熊本といえば、熊本城! その熊本城は1607年、加藤清正によって築城されました。
ということで、今年は400年を向かえ、熊本城では12月31日からイベントが始まっています。
それにちなんで、新聞に熊本城に関する「お楽しみ検定」が掲載されていました。
断片的に知っていることもあるんですが、なかなか難しい問題です。
清正が熊本に来たのが27歳だったことや江戸城、名古屋城の築城にも関わっていたこと、50歳でなくなった後、その息子が熊本をうまく治められずに、出羽庄内(山形)に流されたことなど、知らなかったことがたくさんありました。
清正は建築だけでなく、治水にも長けていて、私の実家は、緑川の堤防のすぐ横にあるのですが、その堤防も清正によって作られたといわれていて、一部を二重にすることによって、堤防が決壊しないように工夫されています。
緑川から田んぼに水を引くために、何箇所かに堰を作っているんですが、流れが速く何度やっても流されてしまうところがあってどうしても出来なかったそうです。ある夜、清正が夢で鵜が川に並んでいるのをみて、その形に堰を作ったらうまくいったといわれている「鵜の瀬堰」というところもあります。
また堤防にはハゼの木植えられていて、ハゼの実でろうそくを作り、財源にしていたそうです。30年ほど前に堤防の改修をするときに、全部切られてしまって、今はありませんけどね。
その後に肥後の藩主となった細川忠興は、奥方が明智光秀の娘で後のガラシャ夫人です。関が原の合戦の前に人質のされようとして、命を絶ち、その墓は熊本の本妙寺にあります。
熊本入りするときに宮本武蔵も一緒についてきて、当時の兵法者の年俸が30石のときに3百石という破格の扱いを受けていたようです。島原の乱にも参戦し、反乱者の投石に当たって、足を負傷したという記録があります。
熊本にきて、霊厳洞というところで「五輪の書」を書いています。57歳で熊本に来て、62歳で亡くなっているんですが、細川公の参勤交代を見守りたいので、その街道沿いに埋めてくれという遺言だったそうです。
そこが武蔵塚と呼ばれていて、うちのすぐ近くにあります。
今、ご当地検定というのがはやりだそうで、熊本版もできているみたいです。
自分の生まれ育ったところなので、もっと知識を増やさないといけませんね。
ということで、今年は400年を向かえ、熊本城では12月31日からイベントが始まっています。
それにちなんで、新聞に熊本城に関する「お楽しみ検定」が掲載されていました。
断片的に知っていることもあるんですが、なかなか難しい問題です。
清正が熊本に来たのが27歳だったことや江戸城、名古屋城の築城にも関わっていたこと、50歳でなくなった後、その息子が熊本をうまく治められずに、出羽庄内(山形)に流されたことなど、知らなかったことがたくさんありました。
清正は建築だけでなく、治水にも長けていて、私の実家は、緑川の堤防のすぐ横にあるのですが、その堤防も清正によって作られたといわれていて、一部を二重にすることによって、堤防が決壊しないように工夫されています。
緑川から田んぼに水を引くために、何箇所かに堰を作っているんですが、流れが速く何度やっても流されてしまうところがあってどうしても出来なかったそうです。ある夜、清正が夢で鵜が川に並んでいるのをみて、その形に堰を作ったらうまくいったといわれている「鵜の瀬堰」というところもあります。
また堤防にはハゼの木植えられていて、ハゼの実でろうそくを作り、財源にしていたそうです。30年ほど前に堤防の改修をするときに、全部切られてしまって、今はありませんけどね。
その後に肥後の藩主となった細川忠興は、奥方が明智光秀の娘で後のガラシャ夫人です。関が原の合戦の前に人質のされようとして、命を絶ち、その墓は熊本の本妙寺にあります。
熊本入りするときに宮本武蔵も一緒についてきて、当時の兵法者の年俸が30石のときに3百石という破格の扱いを受けていたようです。島原の乱にも参戦し、反乱者の投石に当たって、足を負傷したという記録があります。
熊本にきて、霊厳洞というところで「五輪の書」を書いています。57歳で熊本に来て、62歳で亡くなっているんですが、細川公の参勤交代を見守りたいので、その街道沿いに埋めてくれという遺言だったそうです。
そこが武蔵塚と呼ばれていて、うちのすぐ近くにあります。
今、ご当地検定というのがはやりだそうで、熊本版もできているみたいです。
自分の生まれ育ったところなので、もっと知識を増やさないといけませんね。