先週に引き続き、かぜで休釣しました。
さて、ちょっと前に、魚や動物の脳の中に学習システムが備わっているということを書きました。
眼を持った生き物は「眼」と、それに付随する大掛かりな装置を維持するために、より質の高い餌を確保しなくてはならず、そのために、眼を持たない生き物に対して生態的優位を保つために、眼を積極的に活用した行動戦略を展開するでしょう。そしてそのため主として「予測」を取り入れて捕食活動を行っているのではなかろうか、ということでした。そしてその「予測」という能力は、眼を持たない生き物にとっては必ずしも必要なものではありませんでした。予測能力は、生物体が「眼」を持たなければ、決して発達させる機会を持つことがなかったはずのものでした。
予測には予測が外れるというエラーが付き物であり、予測能力を高めるためには、高度な学習システムというものがどうしても必要でした。
そしてその学習システムの中に、「報酬記憶」や「罰記憶」という仕組みがあるのでした。「罰記憶」は危機的な状況に置かれた時にそれを「不快」であると認識するための仕組みでした。そしてそれは、ヒスタミンのような不快物質が分泌されるわけではなく、快物質であるドーパミンの平時のトニック発火が一時的に遮断されるという、いささかトリッキーな仕組みによって構築されているということが報告されていました。
あらゆる生き物は、生存に必要な能力をあらかじめ装備した状態で生まれてくるわけではなく、神経系の成長に従って、徐々に高度な能力を獲得しながら完成させて行くわけです。そのことを踏まえて見ると、高等動物が持つ「危険」や「不快」を感じ取る仕組み、罰記憶というのは、それ自体がさまざまな可能性を秘めた、一つのシステムだと考えることもできるかと思います。そこでこの罰記憶から発展した仕組みを「罰システム」と呼ぶことにしましょう。
もともとは「危険」に対する「不快感」であったものが、段階を経て、予測エラーに対しての「罰」、認知エラーに対しての「罰」、記憶エラーに対しての「罰」、行動エラーに対しての「罰」、というふうに、高度化・複雑化したのではないか、という推測です。魚には感情というものがほとんどないのに対して、人間には彼くも複雑多様な感情があるということは、その背景に、こうした「罰システム」の存在があるんだろうと思います。
神経細胞は刺激を受けることによって成長し、刺激がなくなると、死にます。罰システムが成長して高度化・複雑化するためには、どこかから刺激をもらわなくてはなりません。ところがここまでの前提では、罰システムはあくまでも学習のためのシステムですから、感覚器官とはどことも接触していないことになるわけです。するとどこか別な神経細胞から刺激を受け取っていなくてはならないことになります。一体それは脳のどこにあるのでしょうか?
残念ながら科学のメスがそこまで及んでいないので、どこにあるのか探すのはひとまず諦めて、学習のために存在する罰システムが永遠にどこまでも高度化・複雑化を続けたらどうなるかということを検討してみましょう。
罰システムは、予測、認知、照合、行動といった高度な情報処理の処理精度を高めるのに一役買っているわけです。例えばコンピュータ制御のロボットのことを考えてみます。あるロボットは、水平でも上り坂でも下り坂でも上手に歩くことができますが、限りなく水平に近い微妙な下り坂の時に、簡単によろけてしまうという不具合が見つかっているとします。ロボットの持ち主はメーカーに問い合わせて、「水平状態と下り坂を判定するアルゴリズムをもっと高度なものにせい!」と言います。メーカーは修正プログラムを送ってきます。主人はさっそくプログラムを書き換えます。ロボットは無事に、微妙な下り坂でもよろけることなく歩くようになります。
動物の場合は、DNAの中に行動のプログラムが書かれているわけではありません。ですから、自分でプログラムを習得し、更新する能力を持っていなくてはなりません。そのためには、ともかく第一義的に、プログラムの可否を判定する仕組みがなくてはなりません。自分自身のアルゴリズムの完成度をチェックする仕組みが、何よりもまずエッセンシャルな機構だということが言えると思います。
このようなものが「罰システム」の姿だとすれば、動物が(充分な経験を積み)成体となり、情報処理の精度を高めてしまえば、あとは必要ない仕組みなんだということが言えるかと思います。例えばカワウソで言えば、泳ぎ回る魚を上手に捕まえることができるようになってしまえば、行動に関与するアルゴリズムをこれ以上高度化する必要はないわけです。けれども一人前のカワウソといえども、5回に1回、あるいは10回に1回ぐらいは獲物を獲り損なうことがあるでしょう。そしてこの「獲り損なう」という行動エラーが完全になくならない限り、永遠にこの種の行動チェック機構は死なないわけです。
そして魚を獲ろうとする行動、捕食行動をとる際に活発化されるオレキシン神経系は、感覚入力にも跨がっているため、誤動作すると幻覚症状を起こしたりすることが報告されています。ということは、ありもしない障害物が一瞬見えたりとか、魚を首尾よく袋小路に追い込んだにも関わらず逃げられたように錯覚してしまうといったようなことが実際に起こりうる、ということです。ですからもしひとたびオレキシン神経系の誤動作が起きれば、ここぞとばかりに罰システムが勢いを増してくることになるでしょう。アルゴリズム的には全く問題がないのに、「修正しろ!」という要求が来てしまうわけです。
こうなってくると、もう悪くなる一方で、今までは上手に獲れていたのに、なぜか魚を獲り逃すばかりで、カワウソはスランプに陥ることになります。突然魚を獲ることができなくなってしまったカワウソは、自分でもその原因がわからないでしょう。まっすぐ泳ぐといった、それまで自然にできていたことも、ずっと眼で確認しながら行うことになります。そうするとやがてアルゴリズムの作り直しは単純な行動調整にも及び、最終的には、泳ぐこともままならなくなることでしょう。
話は変りますけど、ネコは、といっても昔のタイプのネコですが、突然家出をして、1週間も2週間も帰ってこなくなるということがよくあります。それで、もうどこかで死んでしまったんじゃないかと心配していると、ある日突然ひょっこりと戻ってきたりするわけです。
ネコ科動物は特にすばやく動くものを捕まえることで生きているわけですから、暑い時など情報処理がうまくいかなくなるということをよく知っていて、そういう状態になった時に住む環境を変えて、また上手に獲物を獲れるようになるまで待つという知恵が身に付いているのではないでしょうか。
ハムスターなどのネズミは、他の哺乳類と比較して、著しく寿命が短いのだという話を聞いたことがあります。そしてその理由として、代謝スピードの違い、呼吸の回数などから、生物時計が違うからとされています。でも、生物時計が違うとどうして寿命にも差が出てくるのか、という納得のできる説明というのは聞いたことがありません。たぶんハムスターなどはネコのようなリセットの仕組みを持っていないため、歳をとって悪循環のプロセスが始まると、そのまま行動能力が減退してそのまま衰えて行くんだと思います。
ネズミといえば、哺乳類の先祖。その元祖哺乳類の仕組みを身体に残しているといわれています。ネズミの学習能力がいくら高くても、学習システムそのものが自発的に死のうとする仕組みが備わっていない限り、ネズミが高齢化してさまざまな身体能力が低下し始めた矢先に、まだ運動能力が低下していない他の器官のソフトウェアをも攻撃し始めるだろうことは充分に予想されることです。そうすると求愛行動をとったり、山奥で配偶者に巡り合うというような、難易度の高い行動や稀にしか達成できないような行動を身に付けることはほとんど不可能でしょう。ところが突然いなくなるネコのように学習システムの暴走をリセットできる可能性が生まれたことで、これほど多様な哺乳類の出現につながったと思います。そしてそれが、もしかしたら哺乳類の寿命の延長に役立ったんではないかと…。
イヌでもネコでも、はたまた牛や馬、ゾウやサイなんかでも結構ヨボヨボになってからもしばらく生きるというか余生を送る感じがします。ですけど考えてみると確かにヨボヨボのネズミというのはあんまりいないような気もしますしね。
もしかして、どれだけ進化しても、「完全な学習」は存在しない!?
さて、ちょっと前に、魚や動物の脳の中に学習システムが備わっているということを書きました。
眼を持った生き物は「眼」と、それに付随する大掛かりな装置を維持するために、より質の高い餌を確保しなくてはならず、そのために、眼を持たない生き物に対して生態的優位を保つために、眼を積極的に活用した行動戦略を展開するでしょう。そしてそのため主として「予測」を取り入れて捕食活動を行っているのではなかろうか、ということでした。そしてその「予測」という能力は、眼を持たない生き物にとっては必ずしも必要なものではありませんでした。予測能力は、生物体が「眼」を持たなければ、決して発達させる機会を持つことがなかったはずのものでした。
予測には予測が外れるというエラーが付き物であり、予測能力を高めるためには、高度な学習システムというものがどうしても必要でした。
そしてその学習システムの中に、「報酬記憶」や「罰記憶」という仕組みがあるのでした。「罰記憶」は危機的な状況に置かれた時にそれを「不快」であると認識するための仕組みでした。そしてそれは、ヒスタミンのような不快物質が分泌されるわけではなく、快物質であるドーパミンの平時のトニック発火が一時的に遮断されるという、いささかトリッキーな仕組みによって構築されているということが報告されていました。
あらゆる生き物は、生存に必要な能力をあらかじめ装備した状態で生まれてくるわけではなく、神経系の成長に従って、徐々に高度な能力を獲得しながら完成させて行くわけです。そのことを踏まえて見ると、高等動物が持つ「危険」や「不快」を感じ取る仕組み、罰記憶というのは、それ自体がさまざまな可能性を秘めた、一つのシステムだと考えることもできるかと思います。そこでこの罰記憶から発展した仕組みを「罰システム」と呼ぶことにしましょう。
もともとは「危険」に対する「不快感」であったものが、段階を経て、予測エラーに対しての「罰」、認知エラーに対しての「罰」、記憶エラーに対しての「罰」、行動エラーに対しての「罰」、というふうに、高度化・複雑化したのではないか、という推測です。魚には感情というものがほとんどないのに対して、人間には彼くも複雑多様な感情があるということは、その背景に、こうした「罰システム」の存在があるんだろうと思います。
神経細胞は刺激を受けることによって成長し、刺激がなくなると、死にます。罰システムが成長して高度化・複雑化するためには、どこかから刺激をもらわなくてはなりません。ところがここまでの前提では、罰システムはあくまでも学習のためのシステムですから、感覚器官とはどことも接触していないことになるわけです。するとどこか別な神経細胞から刺激を受け取っていなくてはならないことになります。一体それは脳のどこにあるのでしょうか?
残念ながら科学のメスがそこまで及んでいないので、どこにあるのか探すのはひとまず諦めて、学習のために存在する罰システムが永遠にどこまでも高度化・複雑化を続けたらどうなるかということを検討してみましょう。
罰システムは、予測、認知、照合、行動といった高度な情報処理の処理精度を高めるのに一役買っているわけです。例えばコンピュータ制御のロボットのことを考えてみます。あるロボットは、水平でも上り坂でも下り坂でも上手に歩くことができますが、限りなく水平に近い微妙な下り坂の時に、簡単によろけてしまうという不具合が見つかっているとします。ロボットの持ち主はメーカーに問い合わせて、「水平状態と下り坂を判定するアルゴリズムをもっと高度なものにせい!」と言います。メーカーは修正プログラムを送ってきます。主人はさっそくプログラムを書き換えます。ロボットは無事に、微妙な下り坂でもよろけることなく歩くようになります。
動物の場合は、DNAの中に行動のプログラムが書かれているわけではありません。ですから、自分でプログラムを習得し、更新する能力を持っていなくてはなりません。そのためには、ともかく第一義的に、プログラムの可否を判定する仕組みがなくてはなりません。自分自身のアルゴリズムの完成度をチェックする仕組みが、何よりもまずエッセンシャルな機構だということが言えると思います。
