記した書物。
そうです。有力豪族が自家の歴史を記した書物は、国の成り立ちをも共に記しています。そのすべてが灰になってしまったんですね。
だから必要となった。
何が?
国史が。
そして約70年後に「日本書紀」の編纂される。
この乙巳の変以降、大化の改新を経て中臣家は藤原性を賜り、蘇我をもしのぐ権勢を振るいます。これは今日まで途切れることがありません。
そうして歌うんです。
「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることの なしと思えば」と。
あら。着地点がちゃんとお月様だった!(笑)
そのほか、大谷師の無言の「時間ですよ、管主。ご法話終わってください」の眼力プレッシャーを受けつつも、昨今の聖徳太子への冒とくとかいろいろな憤まんを交えてお話をしてくださいました。
いやはや。
毎度、笑いたくさん、でもその内容は自分のあり方を考えさせられる・・・そんなご法話でした。
ご法話の後の観月会までの間の話は、長くなったので次回に。
携帯からはこちら→■
一緒に行く母に3時からの受付を頼み、オイラは半休をいただいて急いで西の京へ駆けつける。萩の花が咲く西の京にちょうど3時頃に到着でした。
御法話の会場に入る前に名月に縁のある話をまとめたレジュメをいただくのですが、何故かレジュメの最後の部分からお話される山田管主。いつも通り管主の楽しいご法話に、笑い満載デス。
「人はなぜ月を見るのか。」
電気のまだなかった時代、夜の闇を照らすのは月明かりだけであった。それは当時の人たちにとっては、非常にありがたいものであったはずだと。
月明かりには特別な想いがあるのだと。
奈良時代、日本は中国から高度な文化や技術を学ぶ為に、遣唐使を派遣します。
国家事業だったので、入唐船に乗船出来ることは誉れ高いことだったことでしょう。
しかしそれは、今日の船旅のような簡単なものではなく、常に難破と隣り合わせの命懸けの旅でした。
遣唐使といえば、真っ先に思い浮かべるのが阿倍仲麻呂であろう。
そして彼の詠んだ月の歌もあまりにも有名である。
また仲麻呂と並んで有名なのが、日本に戒壇を授けるために密航した鑑真和上。
753年、鑑真和上と仲麻呂は同じ船団で日本を目指します。
中国でも優秀な成果を収めた仲麻呂は、大使の藤原清川の乗る第一船へ。
第一船は一番頑丈に作られている船です。キャリア出身者や大切なお宝乗せる船だったのですね。
入唐僧である業行(ぎょうこう)は、二十余年の間、彼の地で写経を続け、それを日本へ持ち帰ります。その数7000巻と言われています。本人はノンキャリだったため第一船には乗れないのですが、彼の書き溜めた写経は非常に貴重で大切な経典です。この7000巻は第一船に乗せられました。
かたや密航を企ての鑑真は、こっそり隠れての乗船のため、副大使大伴古麻呂達が乗る第三・四船に乗船。
ご存知のように、これが二人の運命を分けるのであります。
第一船は難破。
業行の書き溜めた尊い経典も海の藻屑と消え、仲麻呂は一命を取り留めはしたものの唐へと戻ることを余儀なくされます。
この難破騒動の時に李白が詠んだ歌は「オペラ遣唐使」の時に紹介しましたね。
結果、仲麻呂は御蓋山(三笠山)に昇る月を想いながらも、唐の地で没します。
さて、一方。
九死に一生を得て日本に渡った鑑真さん。
この度重なる密航が元で、失明されたことは周知の事実。
なぜそんな思いをしてまで日本に行こうと思ってくださったのか。
2010年の観月会の記事にも少し触れていますが、長屋王が国政をしていたとき、ご自分の読まれた歌を刺繍したお袈裟を千着、お土産として入唐僧に持たせます。
これぞと思う僧に会った時に寄進して欲しいと想いです。
若い頃の鑑真がこのお袈裟を頂いていたんですね。
長屋王の歌
「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」
人は山川で境をことにするが、風も月も同じ天を巡る。
仏弟子よ寄り、共に縁を結ぼう。
鑑真和上はこの歌の「風月同天」を実行され、遥か彼方の諸仏子と縁を結ぶため、地を異にせず渡ってこられた訳です。
お月様の結ぶ縁。
国を超えて、時間を超えて、今にも繋がるお話ですよね。
この辺りから管主のお話が脱線し始めます。
いや、法話的には面白いし、目からウロコが多かったんですが、お月様からは脱線(笑)
高田和上の逸話。
・アームストロング船長の月面着陸は、拝む対象としてのお月様に足跡を付けるなんてもっての外だ!
・ソ連からのお土産がトイレットペーパー(しかも激硬)。こんな硬い紙で毎日拭いてる人たちに、柔らかい紙を使う日本人が勝てるわけがない云々。ホテルでは、ずっとペーパーを揉んでいたそうな。。。
などなど、いろんなお話を聞かせていただきました。
個人的に興味があったのは、乙巳の変のお話。
645年 飛鳥板蓋宮にて当時の大臣、蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足の企みによって誅殺される乙巳の変が勃発。後の大化の改新へと繋がる事変である。
息子入鹿の死を知った蘇我蝦夷は、自分の死期を悟り甘樫の丘の邸宅に火を放ち自害。蘇我宗家が滅亡する。
これは誰もが知っている歴史。
でもこの時に失われたものは、蘇我宗家だけではなかったこと。
問:国の中心で権力を振るった蘇我家の屋敷に何があったのか。
答:蘇我家が保管していたであろう日本の国の成り立ちを記した書物。
そうです。有力豪族が自家の歴史を記した書物は、国の成り立ちをも共に記しています。そのすべてが灰になってしまったんですね。
だから必要となった。
何が?
国史が。
そして約70年後に「日本書紀」の編纂される。
この乙巳の変以降、大化の改新を経て中臣家は藤原性を賜り、蘇我をもしのぐ権勢を振るいます。これは今日まで途切れることがありません。
そうして歌うんです。
「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることの なしと思えば」と。
あら。着地点がちゃんとお月様だった!(笑)
そのほか、大谷師の無言の「時間ですよ、管主。ご法話終わってください」の眼力プレッシャーを受けつつも、昨今の聖徳太子への冒とくとかいろいろな憤まんを交えてお話をしてくださいました。
いやはや。
毎度、笑いたくさん、でもその内容は自分のあり方を考えさせられる・・・そんなご法話でした。
ご法話の後の観月会までの間の話は、長くなったので次回に。
↑ 何度もご法話を聞いていると、同じ内容のくだりが出てくることもあります。でも、何回聞いてもやっぱり「なるほど!」って思える。そんな薬師寺のお坊様のご法話にポチっとな☆
*・゜¨゜゜・*:ランキング参加中です:*・゜¨゜゜・* >
携帯からはこちら→■
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます