山岳ガイド赤沼千史のブログ

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木崎湖辺りへちょっと寄り道

2014年02月07日 | スキー

 

一月の中頃からスキーに行き始めて、もう何回ぐらい通っただろうか。二日に一回ぐらいのペースでスキーをしている。やり始めると毎回その時の課題が出来て、何とかそれを体現したくてついつい足を運んでしまう。スキーは半日もやれば沢山だ。と言うか僕がひとりでゲレンデに行く時はレジャーとして行くわけではなくて、練習する気持ちで行くから途中で休んだりしないし、ましてやビールなんて絶対飲まない。滑り初めて三時間もやると足はパンパンになり、押さえが効かなくなってくる。そうすると怪我も心配になるし、さっさと帰ることにしている。

 

 ゲレンデに向かおうと、未だ明けやらぬ中を大町辺りまで車を走らせると、一足早く鹿島槍辺りに陽がさし始めていた。大町市街地は鷹狩山が陰になってまだ薄暗いままだ。山にいても里で暮らしていても朝日はなんてドラマチックなんだろう。いつも僕はドキドキしてしまう。僕の家の正面にはいったい何万回見あげたのか解らない有明山が聳えているのだが、それも決して僕を飽きさせる事は無い。 

 木崎湖にさしかかると、多分今年初めてだとは思うが湖面が結氷し始めていた。凍っていない水面からは朝靄が立ち登り、僕は心を鷲掴みされてしまった。昨日雪が降ったはずだから、ゲレンデへとはやる気持ちもあるのだが、写真もその時しか撮れない場面がそこには有って、さて、どちらを優先させるのかと考える事は実に悩ましく、運転をしながら僕は喜びと興奮に身もだえるのだ。今日は朝靄を透かして黄金に輝く斜光があまりにも美しくて木崎湖畔へとハンドルを切った。

 西側の木崎湖畔をぐるりと回って撮影をした。この湖畔南側にはちょっとした街があって、かつては旅館やら土産物店やらが建ち並び夏には湖水浴場にもなって、それなりの賑わいを見せていたはずなのだが、今ではやっているのかいないのか解らない宿が多く、数件の貸しボート屋と釣り具店が商売をしているだけになっている。だが、そんな鄙びた佇まいも僕は好きだ。それはまるで数十年間も時が止まっているかのようだ。昭和がそこにはある。湖畔の道を行き交った人々の賑わいや笑い声さえ封印されたままだ。

 

 水鳥たちがのんびり浮かんでいる。潜ったりしているのはバンだろうか。こいつら冷たくないのかね?立ちこめる朝靄、岬の先に集うアオサギの群れ、対岸を通ったボートの挽き波が音も無くこちら側に押し寄せてくる。逆光に浮かぶ湖面の光と影、雪原を歩いて湖畔に近づく、誰も居ない湖面で見る贅沢な朝の光景。

 

 陽が高くなって僕は八方尾根スキー場に向かった。深雪を目指していたのだが、降ったはずの雪はそれほどでもなくて、圧雪していない斜面はガリガリの氷の上に新雪がわずかに乗っている程度だった。金具が吹っ飛ぶんじゃないかと思うほどスキー板はバタバタと暴れ、ターンすれば引っかかり、よほど快適とはほど遠いコンディションだ。転んだら酷い目に会う。こんな時は頭を切り替えて圧雪斜面を楽しむ。今日は、スピードを出さず、抑制的にじっくり深く回る。でもそれは、決していい加減な滑りではダメだ。力をしっかりと板に伝え、雪面からの答えを足の裏に受け止める。大切に大切に一つ一つのターンをこなす。イメージはそんな滑りだ。

 スキーは難しい、だからこそ面白い。滑っても滑っても逃げ水のように新たな課題がその先に見えてくる。それは歳をとったからもう遅いとか、そんな類のものではない。体力に任せてかっ飛ばすそう言う乱暴な技術でもない。それは、もっと数学的で、物理学的な技術だ。落下する肉体と雪面との対話を試みるものだ。ほんとは様々な公式や計算式が必要なはずのその技術が、ストンと理屈抜きで体に入り込むまで僕はスキーを辞められない。自由自在を手に入れるまでね。そしてそれはきっと完璧に美しいはずだ。 

 帰り道、再び通った木崎湖畔で、僕はふとそんな事を頭に思い浮かべるのだった。

木崎湖辺りへちょっと寄り道