このようなものが「罰システム」の姿だとすれば、動物が(充分な経験を積み)成体となり、情報処理の精度を高めてしまえば、あとは必要ない仕組みなんだということが言えるかと思います。例えばカワウソで言えば、泳ぎ回る魚を上手に捕まえることができるようになってしまえば、行動に関与するアルゴリズムをこれ以上高度化する必要はないわけです。けれども一人前のカワウソといえども、5回に1回、あるいは10回に1回ぐらいは獲物を獲り損なうことがあるでしょう。そしてこの「獲り損なう」という行動エラーが完全になくならない限り、永遠にこの種の行動チェック機構は死なないわけです。
そして魚を獲ろうとする行動、捕食行動をとる際に活発化されるオレキシン神経系は、感覚入力にも跨がっているため、誤動作すると幻覚症状を起こしたりすることが報告されています。ということは、ありもしない障害物が一瞬見えたりとか、魚を首尾よく袋小路に追い込んだにも関わらず逃げられたように錯覚してしまうといったようなことが実際に起こりうる、ということです。ですからもしひとたびオレキシン神経系の誤動作が起きれば、ここぞとばかりに罰システムが勢いを増してくることになるでしょう。アルゴリズム的には全く問題がないのに、「修正しろ!」という要求が来てしまうわけです。
こうなってくると、もう悪くなる一方で、今までは上手に獲れていたのに、なぜか魚を獲り逃すばかりで、カワウソはスランプに陥ることになります。突然魚を獲ることができなくなってしまったカワウソは、自分でもその原因がわからないでしょう。まっすぐ泳ぐといった、それまで自然にできていたことも、ずっと眼で確認しながら行うことになります。そうするとやがてアルゴリズムの作り直しは単純な行動調整にも及び、最終的には、泳ぐこともままならなくなることでしょう。
話は変りますけど、ネコは、といっても昔のタイプのネコですが、突然家出をして、1週間も2週間も帰ってこなくなるということがよくあります。それで、もうどこかで死んでしまったんじゃないかと心配していると、ある日突然ひょっこりと戻ってきたりするわけです。
ネコ科動物は特にすばやく動くものを捕まえることで生きているわけですから、暑い時など情報処理がうまくいかなくなるということをよく知っていて、そういう状態になった時に住む環境を変えて、また上手に獲物を獲れるようになるまで待つという知恵が身に付いているのではないでしょうか。
ハムスターなどのネズミは、他の哺乳類と比較して、著しく寿命が短いのだという話を聞いたことがあります。そしてその理由として、代謝スピードの違い、呼吸の回数などから、生物時計が違うからとされています。でも、生物時計が違うとどうして寿命にも差が出てくるのか、という納得のできる説明というのは聞いたことがありません。たぶんハムスターなどはネコのようなリセットの仕組みを持っていないため、歳をとって悪循環のプロセスが始まると、そのまま行動能力が減退してそのまま衰えて行くんだと思います。
ネズミといえば、哺乳類の先祖。その元祖哺乳類の仕組みを身体に残しているといわれています。ネズミの学習能力がいくら高くても、学習システムそのものが自発的に死のうとする仕組みが備わっていない限り、ネズミが高齢化してさまざまな身体能力が低下し始めた矢先に、まだ運動能力が低下していない他の器官のソフトウェアをも攻撃し始めるだろうことは充分に予想されることです。そうすると求愛行動をとったり、山奥で配偶者に巡り合うというような、難易度の高い行動や稀にしか達成できないような行動を身に付けることはほとんど不可能でしょう。ところが突然いなくなるネコのように学習システムの暴走をリセットできる可能性が生まれたことで、これほど多様な哺乳類の出現につながったと思います。そしてそれが、もしかしたら哺乳類の寿命の延長に役立ったんではないかと…。
イヌでもネコでも、はたまた牛や馬、ゾウやサイなんかでも結構ヨボヨボになってからもしばらく生きるというか余生を送る感じがします。ですけど考えてみると確かにヨボヨボのネズミというのはあんまりいないような気もしますしね。
もしかして、どれだけ進化しても、「完全な学習」は存在しない!?